第4話
文字数 2,350文字
小学校の卒業式や、中学校の入学式と保護者説明会。めんどくさいわねと言いながらも母は参加してくれた。表向き笑顔を浮かべてはいたけれど、目には機嫌の悪さが窺い知れた。
生活もさして変わらない。母の顔色を窺いながら家事をこなし、時間を見つけては須磨寺へ足を運ぶ。そして二年生に進級した。
修学旅行が実施される時期は、学校によってさまざまだが、美琴の学校は三年生の春だ。今から費用を毎月積み立てるか一括で支払うか。入学時に説明があったらしく、持ち帰ったプリントを渡すと、母は「やっぱり高いわね」とぼやいて顔をしかめた。見たくもないと言いたげに床に放り投げ、化粧する手を動かす。
「見聞を広めるためとかそれらしいこと言ってるけど、修学旅行なんてただの思い出作りじゃない。行く必要ないわ。ああ、そうだ。担任に余計なこと聞かれたら、こう言いなさい。うちは貧乏なので、修学旅行の費用を高校の進学に充てたいんです、だから行きませんって。いいわね」
「……うん」
自虐的な理由だ。プライドより、修学旅行の費用をいかに出さないようにするか、の方が大切らしい。思い付きの言い訳なのか、それとも進学を視野に入れていたからこそ思い付いたのか分からない。けれど、修学旅行を諦めなければいけないのは確定だ。予想はしていたけれど、いざ面と向かって言われると、やはり辛い。小学校の時は、保護者説明会の参加も積み立ても、旅行中の小遣いも祖母が用立ててくれた。
「ほんとはさっさと働いて欲しいのよ。お金ばっかりかかるんだから」
母はそう言い捨てて、仕事場へと向かった。
その翌日。帰宅すると、玄関扉を開けるなり響いた乱暴な足音に、美琴はびくりと肩を震わせた。機嫌が悪い。それもかなり。どかどかと足音を鳴らしながら、般若のような顔をした母が近付いてくる。まるでメデューサに睨まれたように体が硬直し、立ち竦んだ。
がっしりと腕を掴まれ、引きずるようにして部屋へと引っ張り込まれた。ネイルの施された長い爪が、皮膚に食い込んで痛みが走る。
リビング代わりに使っている和室に放り投げられ、前かがみでローテーブルに手をついた拍子に足をぶつけた。痛みで顔が歪み、しかし足をさする暇などなかった。肩から鞄が落ち、痛っ、と小さく口から飛び出した直後、頭をパシンと叩かれた。そう強くはなかったけれど、とっさに両腕で頭を庇いながら床に伏せ、体を丸めた。
「あんた担任にちゃんと言ったんでしょうね? 余計なこと言ったんじゃないの!?」
「ちゃんと言った、他には何も言ってない……っ」
「じゃあなんであんな電話がかかってくるのよ!」
一体何を言っているのか、理解できなかった。母のヒステリックな怒声と頭を引っ叩く音や痛みがごちゃまぜになって、混乱と恐怖で体が震えた。
――痛い、痛い、お願いやめて。
「何なのあいつ、余計なことばっかり。分かってるわよ、知ってるわよ制度があることくらい。でも他人に知られたら何言われるか分かったもんじゃないでしょ。人の税金使って生活してるって絶対言われるんだから。陰口叩かれて見下されるなんて死んでも嫌よ。何なのあいつ、人を馬鹿にして……っ!」
母が声を詰まらせ、叩く手を止めた。上から降ってくる荒い呼吸。美琴はそろそろと顔を上げ、目だけで母を見上げた。
「ほんっと、お金ばっかりかかって何の役にも立たない……ッ」
憎しみと蔑みを含んだその眼差しに、本能が警報を鳴らした。
「子供なんて産むんじゃなかった……ッ!」
――嫌だ!
美琴が再び顔を庇って伏せたのと、母が声を絞り出したのと、とどめと言わんばかりに背中を強く蹴られた衝撃。そして、突如キッチンの蛇口が勢いよく水を吐き出したのが同時だった。
息が詰まり、体が横に倒れ、テーブルにぶつかった。置いてあったティッシュが天板を滑って床に転げ落ちる。
母の荒い息遣いと、吐き出された水がシンクを激しく叩く音が部屋に響く。美琴は、倒れ込んだまま身じろぎ一つしなかった。蹴られた背中が痛むとか、ここで動いたらまた蹴られるとか、理由はそんなことではない。ただ単純に、恐怖で体が動かなかったのだ。
ほんの数秒が、五分にも十分にも感じた。やがて、母の舌打ちと「蛇口くらいちゃんと閉めなさいよ!」と叫ぶ怒声が響き、玄関の扉が乱暴に閉められた。
水を打ったような静寂を破ったのは、外から響いた子供の甲高い笑い声。
美琴は床に転がったまま、さらに手足を縮ませた。小刻みに体が震え、心臓が委縮し、一気に涙が溢れ出す。
母に殴られている祖母を初めて見たのは、小学生低学年の時だった。夜、大きな物音で目が覚め、何をしているんだろうと布団から抜け出した。襖を開けて見えた光景を、すぐには理解できなかった。亀のように丸くなった祖母の背中を、母が何度も足蹴にしていたのだ。何見てんのよ、寝なさいよと声を荒げた母の鬼のような形相と怒声は、今でも脳裏にこびりついている。
それから何度か同じことがあり、恐怖に震えて身動きできない自分を、祖母が庇ってくれたこともあった。息苦しいほどぎゅっと抱きしめて、母の拳から守ってくれた。もしかすると、自分が学校に行っている間に殴られたことがあったかもしれない。
ごめんねと。怖い思いをさせてごめんねと、囁くように謝る祖母の声が蘇る。
一つ息をしただけで、蹴られた場所から痺れるような鈍痛が体中に広がって、美琴は歯を食いしばった。
祖母はずっと、こんな痛みに耐えていたのか。
そう思うと、言葉にならないくらい深い悲しみと申し訳ない気持ちに、胸が張り裂けそうだった。
窓から差し込む春の温かい日差しが、子供の無邪気な笑い声を運んでくる。途切れ途切れの嗚咽が酷く空しくて、惨めで、とめどなく涙がこぼれた。
生活もさして変わらない。母の顔色を窺いながら家事をこなし、時間を見つけては須磨寺へ足を運ぶ。そして二年生に進級した。
修学旅行が実施される時期は、学校によってさまざまだが、美琴の学校は三年生の春だ。今から費用を毎月積み立てるか一括で支払うか。入学時に説明があったらしく、持ち帰ったプリントを渡すと、母は「やっぱり高いわね」とぼやいて顔をしかめた。見たくもないと言いたげに床に放り投げ、化粧する手を動かす。
「見聞を広めるためとかそれらしいこと言ってるけど、修学旅行なんてただの思い出作りじゃない。行く必要ないわ。ああ、そうだ。担任に余計なこと聞かれたら、こう言いなさい。うちは貧乏なので、修学旅行の費用を高校の進学に充てたいんです、だから行きませんって。いいわね」
「……うん」
自虐的な理由だ。プライドより、修学旅行の費用をいかに出さないようにするか、の方が大切らしい。思い付きの言い訳なのか、それとも進学を視野に入れていたからこそ思い付いたのか分からない。けれど、修学旅行を諦めなければいけないのは確定だ。予想はしていたけれど、いざ面と向かって言われると、やはり辛い。小学校の時は、保護者説明会の参加も積み立ても、旅行中の小遣いも祖母が用立ててくれた。
「ほんとはさっさと働いて欲しいのよ。お金ばっかりかかるんだから」
母はそう言い捨てて、仕事場へと向かった。
その翌日。帰宅すると、玄関扉を開けるなり響いた乱暴な足音に、美琴はびくりと肩を震わせた。機嫌が悪い。それもかなり。どかどかと足音を鳴らしながら、般若のような顔をした母が近付いてくる。まるでメデューサに睨まれたように体が硬直し、立ち竦んだ。
がっしりと腕を掴まれ、引きずるようにして部屋へと引っ張り込まれた。ネイルの施された長い爪が、皮膚に食い込んで痛みが走る。
リビング代わりに使っている和室に放り投げられ、前かがみでローテーブルに手をついた拍子に足をぶつけた。痛みで顔が歪み、しかし足をさする暇などなかった。肩から鞄が落ち、痛っ、と小さく口から飛び出した直後、頭をパシンと叩かれた。そう強くはなかったけれど、とっさに両腕で頭を庇いながら床に伏せ、体を丸めた。
「あんた担任にちゃんと言ったんでしょうね? 余計なこと言ったんじゃないの!?」
「ちゃんと言った、他には何も言ってない……っ」
「じゃあなんであんな電話がかかってくるのよ!」
一体何を言っているのか、理解できなかった。母のヒステリックな怒声と頭を引っ叩く音や痛みがごちゃまぜになって、混乱と恐怖で体が震えた。
――痛い、痛い、お願いやめて。
「何なのあいつ、余計なことばっかり。分かってるわよ、知ってるわよ制度があることくらい。でも他人に知られたら何言われるか分かったもんじゃないでしょ。人の税金使って生活してるって絶対言われるんだから。陰口叩かれて見下されるなんて死んでも嫌よ。何なのあいつ、人を馬鹿にして……っ!」
母が声を詰まらせ、叩く手を止めた。上から降ってくる荒い呼吸。美琴はそろそろと顔を上げ、目だけで母を見上げた。
「ほんっと、お金ばっかりかかって何の役にも立たない……ッ」
憎しみと蔑みを含んだその眼差しに、本能が警報を鳴らした。
「子供なんて産むんじゃなかった……ッ!」
――嫌だ!
美琴が再び顔を庇って伏せたのと、母が声を絞り出したのと、とどめと言わんばかりに背中を強く蹴られた衝撃。そして、突如キッチンの蛇口が勢いよく水を吐き出したのが同時だった。
息が詰まり、体が横に倒れ、テーブルにぶつかった。置いてあったティッシュが天板を滑って床に転げ落ちる。
母の荒い息遣いと、吐き出された水がシンクを激しく叩く音が部屋に響く。美琴は、倒れ込んだまま身じろぎ一つしなかった。蹴られた背中が痛むとか、ここで動いたらまた蹴られるとか、理由はそんなことではない。ただ単純に、恐怖で体が動かなかったのだ。
ほんの数秒が、五分にも十分にも感じた。やがて、母の舌打ちと「蛇口くらいちゃんと閉めなさいよ!」と叫ぶ怒声が響き、玄関の扉が乱暴に閉められた。
水を打ったような静寂を破ったのは、外から響いた子供の甲高い笑い声。
美琴は床に転がったまま、さらに手足を縮ませた。小刻みに体が震え、心臓が委縮し、一気に涙が溢れ出す。
母に殴られている祖母を初めて見たのは、小学生低学年の時だった。夜、大きな物音で目が覚め、何をしているんだろうと布団から抜け出した。襖を開けて見えた光景を、すぐには理解できなかった。亀のように丸くなった祖母の背中を、母が何度も足蹴にしていたのだ。何見てんのよ、寝なさいよと声を荒げた母の鬼のような形相と怒声は、今でも脳裏にこびりついている。
それから何度か同じことがあり、恐怖に震えて身動きできない自分を、祖母が庇ってくれたこともあった。息苦しいほどぎゅっと抱きしめて、母の拳から守ってくれた。もしかすると、自分が学校に行っている間に殴られたことがあったかもしれない。
ごめんねと。怖い思いをさせてごめんねと、囁くように謝る祖母の声が蘇る。
一つ息をしただけで、蹴られた場所から痺れるような鈍痛が体中に広がって、美琴は歯を食いしばった。
祖母はずっと、こんな痛みに耐えていたのか。
そう思うと、言葉にならないくらい深い悲しみと申し訳ない気持ちに、胸が張り裂けそうだった。
窓から差し込む春の温かい日差しが、子供の無邪気な笑い声を運んでくる。途切れ途切れの嗚咽が酷く空しくて、惨めで、とめどなく涙がこぼれた。