第30話

文字数 2,210文字

「香苗、美琴、逃げろッ!!」
 右近の切羽詰まった声に、ぞくりと悪寒が走った。考えるより先に体が動いた。
「逃げるわよ!」
「は、はいっ」
 香苗の腕を掴み、森の奥へ一歩足を踏み出した次の瞬間。二体の水龍が牙を剥き出しにして頭上を仰ぎ、壁の向こう側に人影が勢いよく降ってきた。
 二人はとっさに足を止め、すぐに大きく後退した。水龍が水塊を顕現して二人を背に庇う。
「未熟なわりには、健闘したようだな」
 男は落ちる枝葉の中で周囲に視線を巡らせ、薄ら笑みを浮かべた。深紅の目と、真っ白な髪の間に二本の角。全身黒づくめではなくぼろぼろの着物を纏っているが、間違いない、隗だ。
 美琴はごくりと喉を鳴らした。どうして隗がここにいる。柴はどうした。まさか、やられたとでも言うのか。
「あ……」
 ごく小さく、香苗が声を漏らした。掴んだ腕が小刻みに震えている。香苗は、公園の事件で隗が影正を殺す場面を見ているのだ。駄目だ、すっかり委縮してこれでは戦えない。美琴は掴んだ腕を引っ張って後ろへやった。
「ここはよい。お前たちは式神の相手をしてこい」
 隗が告げると、悪鬼は一斉に上昇して姿を消した。あちこちで葉が舞い落ち、枝が揺れ、葉の擦れる乾いた音が派手な火花の音に混じる。
 考えたくないが、柴はやられたと仮定する。右近は悪鬼に足止めされている。だから逃げろと警告してきた。そして茂は離れた森にいる。
 助けは、来ない。
 美琴は鼓動を速めた心臓を静めるように、ぐっと歯を食いしばった。いくらなんでも根性でどうにかなる相手ではない。できることなら鎮守の森で身を隠したかったのだが、奥へは進めない。ならば、水龍には悪いが囮になってもらうしかない。それでも、逃げられるか分からないけれど。
「ごめん、水龍。……お願いしても、いい?」
 ぽつりと呟くと、二体とも尻尾を振った。精霊だって生きている。ここまで一緒に戦ってくれたのに。こんなこと、頼みたくないのに。
 ごめん。美琴はもう一度小さく呟くと、じりっと後ろへ靴底を滑らせ、左腕で香苗を押しやった。それに合わせて、隗が一歩、こちらへ足を踏み出した。結界を見やり、壁へ目を落とす。
「なるほど。結界で背後を、これで下からの攻撃を防いだか。なかなか頭が回るようだな。だが、所詮小手先にすぎぬ」
 言いながら壁をひょいとまたぎ、ゆっくりと歩みを進める。
「香苗、しっかりしなさい。合図をしたら走るわよ。森を出る」
 隗から視線を逸らさずに、じりじりと後ろへ下がる。香苗が無言で小さく頷いた。
 こちらを見据える真っ赤な瞳は柴や紫苑と同じなのに、酷く禍々しくて、冷たく恐ろしい。まさに今、自分たちは獰猛な獣に狙われているのだ。
 不意に、隗が足を止めた。
「水龍!」
 吐き出すように叫んで、身を翻そうとしたほんの一瞬だった。
 水龍が一斉に水塊を放ち、だが一度の瞬きをする間もなく水塊ごと水龍が鋭い爪で切り裂かれた。気が付いた時には、真っ赤な目が鼻先数センチの距離からこちらを覗き込んでいた。目の中に、目を剥いた自分の顔が見えた。
 呻き声を上げることすらできなかった。腹に強烈な圧迫感を覚えたと思った次の瞬間には、もう体が宙を飛んでいた。三十センチの壁の上を素通りし、左腕に痛みを感じ、ドンッ! と鈍い音が鼓膜に響いて全身に激痛が走った。一秒もあっただろうか。
「がは……っ」
 一瞬、意識が飛んだ。反動で体がわずかに跳ね返り、手から独鈷杵がこぼれ落ちた。そのまま前のめりに地面に落下して倒れ込む。
「げほ……っ、ごほ……っ」
 目を固くつぶって咳と一緒に何度も胃液を吐き出し、ぜいぜいと荒く呼吸を繰り返す。肺が委縮して息がしづらい。腹だけでなく全身に痛みが走る。頭がぼんやりして体が重い、動かない。
 一体、何が起こった。自分は今、何をしている。
「こ、来ない、で……っ」
 不意に香苗の震えた声が耳に飛び込んできて、美琴は目を見開いた。そうだ。隗を目の前にして、一瞬でやられたのだ。
「かな、え……っ」
 掠れた声を絞り出し、体を起こそうと腕に力を入れてすぐ、走った痛みに息が詰まった。目だけを動かして確認した左腕は、袖が破れ、外側が真っ赤に染まっていた。おそらく殴り飛ばされた時に幹で擦ったのだろう。流れ落ちた血液が、地面を赤く染めていく。火傷のような熱と痛みで力が入らない。
 美琴はぐっと歯を食いしばった。そしてゆっくりと顔を上げ、目に映った光景に戦慄した。
 正面に結界があり、低い壁が見える。結界から壁まで三メートル程あるはずなのに、それ以上吹っ飛ばされたらしい。そしてその壁の内側。今にも泣きそうな顔で後ずさる香苗と、焦らすように一歩、また一歩と距離を縮める隗。
「にげ……っ、逃げて……っ」
 美琴は右腕に力を入れた。霊刀を振り回していたせいもあって筋肉が震えているが、左腕よりはマシだ。地面を擦って腕を引き寄せ、胸の下に腕を入れて体を支える。ごほっと一度咳き込んだ。
「いや……」
 背中が、壁の端に植わっていた木の幹に当たり、香苗の足が止まった。とうとう、大きく見開かれた瞳から涙がこぼれ落ちた。
「逃げなさい、香苗ッ!」
 叱り飛ばすように叫んでみても、香苗は動くどころかこちらを見もしない。ただじっと、濡れた瞳で隗を見上げている。
 全身に強い痛みが走り、思わず顔が歪む。拳を握り、美琴は俯いてぐっと歯を食いしばった。このままでは、間違いなく殺される。
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