第21話

文字数 2,467文字

 一気に語り終えると、母は視線を逸らし、耳が痛くなるほどの静寂が部屋を包んだ。
 これ以上金を要求し、警察を呼ばれると困るのは母の方だ。それを示唆した上で、娘を手放すことのメリットも示した。これで納得しなければ、本当に警察を呼ぶしかない。
 不意に、母が大きな溜め息をついた。
「分かったわよ。好きにすれば?」
 開き直ったような、けれどどこか余裕のある言い草で、母は視線を明後日の方へ向けた。意外とすんなり納得したなと思いつつも、美琴はほっと胸を撫で下ろし、深々と頭を下げた。
「ありがとうございます」
 そう告げて勢いよく頭を上げ、身を翻す。早く荷物をまとめなければ。
 部屋に入って、ふと仏壇が目に止まった。祖父母の位牌はどうしよう。雑に扱わないと思いたいけれど。と悩んでいると、明の声が聞こえた。
「承知していただいて、ありがとうございます。では、こちらを。住所変更や転入手続きなど、していただきたい手続きや必要書類の一覧と情報です。一週間以内に手続きを済ませ、全ての書類をコピーし、住民票と一緒に書かれている住所へお送りください」
 はっと気付いて、美琴は振り向いた。そうか、母が手続きをしなければ転校も転居もできない。京都へ行ったとしても戻らざるを得なくなる。しかし、娘を手放すメリットは分かったはず。
 そんな美琴の期待とは裏腹に、母は「はっ」と息を吐き出すように嘲笑した。
「冗談じゃないわよ、面倒臭い。あんたたちが勝手にやってるのに、何であたしがそんなこと」
「一つでも不備、あるいは期限を守っていただけなかった場合、この音声データを警察に提出致します」
 母の言葉を遮って聞こえてきたのは、先程の電話の録音だ。明と美琴の会話の背後で、扉が叩く音や母の怒声が響いている。いつの間に。録音なんて思いつかなかった。
『どいつもこいつも馬鹿にして……っ。殺してやる!』
 そこで録音を止め、明は目を剥いた母を冷ややかに見下ろした。
「明らかな脅迫です。もちろんこれだけではありません。あの時の会話は全て録音しています。顔見知りの刑事がいるようですが、警察だけでなく、児童相談所の調査も入って騒ぎになりますよ。ご近所にも聞き込みされるでしょう。こちらは構いません。事情を説明して、お互い落ち着くまで一時的に彼女を保護したと言えますから。こういった家庭の事情は大ごとにしたくないと思う人が多いでしょうし」
「わ、分かったわよ! やればいいんでしょ、やれば!」
「ありがとうございます」
 母は忌々しげに小さく舌打ちをして、顔を逸らした。
 さっきの、余裕のある言い草。おそらく母は、自分が手続きをしなければ美琴は戻ってくると分かっていた。初めは、金を搾取できれば喜んで手続きをするつもりだったのだろう。邪魔な娘はいなくなり、金が手に入るのだ。だが、美琴に警察へ通報すると言われて断念せざるを得なくなり、目的を変えた。自分が自由にできる金や時間と、娘がこれから先稼いでくるであろう金を天秤にかけたのだ。
 母にとって「今」警察に通報されるのは絶対に避けたい。この惨状は誰が見ても異常だ。どんな言い訳も通用しない。さらに被害者本人、明たち目撃者、加えて近所住民の証言。間違いなく連行、捜査され、児童相談所の調査が入る。だから一旦美琴を京都へ行かせ、部屋を片付け、証拠を消そうとした。そのあとで美琴たちが警察に通報したとしても証拠がない。親子喧嘩なんてどこの家庭でもあるとか、大げさなことをとか何とか、どうとでも言い繕える。あるいは猛省したふりをして涙ながらに訴えるのだろう。そもそも、部屋の惨状や証言は状況証拠であって、物的証拠は何一つないのだ。警察や児相の調査には限界がある。結果、戻ってきた美琴と再び一緒に暮らすつもりだった。娘に、金を稼がせるために。ここまで計算して、母は美琴の京都行きを承諾した。
 だが、そんな目論見は明に簡単に崩されてしまった。彼は、こうなることを予測して録音していたのだろうか。それとも念のためか。どちらにしろ、あの状況でとっさに思い付くなんて。
 すごい、と口の中で呟いて、美琴は安堵と共にひとまずバッグの側にしゃがみ込んだ。
「美琴。どうだ?」
「あ、はい。あと少しで終わります」
 閃を母の監視に残し、部屋へ入ってきた明が仏壇に目を止めた。ゆっくりと歩み寄り、静かに正座をして手を合わせる。至極当たり前のような、自然な行動だった。そういえば、母が手を合わせているところを見たことがないなと、今さら気付く。
 美琴は微笑んで手を動かした。
 やっぱり、位牌と写真は持って行こう。問題は須磨寺にある墓だ。管理費用とかいるのだろうか。もし滞納したらどうなるのだろう。そのあたりの知識が全くない。明に相談した方がいいだろうか。
 美琴が腰を上げたのと、明が手を解いてこちらを振り向いたのが同時だった。美琴は仏壇に歩み寄り、明が立ち上がる。
「おじいちゃん、おばあちゃん。あたしの勝手でごめんね。一緒に行こう」
 そう語りかけ、位牌と写真を手に取る。鞄の所へ戻り、服と服の間に挟んでファスナーを閉めた。祖母が大切にしていた古い写真も入れたし、通学用の靴を入れる巾着も持った。あと残っているのは、図書室で借りた本だ。母に投げつけたからページが折れてしまっている上に、京都へ行けばもう返せない。母に頼むこともできないし。
 どうしよう、と困り顔で本を手に取って思案していると、明が上から覗き込んできた。
「図書室で借りた本かい?」
「あ、はい」
「持って行きなさい。あちらから学校宛てに郵送すればいい」
「あ、そうか。そうします」
 なるほど。美琴はノート類を入れた紙袋へ本を入れ、よしと一人ごちた。この時期、夜はまだ冷える。薄手のコートを羽織り、立ち上がる。
「お待たせしました」
「忘れ物はないかい?」
「はい、大丈夫です」
「では、行こうか」
「はい」
 ボストンバッグを持ち上げようとすると、持つよと、横からするりと持ち手を奪われた。ありがとうございますと礼を言って、自分は紙袋を持つ。
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