第3話

文字数 4,640文字

 と、(したなが)が舌打ちをかまして玄関の方へ素早く身を翻した。
 あっと思って腰を上げるより早く、晴が叫んだ。
紫苑(しおん)!」
 意外な名が耳に飛び込んできて、大河と弘貴は虚をつかれて中途半端に腰を浮かした体勢で静止した。晴と、障子を引っ張り開けて玄関土間へ駆け下りる二を交互に見やる。
 二が玄関の引き戸を勢いよく開けた瞬間、上から人影が降ってきた。
 あれ、外にいたんだ。と少々暢気なことを思う大河とは反対に、二は驚いた様子で足を止めて紫苑を見上げた。後ろからでも分かる。絶賛混乱中だ。また、栄明と郡司、律子以外の氏子と秘書らは、絶句して紫苑を凝視している。
 彼らが我に返る前に、紫苑が動いた。
 硬直する二の胸倉を無言で鷲掴みにしてひょいと持ち上げ、そのまま上がってくる。うぐぐ、とくぐもった呻き声を漏らしながら、宙に浮いた足をばたつかせる二を意も返さない。
「皆様」
 緊張、当惑、混乱。そして、まさかという恐れが混ざった空気を、宗一郎が破った。賀茂家当主の言葉と、目の前に現れた鬼。どちらに意識を向けるべきか、氏子と秘書らは迷った様子で視線を泳がせる。
「かつて、大戦では二匹の鬼が封印されました」
 紫苑は、玄関をくぐり、廊下を横切り、座敷に足を踏み入れた。
「そのうちの一人、紫苑です」
 明確に断言された紫苑の正体に一瞬で空気が張り詰め、小さなざわめきと共に恐怖に染められてゆく。
「ご安心ください。彼が我々に危害を加えることはありません。保証致します」
 穏やかながらも自信のこもった力強い口調に、氏子と秘書らは互いに顔を見合わせる。
「宗一郎様が、そうおっしゃるのなら……」
 氏子の一人の意見に、戸惑いつつもぽつぽつと同意の声が上がった。
 徐々に緊張と恐怖が和らぐ中で、紫苑は、テーブルの間へゴミでも捨てるように二を放り出した。畳の上を滑り、二が体を丸めて苦しそうに咳き込む。
 と、庭からざざざっと豪快に砂を擦る音がして、今度は何だと言った視線が一斉に移動する。よほど勢いよく飛び込んできたのか、砂埃を上げながら地面を滑って止まったのは、右肩に男を担いだ志季だ。
 とたん、樹が立ち上がりながら駆け出した。一瞬だけその横顔を目にし、大河は今度こそ立ち上がった。
「樹さん!」
 あの目はまずい。瞳孔が開き切っていた。
 また宗史と陽も弾かれたように腰を上げ、怜司が振り向いた。何ごとかと春平たちが目を丸くして視線をあちこちに泳がせる。
「りゅ、龍之介……!?」
 動揺した草薙が叫んだ名に、大河はぎょっとした。あれは龍之介なのか。いきさつを考えている暇はない。あれが龍之介本人なら、樹は確実に容赦しない。止めなければ。
「樹」
 驚いて横に避けた土御門家の氏子らの間からテーブルを飛び越え、さらに転がっている二の側をすり抜けた樹を、怜司が腕を掴んで止めた。下手からぐるりと回り込もうとした大河が、宗史の側で足を止める。
「はな……っ」
「志季の報告が先だ」
 冷静な指摘に、樹は息を詰めた。もどかしげに唇を噛んで俯く。
 とりあえず止まってくれた。大河と陽がほっと安堵の息をついて、宗史と三人、庭へ視線を投げる。
 志季は左手で龍之介の首根っこを掴むと、よっと掛け声をかけながら軽く放り投げた。気を失っていたのか、ぐえっと潰された蛙のような声を上げて地面に転がり、寝言のような呻き声を漏らす。尻ポケットにねじ込まれていた革靴が飛び出して散らばった。よく見ると、頬が痛々しいほどに腫れ上がっている。志季がやったのだろうか。
 宗史が秘書の末席の横をすり抜けて縁側に向かい、ガラス戸を開ける。
「志季、報告を」
「おお。ちょっと待てよ……あ、椿から聞いてるだろ。智也の怪我、多分大したことねぇから心配すんな。他の奴らも無事だぜ」
 宗一郎に促された志季は、袂を探りながらそう言うと、細長い箱のような物を取り出した。
「とりあえずこれな。冬馬の戦利品」
 志季が自慢げな顔で細長い物を小さく振ると、樹が顔を上げた。宗史はそれを受け取って確認し、宗一郎を振り向く。
「ボイスレコーダーです。再生します」
 そう言って再生されたボイスレコーダーの内容は、どんな言い逃れや言い訳も通用しないくらい、完璧な証拠だった。また、龍之介の横柄な台詞や、陰陽師だけでなく神である式神への冒涜は、氏子らを絶句させた。大河にとっては、年も立場も龍之介の方が上だが、人とは思えない人格の持ち主に駒呼ばわりされるのは実に不快だった。さらに、(さくら)の拉致計画と宗史への暴言。ピシッと幻聴が聞こえるくらい空気が凍りついた。なに言ってくれてんだこの野郎、と全員が思ったかどうかは分からないが、気まずい空気が漂ったのは確かだ。能面のような顔で静かに殺気を放つ宗史に、宗一郎と晴と律子(りつこ)は必死に笑いを堪え、他の者たちは逃げるように視線を逸らしていた。
 想像以上に酷いな。大河は怒り半分、呆れ半分で庭に転がった龍之介を見やる。社会的な役割は違っても、地位のある家柄であることは宗史たちと同じなのに、人間性は天と地ほどの差だ。龍之介は「世の中、金と権力だ」と自信たっぷりに言い放っていたが、まったくもって説得力がない。
 (しげる)と華、そして姿が見えない(さい)がどこに行ったのか分からないが、これでやっと繋がった。
『――思う存分可愛がってやる』
 龍之介のいかにも悪役で気味の悪い笑い声を最後に録音が切れると、樹が怜司の手を振りほどいた。
 賀茂家の氏子や秘書が道を譲るように、素早く横に避ける。その間を一気に駆け抜けて庭へ飛び降りた樹を、志季や縁側にいた宗史をはじめ、誰も止めようとはしなかった。唯一、草薙だけが慌てふためいて立ち上がり、同じ道を辿って縁側に出た。そのあとを大河と陽が追う。
 と、宗一郎の袂で携帯が震えた。
「お、おい……っ」
 龍之介はじっと倒れたまま、身じろぎ一つしない。だが、樹が無言のまま胸倉を掴んで引っ張り上げると、すぐにひっと引き攣った悲鳴が上がった。タヌキ寝入りをしていたらしい。気を失っているふりをすれば見逃してくれるとでも思ったのだろう。
「やめ……っ」
 ゴッ! と骨と骨が容赦なくぶつかる鈍い音が、草薙の声を遮った。一発で気を失ったのか、龍之介の体は人形のようにだらんとして動かない。だが、樹は胸倉から左手を離すことなく何度も何度も龍之介の頬へ拳を打ち付ける。口や鼻から大量の血が流れ、血飛沫が飛び、衝撃に揺さぶられる龍之介の体をがっちり固定して殴り続ける樹の拳も、次第に血で染まっていく。
 草薙は、自ら助けに行く勇気が出ないらしい。真っ青な顔をして酷くあたふたとしてはいるが、一向に庭へ下りようとしない。自分の息子が暴行を受けているのに。
 集まってきた弘貴たちが、ガラス戸を全開にしながらうわっと顔を歪ませた。宗一郎と晴も一緒だ。また座敷では、栄明と律子、そして女性秘書が軽部を気遣っており、他の者たちは野次馬のように縁側に集まってきた。紫苑が動かないため諦めたのか、二はじっと俯いたまま微動だにしない。
 部屋の明かりに照らされて、闇に浮かび上がる庭木。地面に落ちているのは、一つになって長く伸びた大河たちの影。今朝は雨露に濡れた木々の葉がきらきらと輝いて綺麗だった庭に、今は絶え間ない打撃音が不気味に響く。
 携帯で通話していた宗一郎が、樹を見据えたまま相手に告げた。
「――樹のこともある。できれば来ていただきなさい」
 そう言って宗一郎が通話を切った時、樹が思い切り体重をかけた一発を打ち込んで手を離した。勢いで地面を滑った龍之介は、酷い腫れと血にまみれ、元の顔が分からないほどだった。そんな龍之介を見据えて、樹は体全体で乱れた息を整える。
「りゅ、りゅ、龍之介!」
 草薙がやっと庭へ下りて、龍之介の元へ駆け寄った。樹と龍之介の間ではなく、龍之介の向こう側にしゃがみ込む。しかし、息子の変わり果てた姿を見て、恐怖に顔を歪ませた。
「ひ……っ」
 しゃがみ込んだまま尻もちをついて後ずさり、体を小刻みに震わせる。
「し、し、死ん……っ」
「生きてる」
 草薙の声を遮ったのは、樹だ。しかし。
「すぐに死ぬけど」
 抑揚のない口調で言い放ち、尻ポケットから独鈷杵を取り出した。瞬時に具現化された霊刀に誰もが息をのみ、草薙が言葉にならない悲鳴を上げてさらに後ずさった。明かりを受けた樹の横顔は、生者とは思えないほど白く、冷々としている。
 廃ホテルでの記憶が蘇った。あの時、樹はぎりぎりで踏みとどまったが。
「感謝しろ。二人まとめて殺してやる」
 いつもと口調が違う。これは――。
 樹がすっと霊刀を掲げると、草薙は腰が抜けたのかガタガタと震えるだけで逃げようとしなかった。そんな草薙を見下ろす樹の目には、これっぽっちも迷いがない。柄を握る手に力を込めた。
 絶対まずい。大河だけでなく、宗史たちも危機感を覚えて庭へ飛び出そうとわずかに動いた。次の瞬間。
「樹」
 張りのある宗一郎の声が響いた。数センチほど振り下ろされた霊刀がぴたりと止まり、大河たちが振り向く。
「お前が手を下すほどの価値はない」
 冷淡で、明瞭な声。樹はしばらくの間、振り上げた恰好のまま微動だにしなかった。宗一郎の指示と自身の抑えきれない憤激の間で戦っている。そんな感じだ。やがて、勝ったのは怒りだった。霊刀を握り直し、息を詰めて再び振り上げる。草薙は、自身を庇う余裕すらないらしい。後ろ手をついて見上げたまま、ひぃっ、と掠れた悲鳴を漏らした。
「樹さんッ!!」
 夏也と香苗を残した寮の者全員と紺野、宗史と陽が縁側から飛び下りながら声を張り上げたと同時に、霊刀が振り下ろされた。集まっていた女性秘書が小さな悲鳴を上げた。
「樹」
 静かに、だが強く制した怜司の声に、霊刀が、草薙の肩に触れるぎりぎりのところで止まった。
 同じような光景は二度目だが、やっぱり生きた心地がしない上に心臓に悪すぎる。十歳くらい老けた気がする。大河たちは足を止めて、脱力して息を吐き出した。一方草薙は、目前で鈍く光る霊刀を横目で見やり、もがくように地面を這って横へ移動した。
 怜司がゆっくりと庭へ下りて、大河たちの間を縫った。落ち着いた歩みの先では、霊刀が小刻みに震えている。
「もういい、樹」
 酷く優しい声。怜司は樹の手を握って、ゆっくりと自身の方へ引き寄せた。後ろ髪を引かれるように左手が離れ、切っ先が下を向く。
「……いいの?」
 俯いたまま、樹がぽつりと問うた。
「ああ」
 短く返ってきた答えに樹は顔を上げ、怜司の肩越しに縁側を見やる。その顔は今にも泣きそうなくらい歪んでいて、大河は目を丸くした。
 言外に問われ頷いたのは、晴と陽、そして宗一郎と宗史。
 それを見届けた樹は再び俯き、霊刀が空気に溶けるように形を失っていく。不意に緩慢な動きで体勢を変え、怜司の肩に額を乗せた。
 怜司は樹の背中に手を添えて、落ち着かせるように、また子供をあやすようにぽんぽんと叩いた。
「ありがとう」
 囁くように告げられた一言に、樹の肩が小刻みに震えた。
 冬馬たちのことだけではない。草薙親子や、加担した二や花輪。彼らに傷付けられ、命を奪われ、悲しみを強いられた全ての人たちのために、樹は本気で怒り、二人を殺そうとしたのだ。
 不思議な人だと思う。普段は奔放で冷静に物事を見ているけれど、一歩間違えれば危険なくらい、激しい感情を秘めている。
 本当は、誰よりも深い情を持っている人なのかもしれない。
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