第9話

文字数 5,609文字

 神戸から戻り科捜研へ直行した紺野と北原は、近藤の個室の前で顔を引き攣らせて立ち尽くした。
「お前……この惨状は何だ……」
「今日、一人食中毒で休んで忙しかったんだよ、仕方ないでしょ」
 ああ、と紺野と北原は同時に納得した。昼間の不機嫌の原因はそれか。
 いつも以上にデスクと床に散乱しているのは、分厚い専門書に、書き損じの紙やペットボトル、ゼリー飲料の容器や栄養補助食品の空箱、飴の包装。それらをゴミ袋に放り込む近藤を眺めながら、紺野は溜め息をついた。分別しろと言ってやりたいが、口を出したら出したで丸投げされるのは分かっている。黙って見守るに限る。
「確かに、忙しかったみたいですねぇ。起こさなくていいんですか?」
 北原が後ろを振り向いて不憫な顔で言った。部屋の中央の長机では、数名の所員が白衣を着たまま熟睡している。お疲れ様です、と北原が手を合わせた。
「あの人たち、当直だったのに帰れなかったんだよ。だから起きるまで寝かせておこうと思って。いいよ、入って」
 近藤は書籍を適当に棚に詰め込んだ。あらかた片付いた部屋に招き入れられ、扉を閉める。
「例の映像、もうスタンバイしてあるから見てて。飲み物買ってくるけど何かいる?」
「ああ、じゃあコーヒー頼む。ブラックで」
「俺もいいですか。微糖でお願いします」
 了解、と近藤はゴミ袋を抱えて個室を出た。
「珍しく気が利くな。嵐でも来るんじゃねぇのか」
 いつもの近藤なら、人に頼みごとしといて差し入れの一つもないの、と言ってきてもおかしくないのに。やっぱり気味が悪い。
「この前の喧嘩、気にしてるんですかね」
「あいつは鑑定結果、俺は飯でチャラになってるはずだぞ」
「繊細なのかもしれないですよ」
「お前、本気であいつがそんな殊勝な奴だと思ってんのか?」
 デスクチェアに腰を下ろしながら言ってやると、北原はうっと言葉を詰まらせ、補助椅子に積まれた書籍をデスクに上げて腰を下ろした。
 パソコンのモニターには、まだ誰もいない建設途中の工事現場の映像が、一時停止された状態で映し出されている。近藤がぼやいていた通り荒い画像だが、動きを追うだけなら十分だ。
「さて、何が出るか」
 紺野はマウスをクリックした。
 しばらくして、手にビニール袋を提げた三人組の少年が、画面の右側から映り込んできた。カメラ正面の、後にエントランスに変貌するであろう広い空間の前で、きょろきょろと周囲を見回している。しばらく顔を見合わせ、少年らはエントランスの中に入った。積み上げられた鉄パイプの前に陣取ると、ビニール袋から何かを取り出し地面に並べていく。形状から缶と菓子類、箱らしき物は煙草か。缶をぶつけ合って乾杯し、口を付ける。何に対して乾杯してんだガキが、という突っ込みはさて置き、しばらく少年たちの宴が続いた後、それは唐突に訪れた。
 右側から映り込んだ一人の男が、少年たちに歩み寄る。気付いた少年たちが男に向かって何か話しかけた。男は一定の距離を保ったまま少年たちと正対し、ゆっくりと腕を上げた。まるで何かを指示するように。その動作に少年たちは顔を見合わせると腹を抱えて笑い――うち二人が、瞬時に動きを止めた。顔の向きは、男の頭上付近。
「いますか」
「多分な。はっきりと映ってねぇから何とも」
「さすがにカメラには映らないんでしょうか」
「かもな」
 男の頭上の一部だけ、モザイクがかけられたように靄がかっている。おそらくここに悪鬼が浮かんでいるのだろうが、北原が言うように電子機器であるカメラにははっきり映らないのかもしれない。
 男が腕を上げたとたん、モザイクの位置が素早く移動した。悪鬼が少年たちめがけて勢いよく襲いかかったのだろう。見えている二人の少年が、泡を食って逃げ出す。その様子を一人が呆然と眺めている。男が、逃げた二人のうちの一人を指差した。
 モザイク――悪鬼は指示された少年へ向かって飛び、その間に残りの二人は合流し、見える少年が見えない少年を誘うようにして画面右側へと逃げ出した。それに気付いた男が、二人の前に立ち塞がった。少年たちは拳を振り上げて男に向かったが、酒が入っているせいで足取りがおぼつかず拳は避けられ、代わりに腹に蹴りを一発ずつ食らった。体を二つ折りにして膝から崩れ落ちる。
 一方、標的にされた少年は悪鬼に追い立てられ、そこら中を走り回っている。背後にいたと思えば前を塞がれ、踵を返せばまた目の前に現れる。悪鬼が見えない者からすれば、少年が幻覚から逃げ回っているようにしか見えないだろう。
「遊んでやがる」
 男は逃げ回る少年をじっと見つめたまま動かない。キャップとマスクで隠した顔は、楽しそうに笑っているのだろうか。
 胸くそ悪ぃ。
 紺野は小さく舌打ちをかました。もし少年が見えていなければ、どうしていたのだろう。こんな風に悪鬼を使って追い立て回すことはせず、一気に食らわせたのだろうか。たまたま少年が見えていたから、こんな悪趣味な真似を思いついたようにしか見えない。じわじわと獲物を追いやり、気力を奪い、逃げられないと悟らせてから、食らう。この男は、相当趣味が悪い。
 男の背後で伏せていた少年二人が、男の様子を窺いながらゆっくりと立ち上がり、脱兎のごとく逃げ出した。
「あっ」
 ついて出た声に北原が手で口を覆った。
 男は逃げ出した少年らを一瞥し、今度は追いかけるでもなく見逃して向き直った。一方置き去りにされた少年は呆然と立ち竦み、その場に力なくしゃがみ込んだ。男は悠然と少年に歩み寄った。少年は男に向かって延々と何かを叫び続けるが、男が反応した素振りはない。その間、悪鬼はまるで主の指示を待っているかのように、頭上で浮かんでいた。
 と、画面右側から男が駆け寄ってきた。おそらく樹だ。
 男が振り向いた。樹は少年を背に男と対峙し、じっと見据えたまま動かない。すぐにもう一人男が樹に駆け寄った。里見怜司だ。短い会話をした後、樹が尻ポケットから何かを取り出した。直後、悪鬼と同じように画面の一部がモザイクがかった。長細い、棒のような形をしている。
「何だこれ……?」
「何ですか?」
「ああ、樹が手に何か握ってやがる。棒みたいな」
「棒? もしかして、霊刀ってやつじゃないですか? 霊力を具現化するっていう」
「ああ、そんなこと言ってたな」
「霊力もカメラには映らないんですねぇ」
「みたいだな」
 画面の中では、樹が悪鬼へ、怜司が男へ向かって地面を蹴った――と。
「えっ」
 今度は二人揃って声を上げた。男は即座に踵を返し、その場から逃げ出した。悪鬼の方も、樹が薙いだ刀を縮んで避け、男の後を追う。一戦繰り広げられるのかと思いきや、まさかの逃亡だ。男は画面左側へと走ってフレームアウトした。すぐに怜司が追いかけてきたが、足を止めて周囲を見渡しているところを見ると、男の姿が見当たらないようだ。続いて樹が怜司と合流した。
 その後は、樹がカメラに気付いて通報する場面や、少年を気遣う怜司の姿が映っているばかりで、警察官が到着するまで、特にこれと言って変わった様子は見られなかった。
 紺野と北原は唸るように息を吐いた。
「どうでした?」
 疲れたように問われ、紺野は画面を一時停止して腕を組んだ。
 明からの報告通り、確かに悪鬼が男に従っているように見えた。あれが千代の能力によるものだとしたら、あの男の正体が判明すれば確実に犯人に近付ける。そのためには、少年たちから話を聞く必要がある。
「置いて行かれた奴、確実に狙われてたように見えなかったか?」
「ええ、見えました」
「てことは、奴はあいつの顔を知ってたってことになるよな」
「なりますね。顔見知りということは、高校生なら学校か塾、もしくはバイト先あたりですかね」
「妥当だな。やっぱ下平さんに聞くしかねぇか」
 少年たちの氏名や住所、学校名は聴取しているはずだ。そこから辿れば何か出てくる可能性はかなり高い。しかし、いくら樹が関わっているからと言っても、少年たちのことまで調べるとなると理由付けが難しい。捜査中の事件はまだデータ化されないためそこからは探れない。やはり下平に聞くしか手がない。
 返答を聞くまでもなく、これは決定か。
 部屋の外から「おかえり」と別府の声が届いた。ただいま、とくぐもった声は近藤だ。
 個室の扉が開き、近藤がパンをむさぼりながら入ってきた。腕にはビニール袋がぶら下がっている。
「行儀悪ぃな、お前」
「まともにご飯食べてないからお腹空いてるの。で? 見終わった?」
「一応な」
 紺野は立ち上がり席を返そうとしたが、近藤は「いいよ」と言って棚に立てかけてあった折り畳み式の椅子を引っ張って腰を下ろした。
「何か分かった?」
 パンをくわえたままビニール袋からコーヒーを二本漁り、二人に渡す。
「ありがとうございます」
「何も出ねぇな」
「だろうね」
 紺野の溜め息交じりの答えに、近藤はもごもごと咀嚼しながら当然のようにのたまった。飲み込んで、今度は自分の分のお茶を取り出し、蓋を開ける。
科捜研(ぼくたち)が調べても何も出なかったんだから当たり前だよ。周辺のカメラ映像もいくつかあったけど、何にも映ってなかったみたいだよ。僕も確認した」
「空ぶりか。そういや、例の耳の照合はどうだったんだ?」
 プルトップを開けて尋ねると、近藤はペットボトルを煽って首を振った。
「駄目、ヒットしなかった」
「そっちも駄目か……」
 分かってはいたが、はっきり宣言されると少々落胆する。
「犯人の服装からは?」
「無理。かろうじて特徴からメーカーは特定できたみたいだけど、全部量産品で全国に出回ってる。鑑定書にも書いてあるけど、身長やなんかも平均的で特徴がない。これが計算づくだとしたら、相当慎重なタイプだね」
「依頼されたのって映像だけか」
「いや? 食べ物とか煙草の吸殻もきてたみたいだよ。けど、彼らと家族以外の指紋や唾液は一切出なかったって」
 映像で犯人は触っていなかったから、当然出ないだろう。
「家族?」
「未成年なんでしょ? 資料に書いてあったけど」
「ああ、家から持ち出したのか」
「多分ね。これ以上は無理だよ、後は刑事(そっち)の仕事」
 そうか、と呟いて紺野はコーヒーに口を付けた。
 残るは犯人の足跡だ。しかし明からの報告では忽然と姿を消したらしいし、追っても無駄だろう。鑑識の担当者が途切れた足跡に頭を捻るだろうが。
「ねぇ、二人は鬼代事件を追ってるんだよね?」
 近藤の怪訝な声に、視線を向ける。
「何だよ、今さら」
「だって、これ下京署の事件でしょ? しかも少年課。さすがにどう繋がるか気になるじゃない。どうせ教えてくれないんだろうけど」
 その言い回しから、神戸で聞き込みをした男女を思い出した。今日は嫌味を言われる日か。
「しょうがねぇだろ。解決したら分かるんだ、それまで待て」
 近藤は溜め息をつきながら足を組み、食べかけのパンを向けてきた。食べ物で人を指すな。
「何その言い草。僕はね、事情を話してくれないのに協力してるんだよ? まったく、一回や二回のご飯じゃわりに合わない」
「お前またか!」
「オムライスね」
 近藤はしらっと言い放ち、パンを口に放り込んでお茶で流し込んだ。
「あ、いいですねぇ。俺、ふわとろがいいなぁ」
「僕は昔ながらの方が好きだな」
 北原はコーヒーに口を付け、近藤は空いた袋を丸めてビニール袋と共にゴミ箱に投げ入れた。
「家で作るやつですか?」
「うん。流行りのオムライスって、懲りすぎて口に合わない。シンプルが一番」
「あ、ちょっと分かります。ソースはケチャップがいいですよね」
「でしょ?」
 盛り上がる二人に、紺野は肩を震わせた。だから何故北原も一緒になって喜ぶのか。北原の無邪気な笑顔と近藤の不遜に上がった口角が憎たらしい。
 事件が解決するまで近藤に飯を要求されるのと、いっそ全部暴露するのとどちらの選択が正しいか。頭の中の天秤が即座に傾いた。
 紺野は舌打ちをかまして八つ当たりよろしく北原の頭を叩いた。
「今日は無理だ。先約がある」
「あれ、珍しいね。彼女でもできたの?」
「仕事だ」
「何だ。つまんないの」
 もし恋人ができてもこいつにだけは絶対話すものか。確実にネタにされる。
 紺野は心に固く誓い、溜め息をついて腰を上げた。いつまでもここにいては何を要求されるか分かったものではない。
「で、鑑定書届けるんだろ。どれだ?」
「ああ、えーとね……あれ、どこにやったかな」
 近藤は立ち上がり、デスクを占領する書籍だの紙切れだのファイルだのを掻き分ける。発掘作業さながらだ。
「ああそうだ。それと、犯人の画像携帯に送ってくれ」
「いいけど、顔映ってなかったでしょ? あ、あったあった」
「念のためにな」
 近藤は茶封筒を差し出しながら、ふーん、と相槌を打って椅子に腰掛けた。まともに顔も見えない画像を送っても無駄な気がするが、頼まれたからには仕方ない。
 携帯が着信を知らせると、確認してそのまま明へ転送した。その間に、近藤は映像ディスクを取り出してケースにしまい北原に渡した。
「助かった、また何かあったら頼むわ。コーヒーご馳走さん」
「もうここまで来たら協力するけど、その代わりご飯忘れないでよー」
「分かったって。時間できたら連絡する」
「北原くん、逃げないように見張っててね」
「了解です。任せてください、俺が交渉して連絡します」
「頼んだよ」
 そう言いながら二人は固く握手を交わして頷いた。
「お前ら結託してんじゃねぇよッ!」
 案の定、紺野の怒声が飛んだ。
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