第10話

文字数 4,542文字

 タクシーが止まった信号のちょうど左手にあるコンビニを見て思い出し、大河はこっそり春平に耳打ちした。
「香苗ちゃん、ご飯食べたのかな」
「あ、そう言われれば。あの、運転手さん」
 春平が慌てて身を乗り出した。
「コンビニに寄って欲しいんですけど、いいですか?」
「ああはい。構いませんよ」
 そう言うと、運転手はちらりとナビを確認した。
「ここからだと、歩いて五分もかかりませんけど、どうします? そろそろメーター上がりますし、勿体ないですよ」
「あー、じゃあ歩いて行くか」
 親切な運転手の提案に弘貴が便乗し、大河と春平も同意した。
 信号が青に変わり、コンビニの駐車場に乗り入れると、運転手はメーターを止めた。五千円に届かない金額だ。麦茶代として弘貴と春平が多めに支払った。それでですね、と運転手がレバーを操作して後部座席のドアを開けながら、窓の外に視線を投げた。
「そこの裏の道を右に、道なりに行くと十字路に出ます。さらに少し真っ直ぐ行って、左手です。目の前に広い駐車場があるみたいなので、すぐに分かると思いますよ」
 どこまでも親切な運転手だ。
「分かりました、ありがとうございます」
 口々に礼を告げながら車を降りる。運転手は振り向いて三人が降りたことを確認すると、にっこり笑ってドアを閉めた。
 大河たちは少し温かい気持ちで、コンビニのドアをくぐる。
「なんか、めっちゃ良い人だったね」
「俺たちは助かるけど、お人好しだな」
「でも、ああいうドライバーさんって常連さんとかいそうだよね」
「あー、予約する時に指名できるんだっけ」
「へぇ、そんなことできるんだ」
 タクシーに乗ったのは、京都に戻ってきた日以来だ。それまで一度も乗ったことがなかった。金がかかる以前に、島にタクシーはなく、本土に渡れば原付移動で、そもそも乗る必要がない。京都に来てから、なかなか贅沢な経験をさせてもらっている。
 大河たちは、パンやおにぎり、飲み物を適当に買い込むと早々にコンビニを後にした。運転手に教えてもらった路地を駆ける。
 運転手の言った通り、わずか三分ほどで十字路に出た。目の前を横切る一方通行の狭い道路の向こう側に伸びる細い道の左手には、確かに横長三階建てのマンションと、前には駐車場が見える。と、
「うっ」
 揃って顔を歪め、口と鼻を覆った。生臭い。
「臭うな」
「これ、もしかして香苗ちゃんちから?」
「そうかも。この時期だし、かなり酷いことになってるみたいだね」
 一台の車を見送ったあと、道路を渡りながらくぐもった声で感想を漏らす。離れたこの場所まで漂うほどの腐臭だ。部屋の中はさらに強烈だろう。香苗は大丈夫だろうか。
 建物の右端にある出入り口を目指して走る。こちらに向いているベランダの一つに、山積みにされた黄色のゴミ袋が見えた。もしやあれか。
「やっぱ二階か」
 同じことを考えたらしい。集合ポストで部屋番号を確認した弘貴が、渋面を浮かべた。階段を上る弘貴に大河と春平も続く。一段上がるたびに臭いが強くなっているように思える。
 早足で外廊下を進み、両隣を空室に挟まれた部屋の前に辿り着いた。「野田」と入った表札を確認して、弘貴が躊躇いなくインターホンを押した。
 だが、一向に繋がらない。カメラ付きインターホンのため、姿を確認して出なかったのだろうか。弘貴がもう一度押した。しかし、軽快な呼び出し音が響くだけで、やはり繋がらない。
「掃除道具買いに行ってるのかな?」
「それも有り得る。ちょっと待ってみようか」
 そんな会話をする春平と大河を横目に、弘貴が扉のノブに手を掛けた。ドラマなどでは都合よく鍵が開いていたりするが、さすがに。
「お、開いてる」
 マジか、と呆気に取られた大河と春平が問い返す前に、弘貴が無遠慮に扉を引っ張り開けた。
 流れ出た腐臭に思わず顔が歪む。と、目の前で大きな目を真ん丸にした香苗が、右手を伸ばした格好でこちらを見上げていた。他に誰も出てこないところを見ると、一人なのだろう。
「……お前、今こっそり鍵かけようとしただろ」
 弘貴の冷静な指摘に、香苗が素早く手を引っ込めた。どうやら図星らしい。香苗はバツが悪そうに胸の辺りで両手を握って俯いた。
「な、なんで……」
「なんでも何もあるか。お前、どうせ一人で掃除させられてんだろ。手伝いに来たんだよ」
 香苗の言葉を遮って弘貴が広げた扉を受け取った大河と春平は、飛び込んだ光景に目を疑った。
 靴箱の上には山積みにされた新聞やチラシ、コーヒーの缶やジュースのパックが複数並んでいる。かろうじて各部屋への導線は確保されているようだが、玄関から廊下、さらに奥のリビングにまで、壁際に各種ゴミ袋とビニール袋が積み上がり、雑誌と新聞と段ボール箱が層を作り、その隙間から靴下やらストッキングやらシャツが顔を出し、何故か洗濯洗剤とキッチンペーパーが乗っている。ゴミなのか必要な物なのかさっぱり見当が付かない物ばかりだ。導線は香苗が確保したのかもしれない。
 俺の部屋はここまで汚くない、と唖然とする大河と、どうやって暮らしてるんだろう、と呆然とする春平を見て、香苗が顔を真っ赤にして言った。
「あ、あの……っ、ひと、一人で大丈夫なので……っ」
「そんなわけあるか。一人でやったら何日かかると思ってんだ」
 ずかずかと玄関に入る弘貴に追いやられるようにして、香苗が後ろに下がった。我に返った大河と春平も続いて足を踏み入れるが、そもそも靴の脱ぎ場がない。ゴミ袋を適当に足で避けて隙間を作る。
「そう、ですけど、でも……っ」
「いいから、どこまで終わってんだ?」
 こんな時、弘貴の押しの強さと遠慮のなさは実に頼りになる。奥の部屋へ視線を投げつつ室内に上がり込む。
「あ、あの……ッ!」
 香苗の張り上げた声と、大河の後ろで扉が閉まった音が重なった。
 廊下で通せんぼをするように立ち止まり、香苗はTシャツの裾をぎゅっと握った。
「本当に、大丈夫なので……っ、迷惑をかけたくないので……っ」
 帰って。最後まで口にしなかった香苗に、大河は目を細めた。いくら今は住んでいないとはいえ、ここは香苗にとって実家だ。こんな有り様の実家を人には見られたくないだろうし、ましてや掃除をさせるために娘をわざわざ連れ戻す父親だなんて、知られたくなかっただろう。けれど、そんな泣きそうな顔で言われても説得力がない。それに。
「あのさ」
 弘貴が大きく溜め息をついた。
「だったら、お前なんで携帯の電源切ってねぇんだよ。GPSで居場所がバレることくらい分かっただろ」
 核心をついた弘貴に、香苗が声を詰まらせた。
「ほんとはあの時、助けてくれって言いたかったんじゃねぇの? でも父親が怖くて言えなかったんだろ。だから携帯切れなかったんだろ?」
 視線を泳がせて俯いた香苗に、今度は春平が言った。
「香苗ちゃんが、僕たちに来て欲しくないって思ってるのは分かってた。でも、僕たちは香苗ちゃんのこと大切な仲間だと思ってるし、迷惑だなんて思ってない。だからどうしても放っておけなかった。ごめんね」
 謝らないで、と言うように香苗が小さく頭を横に振った。
 電源が入ったままの携帯の意味も、言いたくても言えなかった言葉も、香苗をどう思っているのかも。皆、考えることも思いも同じだ。それに、よくよく考えれば、宗史たちが追いかけて来ないのは不自然だ。弘貴を牽制した時点で、行動は予測していたはず。罠である可能性があって、内通者が誰か判明していない今、それでも追って来ないのは、きっと香苗を心配しているからだ。
 大河は、穏やかに微笑んだ。
「香苗ちゃん、早く終わらせて一緒に帰ろう。皆、心配してる」
 香苗の竦んだ肩が小刻みに震え、嗚咽と共にぱたぱたと床に水滴がこぼれた。
「お前、昨日から泣きっ放しだなぁ」
 香苗の心は、きっと限界だったのだ。父親への恐怖と不安、柴と紫苑、そして影正への罪悪感を一気に抱えて。言いたくても言えず、でもやっぱり心細くて。そんな気持ちが、涙となってこぼれ落ちたのだろう。
 からかうように笑い、鼻をすする香苗の髪を乱暴に掻き回すと、弘貴は大河と春平を振り向いた。
「とりあえず、俺らはどっかに荷物置いて現状把握な」
「了解」
 声を揃えて答える。
「香苗、お前飯食ったか?」
 香苗は一呼吸置いてから首を横に振った。確かに、こんな状態では食事する時間すらないだろう。
「色々買ってきたから、好きなもん食え。腹減ってると力出ねぇし、後ろ向きになるからさ。まあ、あんまり食欲湧かねぇだろうけど」
 遠慮のない一言と共に差し出された袋をおずおずと受け取り、香苗は小さく頷いた。
「ありがとう、ございます……」
 鼻声でぽつりと告げられた礼に頷き、弘貴は香苗を奥へと押した。
「どっか荷物置ける場所あるか?」
「あ、はい。和室は、大分片付けました」
「んじゃそこに荷物置いて、手分けした方が早いよな」
「先にゴミを全部まとめた方がいいから、そうだね、手分けしようか」
「香苗、ゴミ袋とか揃ってるのか」
「は、はい。洗剤とかも買いに行ったので、揃ってます」
「なんだ、買いに行ったのか。ったく、掃除させる気なら用意ぐらいしとけよなー」
 大河はあれこれと話す三人の後ろをついて行く。
 玄関を入ってすぐ、右手に浴室とトイレ、左手に一部屋。通りすがりにざっと確認したが、とにかくゴミと物が溢れ返っていて、酷いことになっている。水回りが怖い。
 それにしても、と大河は眉をしかめた。風がわずかに感じられるということは、窓が開いているのだ。それなのにこの臭い。部屋中に沁み付いてしまっているのだろう。加えてこのゴミの圧だ。テレビで汚部屋やゴミ屋敷の映像を見たことはあるが、実際目にすると気圧される。ゴミなのに。
 こんな部屋でどうやって生活しているのだろう、と考えて気が付いた。あの二人は、生臭い臭いがしなかった。こんな中で生活していたら確実に臭いが染み付くはずだ。ということは、ここで暮らしているわけではないのか。それとも、昨日だけ別の場所で寝泊まりしたのだろうか。
「まあ、テレビで見た汚部屋よりマシだな。一応床が見える」
 リビングダイニングに入って、どこか余裕のある感想を漏らした弘貴の声に、大河も部屋を見渡す。
 入って左手に対面式のキッチンとリビングダイニングがあり、右手には和室が二室並んでいる。キッチンカウンターの前には、ソファにローテーブル、コーナーボードにテレビと、家具は少ない。
 ゴミ袋は言わずもがな。キッチンには山もりの灰皿や、いつ使ったのか分からないグラスや皿や包丁、フライパン、カップ麺や弁当の容器、ペットボトルにビールの缶がそこかしこに放置され、またローテーブルやソファにも同じように、脱ぎ散らかされた服やタオル、缶、つまみや菓子の袋、スポーツ新聞、ドライヤーや鏡、口紅が付いたティッシュなどなど、ゴミ箱はゴミが詰め込まれ、中には正体不明の物体も転がっている。
 和室の方は、まずベランダ側の部屋から取り掛かったらしく、大方片付いていた。勉強机や背の低い空のカラーボックス、布団が敷かれていない折り畳み式のベッドは二つに折り畳まれ、壁際に避けてある。おそらく香苗の部屋だったのだろう。
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