第12話

文字数 3,570文字

 それから、通帳と印鑑を持ち歩くようになった。学校にもバイト先にも。不用心だと分かっていたけれど、他に方法がない。
 学生で未成年。仕事も時間も限られる。わずかながらの収入も、家賃と光熱費であっという間に消える。母の姿を見るたびに、何のために学校へ行って、何のために働いて、何のために生きているのだろうと考えた。
 虚しかった。
 虚しくて、情けなくて、惨めで――寂しかった。
 自己防衛なのだろう。自然と感情が乏しくなっていった。
 加えて、おかしなものを見るようになった。黒い煙。常に見えるというわけではないが、背中にのしかかるように、あるいは立ち昇るようにして人の体から出ていた。伝わってくる気配は禍々しいもので、本能が関わるなと警告を出した。
 虚しい日常と、突如見え始めた不可解なもの。限界が来たのは、母の言葉。
「ねぇ樹。お布施を払わなくちゃいけないの。お金はどこにあるの?」
 ああ、この人は何も見えていないのだなと、改めて思い知らされた。自分だけではなく、置かれている現状さえも。
「母さん、うちにお金はないよ。全部お布施で使ったでしょ」
 そう言うと、母は不思議そうに小首を傾げた。
「そんなはずないわ、きちんとお祈りしてるもの。神様が助けてくれるでしょう? 樹、また隠してるの? そんなにお母さんのすることが気に入らないの?」
 どうして責められなければいけないのか。こっちは学校へ行って働いて、何とかやり繰りをしているのに。もう限界なのに。
 一気に、心の奥底に溜まっていた不満が溢れ出した。
「いい加減にしてよ! 祈るだけでお金が入れば誰も働いたりしないよ! 毎日毎日祈って、母さんが好きな神様は何かしてくれた!? お金くれた? ご飯くれたの? ねぇ、分かってる!? 僕たちこのままじゃ死んじゃうよ!?」
 ずっと不安に思っていたことを言葉に出したとたん、涙が溢れてきた。ただひたすらに、情けなかった。
 それは無力な自分か、脆弱な母か。
「駄目よ」
 俯いて肩を震わせる樹に、母は思い出したように呟いた。
「そんな風に怒鳴らないで? いつも心を穏やかにしてなくちゃ、神様に見放されてしまうわ。ああ、やっぱりまだお祈りが足りないのね。お母さん、頑張るわ」
 ね、とにっこり笑って見上げてくる母を、おぞましいと感じた。
 聖母のように笑みを湛えたその目には、何も映っていない。底のない暗闇を覗いているようだった。
 一時だけ戻った感情が、引く波のように冷えた。
 その日から、家に寄り付かなくなった。母の声が耳触りで、朝早く学校に行って教室や屋上で過ごす。バイトがない日は学校の図書館や近くの公園で時間を潰し、帰ってすぐに風呂に入って寝る。学校もバイト先も、楽しそうに笑う皆とは別の次元を生きているようで、居心地が悪かった。
 どこにも、居場所がなかった。
 自暴自棄と、一向に改善しない状況に追い詰められた。
 今以上に稼がなければ、確実に死んでしまう。もうそれでもいいかなと考えつつも、往生際悪く体は生きようとする。残された選択肢は一つしかない。導かれるように繁華街をうろついた。
 二人の男と喧嘩したことをきっかけに、下平という恰幅の良い刑事と、冬馬というクラブの店長をしている男と出会った。
 多分それが、岐路だったのだろう。
 責任と同情と利害。二人との関係はそれだけだと分かっていたけれど、居心地が良かった。
 もちろん金目的でもあった。けれど、声をかければ答えてくれる。振り向いてくれる。名前を呼んでくれる。きちんと仕事をすれば、居場所をくれる。
 ただそれだけで良かった。どんな関係であれ、ただ居場所があればそれで良かったのに、気が付けば、特別な場所になっていた。
 良親のことは、信用しているわけではなかった。むしろ、うっすらと浮かんだ笑みと目が信用ならなかった。あの日見た二人の女と同じ、格付けをして人を軽視する人間の目だ。それでも交流があったのは冬馬がいたからで、彼がいなければ確実に避ける類の人間だ。
 三年後、大家からアパートの取り壊しが決まった旨を告げられた。母は相変わらずで、時折金を催促するが「ない」と突っぱねるとすぐに諦めるようになっていた。三年かけて収入と生活はやっと安定し、貯金も貯まり始め、一番安いプランの携帯も持っていた。しかし引っ越すとなると少し心許ない。短期バイトをしなければ、と思っていた矢先のことだった。
 良親の背後に、女が立っていた。
「誰?」
 何気なく尋ねると、皆一様に首を傾げた。誰もいないと言う。しかし確かにいる。
「口元にほくろがある、女の人」
 そう言うと、良親が目を剥いた。特徴を尋ねられてさらに細かく説明すると、良親は訝しげに眉を寄せた。携帯をいじり、とある女のSNSを樹に見せた。
「この人」
 樹が頷くと、マジか、と息を吐くように嘆息した。
「いやいや、でもあいつ生きてるし。ついさっきまで一緒にいたんだぜ? 結婚ちらつかせるから、そろそろ切り時かなとは思ってるけど」
 そう言いながら電話をすると、女がふっと消えた。同時に電話がつながった。
「もしかして、生霊ってやつじゃないですか?」
 圭介が言った。
「生霊って、相手に霊魂を飛ばすとか言う、あれか?」
 冬馬が怪訝な面持ちで言うと、適当に女をあしらって電話を切った良親が、へぇと楽しげな笑みを浮かべた。
「樹、お前引っ越しで金がいるって言ってたよな」
 こくりと頷く。
「見えるなら霊感があるってことだよな。除霊とかできるんじゃねぇ? 金になるかもよ?」
「おい、馬鹿なこと言うな」
「できたら面白ぇなって話しだろ。こいつ見た目これだし、有名になったら稼げるぜ? イケメン除霊師ってな」
「本気で考えてるだろうが!」
 噛み付いた冬馬に、良親は呆れ顔で溜め息をついた。
「ほんとに融通が利かねぇ奴だな。つーか、決めるのは樹だろ、お前じゃねぇよ」
 正論に冬馬が言葉を詰まらせると、良親は樹を見やった。
「なぁ樹。試しに心霊スポット行ってみようぜ。肝試しだと思えばいいだろ」
 ふと、黒い煙のことが頭をよぎった。あれはもしかして、幽霊なのだろうか。
 とは言っても、本当に除霊する力があるなんて思っていないし、有名になりたいとも思わない。けれど、もし万が一あったとして、それが仕事になるのなら、これ以上冬馬に迷惑をかけなくて済む。何せ、自分の給料は冬馬個人から出ているのだから。
 皆の注目が集まる中、樹は首を縦に振った。
「樹!」
「よっしゃ、決まりなー」
「待て! 樹、お前……っ」
「はいはい、お前は黙ってろって。樹が自分で決めたことだぞ、お前こいつの保護者かよ。それとも何か? 樹が俺の言うこと聞くのが面白くないか」
「何のことだ! くだらないことに巻き込むなって言ってんだよ!」
「肝試しなんてお遊びとしては普通だろ。樹、くだらないことを楽しめない大人になるなよー」
 嫌味を垂れる良親に、冬馬が舌打ちをかました。
「樹、ちょっと来い」
「冬馬」
 冬馬が樹の腕を掴むと、良親が鋭い声を発した。振り向いた冬馬と、それをじっと見据える良親の間に、どこか険悪な空気が流れた。
 以前から不思議な関係だと思っていた。仲が良さそうには見えないのに、良親がアヴァロンに顔を出すと必ず冬馬が対応する。系列店の店長同士という、対等な立場であるはずの二人の間に、人には言えない別の関係性が垣間見えた。
 冬馬が諦めたように手を離した。
「ただの肝試しだぞ。それ以上はないからな」
「分かってるって。お前、真面目すぎんだよ。冗談の一つや二つ軽く流せよ」
「余計なお世話だ。樹、分かってるな?」
 万が一と考えていたから、素直に頷けなかった。動かない樹に冬馬が青筋を浮かべ、良親たちが爆笑した。
「お前なぁっ」
「冬馬のクソ真面目が移ったんじゃねぇの?」
「いひゃい……」
 冬馬に両頬を引っ張られ、樹は舌足らずのような声を漏らした。
「そうだ、除霊って札とかいるのか? あとまじないみたいなのあったよな」
「あ、陰陽師ですよね。臨、兵、闘、者、皆、陣、列、在、前ってやつ。昔映画観ましたよ、俺」
「それそれ。樹、一応覚えとけよ」
 良親のあからさまなからかい口調に、冬馬が深い溜め息をついた。
「ああそれと、宇治の廃ホテルはパスな。あそこ何度か行ったことあんだけど、なんも起こらねぇんだよ」
「分かりました。んじゃどうする?」
「ネットで探せば色々出てくんじゃね?」
 と、すっかり乗り気の智也と圭介があちこちの心霊スポットを検索し、決まったのは、山科区の山間にあるアミューズメント跡地だった。
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