第3話

文字数 2,494文字

      *・・・*・・・*

 自分でも驚くほどの集中力を発揮したはずだが、報告書と始末書を書き終えたのは、深夜をとっくに回った時間だった。もう署に泊まろうかとも思ったのだが、何せ埃っぽい。着替えもない。仕方なく帰宅し、シャワーを済ませて布団にダイブしたのが夜中の三時。そして飛び起きたのが七時半。睡眠時間、四時間半。
 紺野はあくびを噛み殺しながら出勤し、大あくびをしてから一課の扉をくぐった。
「おはようございます……」
 目をしぱしぱさせながら、これっぽっちも覇気のない挨拶に返ってきたのは、沈黙だった。
「ん」
 さすがに違和感を覚えてしっかり瞼を持ち上げると、異様な光景が広がっていた。あちこちで同僚たちが輪になり、腫れものでも見るような目でこちらを見てこそこそと話している。まるで、後ろめたいことをして近所の噂になったような、居心地の悪い空気だ。
 何だ?
 緒方か沢村が何か知っているかもと思い室内を見渡す。緒方は席を外していたが、沢村がちょうど腰を上げた。
「紺野」
 先に声をかけたのは一課長だ。
「それと、沢村」
 一課長は、二人へちょいちょいと手招きをした。昨日のことなら沢村を呼ぶ必要はない。一体何だ。
 紺野は困惑顔を浮かべ、意味の分からない視線を向ける同僚たちの間を縫うと、一課長のデスクの前で立ち止まった。隣に沢村が並び、一課長がおもむろに立ち上がる。そして、至極真剣な眼差しで紺野と沢村を交互に見やった。
「お前ら、手ぇ出せ」
「は?」
 紺野が素で聞き返し、沢村が小首を傾げた。さすがの沢村もきょとん顔だ。
「いいから、手ぇ出せ」
 いっそ睨むような目で見据えられ、紺野と沢村は恐る恐る右手を差し出す。すると一課長は、握った両手をすっと持ち上げ、何を思ったかそれぞれの手のひらに置いた。そして、これまた神妙な面持ちで告げた。
「いいか。俺の目の黒いうちは、殉職なんて許さねぇからな」
 二人揃って返す言葉を失った。何言ってんだこのおっさ、いや、一課長は。ぽかんと間抜けな顔をした二人をよそに、一課長はさらに付け加えた。
「お祓い、行っとけよ?」
 慎重に念を押すように言って手を引いたあとには、橙色のお守りが一つずつ乗っかっていた。
 あれか――――!
 紺野は心の中で叫び、顔を覆った。以前、呪われてるんじゃないかと言われたやつだ。要するに、昨日の近藤の事件で冗談が冗談ではなくなり、むしろ現実味を帯び始めてしまったらしい。ということは、同僚たちの不可解な態度もそれが原因か。
 そろそろと後ろを振り向くと、同僚たちはさっと顔を逸らしてそそくさと解散した。腫れものというよりは疫病神に近い。ここは本当に警察か。
 勘弁してくれとうんざりする紺野とは反対に、沢村はしばし思案して顔を上げた。
「一課長、お気遣い感謝します。十分注意して、捜査に当たります」
 その返事は呪いを肯定したことになりはしないか。姿勢を正し、一礼をした沢村に倣って紺野も慌てて頭を下げる。よし、と満足そうに大きく頷いて、一課長は椅子に座り直した。
「紺野、行こう」
「あ、はい」
 大事そうに橙色のお守りを内ポケットにしまい、踵を返す沢村に続く。心配してくれたのは嬉しいが、お守りを二つも持ち歩くのか。
 扉の近くで、いつの間にか来ていた緒方が腹を抱えていた。声も出ないほど受けたらしい。
「おはようございます、緒方さん」
 少々引き攣り気味の笑顔で挨拶をすると、緒方は二人の顔を見るなり「ふはっ」とおかしな笑い声を漏らして顔を逸らした。
「笑い事じゃないんですけどっ」
 紺野が肩を怒らせると、緒方は「すまんすまん」とまったく反省の色が見えない顔で謝った。他人事だと思って。
「昨日の聴取、どうでしたか?」
 沢村は緒方の二つ後輩だ。沢村が尋ねると、緒方は気を落ち着かせるように長く息を吐いた。まだ顔が笑っている。
「洗いざらい吐いたぞ。問題ない。ただなぁ……」
「赤い鳥ですか」
 紺野が代弁すると、緒方は苦笑いした。
「火の玉は共犯者の奴らだけだが、赤い鳥はほら、お前も目撃者の四人も同じ証言してるだろ。あの四人も、心霊スポットだって聞いて来たって言ってたらしいし。で、本当にそんな噂があったら不法侵入とか増えるから、建物の所有者に聞いたらしいんだ。近くの住人だったみたいでさ。案の定、そんな噂はないし、赤い鳥なんて見たことないってさ」
 だろうな。とは言えず、紺野はわざとらしく渋い顔をした。確かに見たのに、の意味だ。
「そんな顔するな。何せ心霊現象みたいだからな、にわかには信じられないだろ。ただまあ、俺からすれば、幽霊だろうが何だろうが別に構わないんだよなぁ。害どころか、現れたタイミングを考えるとそいつのお陰で近藤が助かったようにも思えるし。揃って何かを見間違えたにしろな。ま、記録に残っても誰も気にしないんじゃないのか? あとは家宅捜査と近藤の聴取だけだ。下鴨署に任せてある。詳しく分かったら教えてやるよ」
「お願いします。近藤の容体はどうですか?」
「心配ない。救急車の中で爆睡して、処置の間も全然起きなかったらしいぞ。今日一日は安静だろうけど」
「そうですか」
 ほっと息をついた紺野に、緒方と沢村がくすりと笑った。
「とにかく無事で良かったわ。それにしても、次から次へとよくもまあ事件が起こるもんだ」
 うんざり顔で頭を掻く緒方は、深町事件のすぐあとに、宝石店で起こった強盗殺人未遂事件を担当し、それが早期解決した昨日、近藤の事件になし崩し的に関わることになった。間髪置かずにとは、まさにこのことだ。
 じゃあな、と緒方は言い残して溜め息と共に自席へ、紺野と沢村もさてと一課を出ようとした。その時。
「あれっ」
 緒方が声を上げた。思わず足を止めて振り向くと、緒方が首を傾げながらデスクの上を漁り、辺りをきょろきょろと見回し、椅子を動かしてデスクの下にもぐりこんだ。何かを探しているようだ。お世辞にも綺麗とは言えないデスクなので、失くしものなど珍しくもない。
 紺野と沢村は顔を見合わせて苦笑し、一課をあとにした。捜査本部でも、同じような反応をされるとは知らずに。
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