第13話

文字数 4,238文字

 その日は週末で、珍しく夜の八時頃に両親が揃って帰宅した。だが一時間と経たずにまず父親が車で外出し、続けて母親が徒歩でどこかへ行った。地震が起こったのは、それから間もなくだった。
 監視をした二週間の間に三度ほど地震が起こり、そのたびに窓を叩いて気を逸らした。だがその時は、それで収まらなかった。
 次第に大きくなる揺れ。このままでは周辺どころか市全体に被害が及ぶ。
 仕方なく、窓とカーテンの隙間に小さな水龍を数体形成し、香苗の部屋の窓の鍵を開けさせた。その間にも揺れは大きくなってゆく。勢いよく窓とカーテンを開け、室内に踏み込んだ。
「止めぬか」
 突然の侵入者に、香苗は弾かれたように飛び起き、反射的に壁際に後ずさった。大きな目をさらに大きくさせ、潤んだ目と涙の跡が残る顔で右近を見据える。
 揺れが収まる中、ゆっくりとベッドの側まで歩み寄り、香苗を見下ろした。
「お前が泣くたびに、大地が震え地震となる。揺れは日に日に大きくなるばかりだ。京の都を沈める気か」
 ごく当然のように問うたが、通じるはずがなかった。鼻をすすりながら、何を言っているのか分からないと言いたげに目をしばたく。
 右近は小さく息をついた。
「お前は、頻繁に起こる地震に気が付いていたか?」
 出来るだけ落ち着いた声色で問いかけるが、香苗は状況が把握できないのか答えない。だが、何故か見据えてくるその目に、恐れはなかった。ならば驚きで状況判断が遅れているのだろう。しばらく待つかと思った時に気が付いた。香苗の視線が、周囲をゆったりと漂う水龍を追っている。
 右近がついと指先を向けると、一体の水龍が空を滑るように香苗の元へ飛んだ。目の前で踊るように浮遊する水龍をせわしなく目で追いかける。水龍が目の前で体をくねらせて止まると、観察するように見つめ、やがて恐る恐る手を伸ばした。指先で、鼻先にちょんと触れる。そこから全身に波紋が伝わり、また再び元の姿を形成する。
 香苗は驚いた顔で手を引っ込めて胸の前で握り、そして、右近を見上げた。
「少しは、落ち着いたか」
 何度かの瞬きのあと、香苗はぽつりと問うた。
「誰……?」
「名は右近。水神の眷属神であり、式神だ」
 香苗はまた目をしばたいた。
「……神、様……?」
「そうだ」
 ゆっくりとだが頭が回り始めたらしい。香苗は重ねて問うた。
「あの……、前に、ベランダに、いたのは……」
「私だ」
「……窓を、叩いていたのは……」
「それも私だ」
 香苗は思案するように目を落とし、ゆらりと上げた。
「あたしの、せい……?」
「そうだ」
「……どうして……」
 何度も同じことが起これば、さすがに気付くだろう。迷いなく肯定した右近に、香苗は困惑した表情を浮かべ、また目を落とした。
「平安の時代、陰陽師が実在していたことは知っているな?」
 脈絡のない右近の質問に香苗は顔を上げ、一拍置いて戸惑いつつも頷いた。
「お前には、陰陽師としての素質が備わっている。ここ最近、一帯に起こっていた地震はお前の霊力によるものだ」
 香苗の目が大きく見開いた。
「お前の力は、大地に属する。大地の神と相性が良いのだ。ゆえにお前が泣くたびに大地が揺れ、地震が起こっていた。私は窓を叩くことでお前の気を逸らし、揺れを収めていたのだ。だが、今宵はそれだけで収まらなかった。だから再び、お前の前に姿を現した」
 右近の言葉の意味を理解しようとしているのか、香苗はせわしなく視線を泳がせる。
「お前は」
 一旦言葉を切り、香苗が視線を寄越してから問う。
「何故、ああも嘆いていた?」
 香苗が息を詰まらせたのが分かった。俯き、肩を竦め、胸で握った両手にさらに力を込める。言いたくない、という雰囲気が漂っている。だが、ここで放置するわけにはいかない。右近は重ねて告げた。
「ただ泣くだけで大地が揺れるわけではない。お前の強い感情に刺激されて霊力が目覚め、しかし扱い方を知らぬがゆえに、暴走した。このままでは、さらに被害は大きくなるぞ」
 半ば脅しのような説得に、香苗はますます身を縮ませる。意外と頑固者なのか、それともよほど他人に知られたくないのか。目の前にいる男とも女とも判別し難い人物は神で、地震は自分のせいだと認識していれば、理解できないはずがない。だが、受け入れるには少々時間が必要か。
 右近は考え込む香苗から顔を逸らし、部屋をぐるりと見渡した。
 押入れがないわりには、きちんと整理された和室。ベッドと机とカラーボックス、五段の衣装ケースにハンガーラックが設置され、床には学校指定の鞄と補助鞄が置かれている。無駄な物がない、簡素な部屋。中学生の少女なら、ぬいぐるみや小物、趣味の物など、自分のこだわりがあってもよさそうなものを。この部屋は、そんな主張がない。
 さらに視線を巡らせると、隣はキッチンとリビングダイニングだ。襖が開けっ放しになっている。こちらもまた綺麗に整理整頓が行き届いている。テレビにローテーブル、ソファ。さして広くないためか、ダイニングテーブルはなく、やはり無駄な物がない。
 ふと、キッチンカウンターに並んだ食器に目を止めた。
 おもむろにキッチンへと足を向けた右近を、香苗は慌ててベッドから下りて追いかけた。
「あ、あの……っ」
 三人分の茶碗とお椀。カウンター越しにキッチンを覗くと、作業台の上に野菜が敷かれた皿が三枚。コンロには味噌汁が入った片手鍋と、生のままの肉の塊が並んだフライパンが置かれている。
「ハンバーグか?」
 右近が振り向いて尋ねると、香苗は後ろで足を止め、こくりと頷いた。
「食事を作っておいて、食べずに出掛けたのか」
 このままでは無駄になるだろうに。なんて罰当たりな。右近が嘆息すると、香苗はぼそぼそと言った。
「あ、あたしが、作ったので……焼いて、冷凍するので、大丈夫です……」
 今度は右近が目をしばたく番だった。
「お前が? 味噌汁も、全部か」
 はいと香苗は首を振った。洗濯に掃除、買い物。加えて食事の支度。まさか。
「お前、家事を全て一人でやっているのか」
 香苗は俯いたまま口をつぐんだ。沈黙は肯定だ。
「それは、お前が自ら望んでしていることか」
 香苗は逡巡し、言った。
「は、初めは、そうでした……」
「今は違うのか」
 また口をつぐんだ。
 右近は体ごと振り向き、正対した。
「何があった」
 少し強い口調で問うと、香苗は前で組んだ両手をぎゅっと握り締めた。まるで叱られる前の子供のような仕草。
「先程も言ったが、このままでは被害が拡大する。策を講じる必要があるのだ。話せ」
 さらに口調を強めると、香苗は怯えたように身を縮めた。夫婦喧嘩の声は響いていたが、もしかするとこれは。
「お前、両親から暴力を受けてはいないだろうな」
 率直に問うた右近に、香苗が勢いよく顔を上げて首を横に振った。
「それはないです!」
 細切れだった言葉が、初めてまともに繋がった。本当らしい。
「では、何故頻繁に泣いていた。不仲な両親を見て、不安になったか」
 また俯いた香苗の顔を、右近は苛立ったように両手で頬を挟んで上を向かせた。
「下を向くな。答えろ」
 ぎゅっと唇を噛んだと思ったら、覗き込んだ黒い瞳がゆらりと揺れ、じわりと涙が滲む。またずいぶんと泣き虫な。
「お……、お前は、ウザいって……」
 ぽつりと呟かれた言葉に、右近は眉をひそめた。
「鈍くて、気も、利かなくて……っ、辛気臭い、から、見てるだけで気が滅入るって……っ」
「……常日頃から、そう言われているのか」
 頷く代わりに瞬きをした瞳から、涙がこぼれ落ちた。
「今日も、言われたか」
 今度はわずかに首を横に振った。
「し、施設に……」
 大粒の涙が頬を伝う。
「離婚、するから……っ、施設に入れって……っ」
 右近は目を瞠った。それはつまり、どちらも香苗を引き取る気がないということだ。寮にいる者たちの姿が脳裏に浮かんだ。
「あたしは……っ、もういらないの……ッ」
 顔を歪ませ、とめどなく溢れ出る涙と共に吐き出された言葉に、右近は痛々しげに目を細めた。
 子を作り、産んでおいて、都合が悪くなったら自ら手放す。そうしたくなくてもせざるを得ない親もいるというのに、授からずに悲しむ者もいるというのに。
 なんと身勝手な。
「そのようなことはない。自分を、そんな風に言うな」
 囁くように告げると、右近はゆっくりその胸に香苗を抱き込んだ。小刻みに震える小さな体と押し殺した嗚咽が、痛いほど胸を締めつける。
 先程、暴力を振るわれていないかと問うた時、香苗はまるで庇うように否定した。日常的に暴言を浴びせられ、自分たちの都合だけで施設に入れと言われてなお、彼女は両親を慕っているらしい。
 右近は自分を律するように目を伏せた。
 決めるのは、あくまでも香苗自身。これは式神である自分の範疇ではない。主に報告をし、主が決めること。主の許可なしにするべきことではない。
 しかし、このままでは――。
「香苗」
 右近はゆっくりと腕を解いた。香苗の肩を優しく掴み、体から離す。
「お前には、まだ選べる道がある」
 拭っても拭っても溢れる涙を必死に止めようとする香苗を見下ろし、右近は言った。
「お前と同じ力を持つ者たちが、共に暮らしている場所がある」
 しゃっくりのような引き攣った声を漏らしながら、香苗が顔を上げた。
「私の主は、賀茂忠行を祖に持つ賀茂家当主・賀茂宗一郎だ。現在、寮と呼ばれる場所に住まう陰陽師らを束ねる立場にある。陰陽師らはそこで訓練を受け、悪鬼――悪霊を調伏する仕事を担っている。お前と同じ年頃の者もいる。もしお前にその気があれば、私から主に進言してみよう」
 突然過ぎるのは分かっている。けれど、早々に手を打たなければならない気がした。例え両親から離れ、家事や暴言から解放されたとしても、見放されたという現実は彼女の心を深く傷付ける。そうなれば、次は何がきっかけで霊力が暴走するか分からない。おそらく小さな地震では済まない。目の届く場所で、監視する必要がある。
 きょとんとした顔で見上げてくる香苗を見据え、右近は続けた。
「明日、また来る。よく考えて答えを出せ。いいな」
 右近はまだ乾き切らない涙を指先で拭い、頬をひと撫ですると、和室の方へ足を向けた。香苗は何か言いたげに振り向いたが、結局言葉を飲み込んだ。
 宗一郎には、包み隠さず報告した。叱責は受けなかったが、彼は何故か終始楽しげな笑みを浮かべ、また同席した左近は意外そうに目を丸くしていた。
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