第10話

文字数 2,230文字

 好き放題茂った野草の中に石灰岩がゴロゴロと顔を出し、あちこちに咲く様々な種類の花が彩りを添え、しかし花に興味がないので名前など分からない。ただ、一面ピンク色の花畑はさすがに歓声が沸いた。女性陣や茂がいたら喜んだだろう。
 そして、途中に設けられた西の展望所・びわこ展望台を素通りし、山頂の建物の青い屋根がちらりと覗いた頃。
「すごい。大きな太陽」
 陽が足を止め、西へ沈んでゆく太陽に目を細めた。
 こちら側にまだうっすらと青空を残したまま、まん丸で巨大な太陽は琵琶湖の上に浮かび、放たれたオレンジ色の光は琵琶湖と一帯に広がる街を美しく染め上げている。汗がじわりと浮かんだ額を撫でるように、冷ややかな風が吹き抜けた。その風に運ばれる濃い緑や土の匂いが鼻腔をくすぐり、草花の微かなざわめきが耳に優しく響く。
「いい神気だ」
 横顔をオレンジ色に染めた志季が、実に心地良さそうな笑みを浮かべて呟いた。風に逆らうように真っ直ぐ顔を上げ、遠くを見つめた紫暗の瞳が太陽の光を反射する。
 天照大御神の象徴である太陽と、霊峰・伊吹山。神にとって、最高に居心地がいいだろう。
「よっしゃ、行くぞ」
 意気揚々と告げて足を踏み出した志季に、晴と陽も続く。
 山頂は、視界が開けているというレベルではない。標高千三百七十七メートル。まさに大パノラマだ。周囲の山々の頂上と目線が同じ、あるいは眼下にある。空も雲も近く、先ほどよりも街や琵琶湖を広く見渡せる。
 やっと到着かと一息つきたいところだが、あまり時間はない。外灯が設置されているわけはないだろうし、今宵は満月でもない。
「さてと」
 晴は周囲をぐるりと見渡した。
 左正面の小高くなった丘に大きな扇形をした石階段と、石碑のような物が建っている。正面にテーブルとベンチが設置され、すぐ隣にログハウス造りの伊吹山寺覚心堂(いぶきさんじかくしんどう)が建ち、土産物屋や食堂が隣接している。ちなみに、遊歩道の側には公衆トイレが設けられている。
「完全に陽が落ちる前に光源確保しとかねぇと。って言いたいところだけど、先に便所行ってくるわ」
「あ、僕も」
「俺も俺も」
 宗史がいたら盛大に溜め息をつくこと間違いないしだ。
 揃って用を足し、結界を張る前にまずはご挨拶だ。御扉が閉まった覚心堂へ向かい、静かに手を合わせる。一礼してその場を離れ、土産物屋が立ち並ぶスペースに入った。
 そう広くない通路の右側に三、四軒、左に比較的大きなカフェが一軒と店が軒を連ねているが、のぼりなどの旗や看板も出ておらず、夕陽もあって閉店後の商店街といった風情だ。
「一軒ずつ個別で建ってんのかと思ってたけど、造りとしては平屋みたいな感じか。結構密集してるし、この辺一帯まとめて張るしかねぇな」
 通路を歩きながら、志季がきょろきょろと辺りを見渡して言った。
「だな。けど、そんなに広くねぇから大丈夫だろ?」
「まあな」
 建物自体は奥へ長い構造になっているが、スペースは大して広くなく、小ぢんまりとまとまっている。一分もかからないうちに通路を抜けて短い坂を上ると、正面と右手にも土産物屋が建っており、左には小高い丘に木製の階段が設えられている。そのてっぺん、石垣の上に建立されているのは、日本武尊象(やまとたけるのみことぞう)だ。
「んー……」
 坂の上で足を止め、志季が体ごと辺りを見渡して悩ましい声を漏らす。
「高低差は問題ねぇとしてだ。この距離と結界の形状だと、あの象だけ別に張れねぇよなぁ。結構なでかさになるけど、いいのか?」
「その辺の塩梅はお前に任せるわ」
「おー」
 ぶつぶつ呟く志季を引き連れて、木製の階段を上る。男三人が並べるほどの幅はないので、晴と陽が階段を使い、志季は階段横の岩だらけの坂を一気に飛び越えた。
 日本武尊は、幼い頃より気性が荒く、それを恐れた父の第十二代景行天皇はあちこちに討伐へ向かわせたそうだ。その結果、西の熊襲(くまそ)、東の蝦夷(えみし)を制圧し、現在でも英雄として言い伝えられている。一方で、日本書紀では自ら東征に立候補し戦場へ赴いたと書かれているが、古事記ではたび重なる討伐の命に、父に疎まれているのではないかと悩みながらも旅立つ姿が描かれており、悲劇の皇子としてもその名が知られている。
 どちらが真実かはともかく、難局を機転で切り抜け、また敵の火計を迎え火で退けたことから、難局打開、または火防の神としても信仰されている。
 火属性の陰陽師と火神が火防の神に手を合わせるのはどうなのだろうと思わなくもないが、難局打開にはぜひあやかりたい。賽銭箱が設置されているが、残念ながら邪魔になるので財布は持ってきていない。
 格子状に造られた石製の柵で囲まれた日本武尊によくよく手を合わせ、そのまま横へ移動して周囲を見渡す。
 左には、先程上ってきた遊歩道とトイレ。斜め前には扇形の石段。数メートル北、つまり日本武尊象の後ろは緩い下り斜面になっていて、ロープが渡されている。
「向こうから見えた石碑みたいなのって、これか」
「ここ、転がり落ちたら一巻の終わりですね」
「この下って遊歩道あるよな。そこで止まるんじゃねぇの?」
「どうでしょう。勢いがつきすぎてますから死んでもごろごろ転がるんじゃないですか? 防護網もなぎ倒すと思いますよ」
「あのさ、涼しい顔で恐ろしいこと言うのやめてくんない?」
 発見された時には誰とも分からないどころか人の形を保っていなさそうだ。可愛い顔して怖いことを言う。誰に似たんだとぼそりと呟き、日本武尊象の背後へ回って東側へと向かう。
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