第8話

文字数 4,117文字

 車に乗り込む前に、香苗は何度も何度も皆に頭を下げた。そんな彼女を見て、いたずらっ子のように笑った弘貴(ひろき)が言った。
「明日の飯、ポテサラな」
 と。香苗は満面の笑みを浮かべて大きく頷いた。
 何の話? と尋ねる(しげる)たちを横目に、大河(たいが)は回収した住民票を香苗に返した。寮に戻って処分する、と言った香苗からそれを奪い取ったのは、(はな)だ。またしても満面の笑みで、今度は短刀を具現化し火天の術で一気に燃やし尽くした。華は火属性らしい。灰は土と混ざるので、そのまま放置だ。
 口に手をあてがい、おほほほ、と漫画のような高笑いを上げて満足する華に恐怖していると、茂が弘貴と春平(しゅんぺい)に言った。
「弘貴くん、春くん、二人がいてくれて助かったよ。過呼吸って初めて見たから分からなかった。ありがとう」
 弘貴と春平が照れ臭そうにはにかんだ。
「あたしも初めて見たわ。対処法、覚えておかなくちゃ」
「そうですよね。次がないとも限らないですから」
 神妙な顔で言った華に、昴が頷いた。
「どうしてすぐに過呼吸って分かったの?」
 大河の質問に春平が答えた。
「施設で何度か見てたんだ」
「あ、そうなんだ……」
 うん、と春平は頷いた。過呼吸は、極度の緊張やストレスで引き起こされる症状。ということくらいは知っている。施設の子供たちは、過呼吸を引き起こすほどの事情をそれぞれ抱えているのだろう。ならば、美琴(みこと)は? 父親が酷い暴言を吐いた直後だった。
 もしかして、美琴も――。
 右近の隣で、香苗は申し訳なさそうに眉尻を下げて俯いていた。
 (さい)紫苑(しおん)右近(うこん)が護衛につき、茂と華と香苗が乗った車が先行した。
 異臭を放つ男三人が乗っているため、暑いが窓は開け放してある。運転席で、ふ、と昴が控えめに笑った。
「どうしたんですか?」
 助手席に座った大河が首を傾げると、昴は堪え切れなくなったようでくすくすと笑い声を漏らした。
「大河くん、ここ最近ずっと汚れてるなぁって思って」
 後部座席の弘貴と春平が笑い声を上げた。
「確かに。この前もすごかったもんな」
「埃と砂と血だらけだったよね」
「今日は血の代わりに生臭さだぜ。お前、そういう相でも出てんじゃね?」
「自分でもそう思う……」
 うんざりした声の大河に、三人は小さく笑った。服が破られなかっただけでも良しとしなければ。
「ああでも、携帯置いてきて良かった。持って来てたら絶対壊れてた」
「あー、あれは液晶粉々だっただろうなー」
「えっ、そんなに激しかったの? 怪我とかしてない?」
 昴が心配そうに大河を一瞥した。
「怪我はしてないですけど、酒吞童子を結界で防いだ時、衝撃で吹っ飛ばされたんですよ。背中を車にぶつけたんで、鞄に携帯入れてたら終わりでした」
 それでなくても、島で悪鬼に襲われた時に入ったフィルムの罅を放置しているのに。廃ホテルでよく壊れなかったものだ。着地前に男を足蹴にしたのが幸いしたか。
「でも、念のために寮に戻ったら診てもらった方がいいよ。そんなに激しくぶつけたのなら、どこか痛めてるかもしれないし」
「はーい」
 良い子の返事をした大河に、昴がよろしいとおどけてみせた。
「あ、そうだ。昴さん」
「うん?」
 春平が尋ねた。
「早く来てもらって助かりました。でも、南区にいたんですよね」
「ああ、実は、香苗ちゃんのGPSが消える前から家に向かってたんだ。もう暗くなってたし、心配だから一度様子を見に行ってみようって話になって。そしたら、到着する前にGPSが消えたからびっくりしたよ。急いだけど間に合わなかった。とりあえずしげさんたちと合流しようと思って家の前で待ってる時に、強い邪気を感じたんだ。首塚の方だったから、まさかと思って向かってる途中でGPSが復活してね、飛ばして来たんだ」
「そうだったんですか。ありがとうございました」
「お礼を言われるようなことしてないよ。結局何もできなかったし」
「そんなことありません。もし昴さんと美琴ちゃんの機転がなければ、皆の到着は遅れてました。そしたら、右近たちがいたとしても(かい)が引いてくれたかどうか……」
 あ、そっか、と大河と弘貴の声が重なった。
 隗からしてみれば全員未熟らしいが、鬼と式神に加え、この人数がいたからこそ引いたのだ。陰陽師にあちこちから術を仕掛けられてはやり辛いだろう。
 弘貴が息を吐いた。
「俺、あいつ初めて見たけど、ほんとに髪の毛真っ白だな。それに何なんだよあれ。あいつ何がしたいんだ」
「僕も何でだろうって思ったんだけど、知り合いみたいだったし放っておけなかったのかな」
「まあ、あそこで香苗がやられてたら、いくら神様っつってもなぁ……」
「そうなんだよね。右近と(せん)が来てたことには気付いてたみたいだし、二人が黙ってないって思ったのかも」
 そうか、そんな風にも考えられるのか。柴も、隗のことを「情に厚い男だ」と言っていた。わざわざ酒を持参して会いに来るくらいだ、有り得ない話ではないかもしれない。
 理由はどうあれ、隗に――影正(かげまさ)を殺した奴に助けられた。
 大河は俯いて、きゅっと唇を一文字に結んだ。
「大河くん、大丈夫……?」
 昴が、心配そうな顔でちらちらと窺うように大河を見た。
「あ、はい。大丈夫です」
 我に返り、慌てて顔を上げてぎこちない笑みを作る。
「大河くん、ごめん。ずっと結界張ってもらってたから、疲れたよね」
「いや、あのくらいだったら平気。強度は上げたけど、仕事の時より時間が短かったし。それよりさ、香苗ちゃん擬人式神持って来てたんだね。びっくりした」
 話題を変えると、春平は少しほっとした顔で答えた。
「香苗ちゃん、いつも持ち歩いてるんだよ。今日はかなり数が多かったけど」
「この状況だから警戒したんだろうな。あの女に見られなくて助かった」
「ほんとそう思う。朝から部屋に籠ってたのって、擬人式神作ってたんだね」
「ん、てことは、今日来るって言われてたのか?」
「近いうちに行くって言われたのかもよ?」
 あ、そっか、と弘貴が納得すると、昴が口を挟んだ。
「何にしても、皆が無事で安心したよ。あ、びっくりっていえば、僕、右近があんなに怒ったの初めて見たなぁ」
「俺もです。ちょっと意外でした。宗一郎さんとの約束を破ったって言ってたから、よっぽど頭に来たんでしょうね」
「クールで寡黙なイメージだったけど、印象変わったよね」
 ですよね、と共感し合う大河と昴に、弘貴と春平が何やら含んだ笑みを浮かべた。
「右近が怒った理由って、多分それだけじゃないと思うぜ」
 昴が首を傾げ、大河がバックミラー越しに見た。
「何かまだあるの?」
「俺らも詳しい話は知らなかったんだけど、香苗を保護したのが右近だってのは分かったよな」
「うん」
「香苗が寮に入った頃、右近って哨戒の途中でしょっちゅう寮に来てたんだよ。それまでそんなことなかったのに。だから何となく、保護したのは右近で、心配なんだろうなとは思ってた。香苗ってあんな感じだし。問題はその頻度」
「頻度?」
 春平が笑いを噛み殺している。何だ。
「そ。登校前に下校時間、それから夕方の訓練が終わるまで。休みの日は朝昼晩って来るんだぜ? 心配なのは分かるけど、さすがに多すぎだろ。あれ、もしかしたら学校も監視してたかもな。ストーカーかよ」
「ええ?」
 神をストーカー呼ばわりとはいい度胸だ。大河と昴の素っ頓狂な声が重なり、春平がとうとう堪え切れずに笑い声を上げた。
「さすがに恋愛感情はないと思うんだけど、庇護欲? つーの?」
「あ――」
 今度は長い納得の声が重なった。分からないでもない。というか分かる。長年、同じタイプのヒナキの世話をしてきた立場としては、嫌でも理解できる。恋愛感情云々ではなく、つい心配になってしまうのだ。それこそ娘を溺愛する父親のように。
「そんなに来てたってことは、宗一郎さんも分かってて右近を召喚してたってことだよね?」
「多分そうだと思います」
「あの人、絶対面白がってましたよ」
 春平と弘貴の答えに、昴が苦笑した。宗一郎のニヤついた顔が自然と思い浮かぶ。うん、絶対面白がってた。
 大きく頷いて、ふと気付いた。もしかして、右近はずっと自分たちを監視していたのだろうか。いや、もし監視していたのなら、もっと早く助けに入ってくれたはずだ。そもそも、閃はどうして時間差で来たのだろう。遅れて到着した閃の気配を隗が察したのだろうか。
「そういえばさ」
 一人首を傾げる大河をよそに、春平が小さく笑い声を漏らしながら言った。
「落ち着いてきた頃に、香苗ちゃんが熱出したことあったんだけど」
 あーあれか、と弘貴が笑う。
「ずっと緊張してたみたいだから、気が緩んだんだろうね。それを知った右近がね、ずーっと側から離れなくて、華さんと夏也さんとしげさんが部屋から引っ張り出したんだよ。そんなにひっついていられたら休めるものも休めないでしょって」
 何やら和むエピソードに昴は声を上げて笑ったが、大河はいたたまれない気持ちになった。
「……それ、俺もやったことある」
「は?」
 ぼそりと呟いた大河に楽しげだった空気が一気に引いて、三人がきょとんとした。
「小学生の頃、ヒナが風邪引いた時に同じことして、おばさんと省吾(しょうご)に放り出された……」
 突然の暴露に一瞬沈黙が流れ、すぐに車外に漏れるほどの笑い声が響いた。
「右近と同類かよ!」
「過保護!」
「大河くん、心配性だね」
 弘貴、春平、昴から口々に指摘され、大河は顔を赤くして体を起こし、三人を振り向いた。
「待って待って聞いて、ちゃんと理由があるんだって! 庭で水遊びしてびしょぬれにしたの俺だったから!」
「それで責任感じちゃったんだ?」
「そう!」
 少し茶化すように言った昴に勢いよく頷くと、三人はまたもや爆笑した。
「何で笑うんだよ!」
 どこも笑われる要素などないのに。
 ごめんごめん、と謝る昴に膨れ面をし、一回会ってみたいよな、と言った弘貴に警戒の目を投げつける。そんな大河にまた笑い声が上がった。
 ――憎しみに囚われるな。
 影正の言葉が、重くのしかかる。
 認めたくない。けれど、隗を隗だと認識した時に胸を占めたあの感情は――。
 過保護すぎだとからかう三人に反発しつつ、大河は大声で笑った。
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