第12話

文字数 2,282文字

      *・・・*・・・*

 枝葉の隙間から差し込む細い月の光以外、光源はない。そんな薄暗い伊勢神宮西側に広がる森の中に、絶え間なく打撃音が響き渡る。
 連続して繰り出す拳をことごとく防御され、紫苑は険しい顔で舌打ちをかました。横っ腹目がけて放った蹴りは容易に足を掴まれ、そのまま勢いよく放り投げられた。
 紫苑は空中で体勢を整え、背後にそびえていた大木の幹に着地した。とたん。
 瞬きをする一瞬の間だった。あっという間に距離を詰めた皓が目の前。華奢な手が視界を覆った。顔を鷲掴みにされ、勢いのまま幹に押し付けられる。
「ぐ……ッ!」
 くぐもった呻き声が上がり、メリ、と乾いた音を立てて頭が幹にめり込んだ。指の隙間から、楽しげに口角を上げた皓の顔が見える。ぎりぎりと締め付けられる感覚に息が詰まり、引き剥がそうと両手を持ち上げた。その手から逃げるように、皓は突き放すようにして手を離し、体を傾けて右足を紫苑の腹に叩き込んだ。
「がは……ッ」
 内臓がぐちゃぐちゃに潰れそうなほど強烈な一撃に、呻き声と一緒に血が飛び出した。背中越しに、メキメキと音を立てて幹が裂ける感触が伝わる。徐々に裂け目が広がり、ほんの数秒後、皓が力任せに足を振り抜いた。
 痛烈な音を響かせて見事に折れた大木が前のめりに倒れ込み、紫苑は後ろへ吹っ飛ばされた。体をくの字に曲げて宙を飛び、再び大木に激突する。
「ガ……ッ!」
 口から血を飛び散らせ、幹を背中で滑りながら地面に落下した。それと同時に、先程の折れた大木がズズンと重厚な音を響かせて倒れた。
 動きが速すぎて反応が遅れる。紫苑は激しく咳き込みながら、視線を上げた。もうもうと上がる土煙の中で、皓がうっすらと笑みを浮かべて立っている。
 戦闘開始直後は刀と短刀での剣戟だったが、名のある物ではなかったのか。折れるや否や、皓はあっさり短刀を投げ捨てて素手での戦闘に切り替えた。だが、有利だとは思えなかった。女とはいえ三鬼神の一人。皓とは一度も手合わせなどしたことがない。にもかかわらず、太刀筋を読まれているのかと思うほど掠りもせず、手や腕を集中的に狙う皓の速い動きを避け切れなかった。鞘で防がれて懐に入り込まれ、刀を弾き飛ばされた。
 今は大戦と呼ばれるあの戦で隗とも対峙したが、手も足も出なかった記憶が蘇った。やはり三鬼神の力は桁外れだ。
 とはいえ、ここで引き下がるわけにはいかない。紫苑は息を切らしながら口元の血を拭い、腰を上げた。否や、目を剥いて反射的に横へ飛び退いた。飛びかかった皓の拳が地面にめり込み、土煙が波紋を描く。根元に、拳二、三個分の深さの穴が開いた。
 皓はすぐに上半身を起こし、かろうじて避けた紫苑を振り向いた。空中で身を翻し、紫苑が着地したタイミングに合わせて地面を蹴る。衝撃で枯れ葉と土煙が舞い上がった。
 一方紫苑は、着地するとすぐさま腕を交差した。ゴッと骨と骨がぶつかる鈍い音が響く。重厚な衝撃と痺れが骨を伝って腕全体に走り、砂埃を上げながら数メートルほど後ろへ滑った。足を踏ん張っても勢いを殺し切れない。止まるのを待たずに、皓が真正面から突っ込んできた。
「く……っ」
 紫苑は一つ呻き、強く地面を蹴った。勢いを利用して後方へ飛び退く。拳が空を切り、皓が視線を上げた。真っ赤な瞳が妖しく光る。
 寮で見た時は洋装だったが、今は着物を身に纏っている。次は洋服で来いと言っておきながらという指摘は置いておいて、短刀を隠し持つのに着物の方が都合が良かったのだろう。そもそも洋装は着慣れない。激しい戦闘になることを見越した上でのことだろう。
 刀はどこだ。紫苑は空中から素早く視線を巡らせた。刀があっても有利にはならない。だが、ないよりはいい。
 皓の背後。かなり向こう側に、小さな鈍い光が見えた。
あれか。紫苑が大木の幹に着地したのと、皓が地面を蹴ったのが同時だった。抉れるほど強く幹を蹴り、ゆるい曲線を勢いよく描きながら皓の頭上を通過する。皓が足を止め、紫苑を仰ぎ見た。足場にした大木がメキメキと乾いた音を立てて傾き、近くの木々を巻き込んで倒れた。
 紫苑は体勢を低くして着地すると、そのまま地面を滑りながらすり抜けざまに刀を回収した。足を踏ん張って速度を殺し、振り向く。と。
「な……っ」
 目の前につい先程倒れた大木が迫っていた。どうやら抱え上げて放り投げたらしい。無数の針を埋め込んだような破断面が目の前。
 とっさに地面に這いつくばるようにして体を伏せる。大木が、大きく腕を広げた枝や茂った葉で紫苑の全身を叩きながら通り過ぎた。そして箒のように枝葉で地面を擦りながら空を切り、背後の大木に激突して落下した。
 ぶつけられた方の大木が幹を削られて大きく揺れ、もうもうと上がる土煙の中に大量の葉を降らせる。何とか持ち堪えた、と思ったら、時間差で乾いた音を立てて前のめりに傾き、先の大木に覆い被さるようにして倒れた。
 幹が裂ける痛烈な音と葉が擦れ合う音、そして大木が倒れた風圧を背中で感じながら、紫苑は体を起こした。前を見据えると、切り株の前で皓が小首を傾げて突っ立っていた。
 溜め息交じりに口を開く。
「その刀。影綱ってば、どうしてわざわざ残したのかしら」
 やあねぇ邪魔だわ、とぼやきながら乱れた前髪を整える態度は余裕たっぷりだ。
 紫苑は皓を注視してゆっくりと立ち上がり、静かに呼吸をして息を整えた。相手は三鬼神。どう考えても勝てない。だが、おそらく一つだけ弱点がある。あくまでも憶測にすぎないが、理屈としては筋が通っている。何よりも、これは柴の見解だ。
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