第8話

文字数 4,144文字

「ふ……っへっくしっ。あ」
 と呟いて手元を見た時には遅かった。
「くしゃみくらい……」
 砂を蹴る音を耳ざとく聞き、大河は反射的に顔の前で両腕を交差させて腰を落とした。
「我慢しろッ!」
「うわッ!」
 理不尽な要求をしながら斜め上から飛び蹴りを食らわせたのは、言うまでもない樹だ。
 腕にスニーカーの感触を、腕全体に今まで以上の重さと威力を感じ、大河は体全体を使ってそれを受け止めた。数十センチほど地面を滑りながら後退したところで、樹が軽い所作で地面に着地した。腰に手を当てて見下ろす。
「もう少しだったのに何やってるの、我慢しなよ!」
「無茶言わないでください! 生理現象は仕方ないでしょう!」
「でも我慢しろ」
「横暴だ!」
 腕にこびりついた砂を落としながら苦言を呈す。
「ごちゃごちゃ言わない。はい、真言の暗唱」
 くっそぉ、とせめてもの反抗を口にして、大河は何度目か分からないペナルティをこなすために体勢を整えた。
 早朝より開始された独鈷杵の訓練はストレッチから始まり、真言の暗唱、結界、破邪の法、体術指導とこれまでの総復習から始まった。そして最大の目的である独鈷杵の訓練に移ったのはいいが、樹の懇切丁寧な誘導にもかかわらず、反応はするもののなかなか形を成さなかった。
 一度は成功させたのだから独鈷杵に問題があるわけではない、霊力も十分、むしろ有り余っている。となるとやはりイメージ不足ではないかという怜司の見解を参考に、ネットで童子切安綱(どうじきりやすつな)の画像を検索して特徴と共に頭に叩き込み、さらにスクリーンショットで携帯の待ち受け画面に設定した。
 しかし、それでもはっきりと形作るまでには至らなかった。痺れを切らした樹が、失敗するごとに真言を暗唱させるとペナルティを課した。浄化、調伏、結界の三つに加え、地天は初めに覚えた一つと、昨夜何とか合格を貰った五つの、計六つ。合計九つの真言を失敗するたびに唱えるのは、時間を浪費する。だがそれでも進展は見えず、今に至る。
 確かに一石二鳥ではある。ちょっと言い辛いなと思っていた真言も、このおかげで口癖のようにするりと唱えられるようになった。とは言え、それだけ失敗を重ねているという証拠でもある。少々情けない気がしないでもない。
「じゃあ、地天の震動」
 唱える順番は樹の気まぐれだ。大河は息を吸い込み、口を開いた。と、縁側でパソコンをいじっていた怜司が呼んだ。
「大河、例の幼馴染みから電話だぞ」
 口を開けたまま顔を向けると、怜司が携帯を掲げている。ちらりと樹を見やると、溜め息をつかれた。
「暗唱はあとで、ちょっと休憩」
「はいっ」
 大河は、今にも小躍りしそうなほど浮かれた様子で縁側に駆け出した。
 訓練を始める前、昨夜の省吾との会話を樹と怜司に伝え、もし自分が出られなかったら代わりに出て欲しいと縁側に携帯を置いていたのだ。
 怜司に礼を言って携帯を受け取り、崩れるように縁側に腰を下ろした。
「もしもし?」
 独鈷杵を横に置き、ペットボトルを太ももに挟んで蓋を捻る。
 怜司の向こう側に樹が腰を下ろし、同じくペットボトルの蓋を開けながら怜司の手元を覗き込んだ。いいのあった?、今注文したところだ、ちょっと楽しみだよねぇ、と会話が聞こえた。耐水性和紙の注文をしていたらしい。ちなみに午前十一時過ぎ現在、華、茂、昴は買い出し。弘貴と春平は宿題中で夏也がそれに付き合っており、美琴は自室、香苗はリビングで双子と一緒に擬人式神を作成中。珍しく、寮内が静かだ。
「ああ、俺。お前、悲鳴聞こえたけど何してんだ? 独鈷杵の訓練ってそんなに厳しいのか」
「うん、訓練という名のパワハラを受けていました」
 はあ? と省吾の訝しげな声と、人聞き悪いな! と耳ざとい樹の苦言が重なった。
「よく分からんけど、そんなことよりさ」
 そんなことって何だ、と薄情な幼馴染みに心で突っ込んでペットボトルを煽る。
「独鈷杵だけどな、おじさんとずいぶん探したけど見当たらないんだよ。ここじゃないみたいだな」
 背後で擦れ合う葉音が微かに届いた。まだ裏山にいるようだ。
「なかったの?」
「ああ」
「そっかぁ、絶対そこだと思ったんだけど」
 自然と脱力したような溜め息が漏れた。
「俺も。可能性はかなり高いと思ってた。でもないんだよなぁ……」
「そこ以外ってなると……ちょっと思い付かない」
「だよな」
 二人揃って低い唸り声を漏らす。
「やっぱり、もうないのかな……」
 考えたくはないが、こうも見つからないとなるとそう思わざるを得ない。
 平安時代から千年以上、つまり戦乱の時代である戦国時代や、動乱の時代と言われる明治、そして世界大戦が勃発した昭和を経ている。それ以外にも、名だたる武将たちによって政権争いが常にどこかで繰り広げられていた。あんな田舎の小さな島でさえ、その影響からは逃れられなかったはずだ。何かの拍子に紛失したとしても、不思議ではない。
 大河が半ば諦め気味にぼやくと、樹が前のめりの体勢で顔を覗き込んできた。
「それはないんじゃない?」
 え、と意外な面持ちで振り向くと、樹はだってと続けた。
「もし失くなってたとしたら、そう伝わってるはずでしょ」
「あ……そうか、そう言われてみれば」
 道理である。陰陽師である以上、独鈷杵の価値と重要性は分かっていたはずだ。紛失したのならそう伝え、探して欲しいと刀倉家代々の命題とされていてもおかしくない。そうされていないということは、まだどこかに存在している。
 でしょ、と得意そうに笑って樹は顔を引っ込めた。
「大河、俺もその人に同感だ。ただまあ、どこかに隠してるにしても、その場所が伝わってないってのはおかしいよな」
「そうなんだよなぁ……」
 こちらの会話は筒抜けらしい。また二人同時に唸る。
 隠す理由も分からないが、場所を示すヒントすらない。日記に残されているとしたら、影正も影唯もとっくに気付いている。可能性は低い。ただ、影綱がどんな人物だったのかも知りたいし、攻撃系の術が伝わっていない理由も分かるかもしれない。宗史は訳があるのかもと言っていたし、読んで損はないだろう。
「省吾」
「うん?」
「あのさ、影綱の日記の現代語訳が残ってるか、父さんに聞いてみて欲しいんだけど」
「ああ、それなら残ってるらしいぞ。ちょっと待って、おじさんと代わるわ」
「うん」
 電話の向こう側でぼそぼそと話し声が聞こえたあと、もしもし、と約一週間ぶりの懐かしい声が耳に飛び込んできた。雪子とは独鈷杵の件で一度話をしたが、影唯とは島を出た日以来だ。少し照れ臭い。
「あ、父さん?」
 照れ隠しのように俯いて、ペットボトルの水滴をなぞる。
「うん、元気そうだね」
「うん、めっちゃ元気」
 良かった、と小さな呟きが聞こえ、ますます照れ臭さが増した。
「ところで、現代語訳なら残ってるよ。読んでみる?」
「そうしたいんだけど、郵送して大丈夫かな?」
「大丈夫じゃないかな。日記も送ろうか」
「あー……それ、ちょっと怖くない? 何かあったら嫌だし、内容が分かればいいから訳の方だけ送ってよ。宗史さんたちにも読んでもらって、感想聞いてみたいし」
 思考が逸れ、照れ臭さが薄れはじめたところで顔を上げると、隣から視線を感じた。樹と怜司が興味津津な顔でこちらを見ており、己を指差している。自分も読みたい、と言いたいのだろう。好奇心旺盛だ。大河は苦笑して頷いた。
「ね、寮の人たちも読みたいって言ってるんだけど、いい?」
「うん、もちろん」
 親指と人差し指でオッケーのサインを作ると、やった、と樹が無邪気に喜び、怜司がありがとうと小声で言った。
「あ、でもその訳も古いんだよね? コピーとかできそう?」
「うーん、あの枚数はちょっとなぁ。それに、直筆で書かれてて掠れてる部分があるから、印刷されないかも。ちゃんと梱包して送るから大丈夫だよ」
「分かった、そうして。ありがと」
「――大河」
「うん?」
 唐突に神妙な声色で呼ばれた。不自然に開いた間に、首を傾げる。
「気を付けるんだよ」
 耳に届いたのは、やけに重みがある一言だった。その一言に込められた父の憂いと不安が痛々しいほどに伝わり、心臓が委縮した。
「……うん」
 大河は俯き、その言葉を噛み締めるように、静かに答えた。
「省吾くんに代わろうか」
 一転していつもの声色に戻った影唯に、大河は微かに口角を上げた。
「いいよ別に。また連絡するって言っといて。あと、ありがとうって」
「分かった。そうだ、時々お母さんにも連絡してやりなさい。心配してるから」
「うん、そうする」
「じゃあね、皆さんによろしく」
「分かった。探してくれてありがとう、訳の件よろしく」
 うん、と頷いた声を最後に一瞬間が開き、通話が切れた。待ち受け画面に戻り、設定した童子切安綱の画像をじっと見つめる。
 何度も何度も、自覚する――大切だと。
 まるであの時のように、忘れるなと言われているようだ。この身に宿る先を生きた数多の命と、受け継がれてきた血に。
 大河はぎゅっと唇を結び、携帯を強く握り締めた。
「大河くん、どうしたの?」
 不意に樹の声が飛び込んできて、大河ははっと我に返って顔を上げた。ニヤついた笑みを浮かべた樹がこちらを覗き込んでいる。
「もしかして、帰りたくなっちゃった?」
 これだ。大河は白けた視線を投げ、気を取り直すように溜め息をついた。携帯を独鈷杵に持ち替えて立ち上がる。隙あらばからかってくるこの性格はどうにかならないのか。
「そんなことないです。樹さん、続きお願いします」
 肩をぐるぐると回す大河を見上げ、樹が笑みを浮かべた。
「いいねぇ、やる気満々じゃない。とりあえず、さっきのペナルティから始めようか」
「はい」
 と、階段から三人分の足音と共に賑やかな声が響き、門の方からは車のエンジン音が敷地へと入ってきた。腹減ったぁ、と力ない弘貴の声と、ちょっと誰か手伝ってー、と叫ぶ華の声が重なり、寮にいつもの喧騒が戻った。

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