第4話

文字数 7,033文字

 午後十時。
 約二時間で真言三つ。なかなかいいペースだ。けれどさすがに疲れる。
「ちょっと休憩ー」
 大河は椅子から立ち上がり、伸びをしながらベッドにダイブした。跳ねるスプリングの揺れが心地良い。徐々に収まる揺れに自然と瞼が落ちて、はっと気付いた。
「ヤバい、寝落ちする」
 一人ごちて、慌てて体を起こした。昼間走り回ったせいか、いつもより眠気に襲われる時間が早い。だが寝るわけにはいかない、身の安全がかかっている。
 眠気覚ましに飲み物でも取りに行くか、とベッドから下りた時、
「おーい、大河。起きてるか?」
 扉の向こうから弘貴の声が届いた。起きてるかとはどういう意味だ。
「起きてまーす」
 おどけた返事をしてやると、笑い声が返ってきた。春平も一緒か。
 扉を開けると、グラスと透明の容器が乗ったトレーを抱えた春平と弘貴が、「お疲れ」と言って立っていた。
「華さんから差し入れ。チョコレート、ケーキ?」
「ブラウニーって言ってたよ。あとコーヒーも」
「うわマジで!? ちょうど飲み物取りに行こうと思ってたんだ、さすが華さん。……てか、ケーキとブラウニーってどう違うの?」
 受け取った容器をまじまじと眺めながら素朴な疑問を投げかけると、二人揃ってさあと首を傾げた。まあ呼び名がどうであれ美味ければそれでいい。一口サイズのケーキが五つにプラスチックのピック。けれど、店の商品にしてはラベルが見当たらない。
「ねぇ、これどこのケーキ?」
「華さんの手作り」
「マジ!? こんなの作れるんだ、華さんすごいなぁ」
 美味そう、と感心して容器を眺める大河に、弘貴が満足そうな顔でうんうんと頷いた。
「華さんって、ほんとにいいお母さんだよね」
 美人で家事も完璧で、いつも笑顔で優しくてピアノまで弾けてしまう。子供がいなくなれば誰でも取り乱すだろうが、鬼気迫るほど心配し、陰陽師としても優秀だ。まるで欠点が見当たらない。
「お母さんって、華さんが聞いたら怒られるよ?」
 二人に苦笑され、大河は首を傾げた。
「え? 何で?」
「え?」
 今度は弘貴と春平が首を傾げた。
「だって、お母さんだよね? (あい)(れん)の」
 きょとんとした顔の大河を見て、弘貴と春平は互いに顔を見合わせた。弘貴の問うような視線に、わずかに春平が戸惑った表情を浮かべたが、俯き加減で小さく頷いた。それを確認して、弘貴が向き直った。
「大河、休憩入ったばっかりか?」
「え? うん」
「んじゃ、ちょっと話そうぜ」
 そう言いながら、弘貴は了承を待たずに大河の肩を掴んでくるりと体を回した。
「え、ちょっと……」
 そのまま部屋に押し込まれると、春平も続けて入ってきた。弘貴が大河の肩を離し、扉を閉める。
「二人とも、何? どうしたの?」
 戸惑いの表情を浮かべる大河に、弘貴がまあまあと言って床に胡坐をかいた。春平もゆっくりと腰を下ろしながら、トレーを床に置いた。
「いいから、座れよ」
 手招きをされ、大河は怪訝な顔で同じく胡坐をかいた。トレーを中心に車座になると、弘貴と春平がまずはと言わんばかりにアイスコーヒーのストローに口をつけたため、それに倣う。
 上目遣いで二人を眺めながらコーヒーを吸い上げる。一体何なんだ。
 弘貴は息を吐いてトレーにグラスを置くと、何の前置きもなく告げた。
「藍と蓮はさ、華さんの子供じゃねぇんだよ」
 唐突に告げられた言葉に、吸い上げたコーヒーを飲み込むことを忘れた。口にコーヒーを含んだまま顔を上げてから、やっとごくりと大きく喉を鳴らして飲み込んだ。こちらを見据える二人の眼差しは、至極真剣だ。
「……ほんとに?」
 目を見開いて尋ねると、二人はすんなりと頷いた。
 言われてみれば、勝手にそうだろうなと思い込んでいただけで、華の子供だと紹介されたわけではない。では誰の子供で、あんな幼い子供がどういう経緯でここにいるのか。事情を聞くときは本人からと決めたが、さすがに子供に説明を求めることはできない。それに、弘貴と春平はすでに話す気でいる。
 大河はグラスをトレーに戻し、二人を交互に見比べた。
「どういうことか、聞いていい?」
 ああ、と弘貴が頷き、一拍置いて言った。
「四年くらい前、寮の前に置き去りにされてたんだ」
「え……っ」
 初っ端から耳を疑った。四年前、つまり双子が一歳の時だ。幼児を置き去りにするなんて信じられないと言った面持ちで視線を向ける大河に、弘貴は冷静な声で続けた。
「夜中に、仕事から戻ってきた華さんと明さんが見つけて保護したんだ。何も持ってなかったし一歳だったから、藍と蓮って名前しか分からなかった。警察に連絡して、児相の人が産院とかに協力要請してすぐに身元が判明した。双子の名字な、久保(くぼ)って言うんだ。久保藍、久保蓮」
「久保藍、久保蓮……」
 口の中で反復すると、知らない人の名前を口にしているような違和感があった。青山藍、青山蓮だと思っていたから。けれどその一方で、またあの時と同じ感覚を覚えた。晴たちの両親が亡くなっていると聞いた時の、あの不思議な感覚。
 でさ、と弘貴が続けた。
「身元が判明したのはいいんだけど、両親が行方不明だったんだ。見つかったのは一週間くらいあと。大阪湾で、中年の夫婦が乗った車が引き上げられた」
 瞬時に息が詰まった。まさか、と言外に視線で尋ねると、弘貴は瞬きで答えた。
「心中。母親が残した日記から分かったらしいんだけど、飲食店の経営者で、父親が友達の借金の保証人になってたんだって。けどその友達、会社を起こしたけど上手くいかなくて、倒産した挙げ句に逃げたらしくてさ。借金、七千万近くあったらしい」
「七千万……っ」
 感覚が麻痺する額に、喉の奥から声を絞り出した。開いた口が塞がらない。サスペンスドラマなんかでよく使われる設定だが、本当にあるのか。
 しばらく呆然として、はっと気付く。
「そ、その借金どうなったの? まさか藍と蓮に義務があるとかじゃないよね?」
「それは大丈夫だったみたいだぜ。三店舗くらい店持ってて、家とか経営権とか全部売って返済されてたって」
「そっか、良かった」
 ほっとしたのも束の間、弘貴が渋面を浮かべた。
「ただ、預貯金とかも返済に充てたらしいから、その後の生活、かなり苦しかったみたいだな。しかも父親の方が鬱になって、母親に手ぇ上げてたらしいんだよ」
「……DV、ってやつ?」
 そう、と頷いた。
「ちょうど藍と蓮が生まれたばっかの頃で、保育所に預けようにも金がねぇし母親は仕事に出られねぇしで、そうなると収入もないだろ。二人とも早くに親亡くしてて親類もいなかったみたいで、かなり追いつめられてたんじゃないかって」
 本来大黒柱であるはずの夫は友人に裏切られて鬱になり、暴力を振るっていた。生活も逼迫し頼る者もいない。そんな悲惨な状況に追い込まれ、妻は心中を選んだ。けれどせめて子供はと思ったのだろう。寮は立派な外観だし、一見して寮には見えない。裕福な家族が住んでいるとでも思ったのかもしれない。
 大河は俯き加減で長く息を吐いて、ぽつりと呟いた。
「そっか……そうだったんだ……」
 大河はもう一度息を吐いて、顔を上げた。
「じゃあ、身元が判明する間は寮で預かって……ん?」
 両親に親類がいないのなら預ける人はいないだろう。それなら寮で預かって、そのまま引き取ることにしたのか、と尋ねようとして、大河は首を傾げた。
 警察が、一時的とはいえ一般人に保護児童を預けるなんてことをするのだろうか。児童相談所が身元を調べたのなら、それこそ保護施設に預けるだろう。それに、両親も親類もいないのなら、つまり藍と蓮は孤児だ。孤児を引き取るのなら里親が必要になるはずだが、華の子供ではないと言う。名字も違うようだし。記憶違いだろうか。それとも何か例外的な法律があるのか。
「双子、しばらく入院してたんだよ。かなり衰弱してたから」
 あ、と大河は薄い声を漏らした。生活が苦しかったと言っていたが、入院措置が必要なほどだったのか。
「で、退院した後のことなんだけど、大河、会合の時に賀茂家側にいた越智さんって人覚えてるか? 越智稔(おちみのる)さん」
「え?」
「その越智さんって人さ」
「ちょ、待った待った」
 唐突に話を変えられて、大河は前のめりにストップをかけた。弘貴が口をつぐみ、大河は腕を組んだ。どう繋がるのか分からないが、ひとまず双子のことは置いておいて、今は賀茂家側にいた越智稔さんを思い出さねば。
「えーと……」
 自分の記憶力の狭量さは自覚済みだ。しばらく考え込み、やがて顔を上げてへらっと笑った。
「覚えてない」
 潔く答えると二人同時に苦笑し、分かってたけど、と弘貴が言った。反論したいができない。せめてもの意思表示に、むっと唇を尖らせる。
「じゃあ、さすがにエクシード・グループは知ってるだろ」
「ああ、うん、知ってる。俺の携帯ずっとそこのだし」
 日本屈指の総合電子機器メーカーだ。家庭用電子機器はもちろん、産業用機器、通信機器の開発、製造、販売、通信サービスの提供を手掛けており、その名は世界に轟く超大手企業だ。先の草薙製薬と同じ、テレビの提供やCMで目にしない日はない。携帯を持ち始めてから何度か機種変更しているが、頑丈で使い心地が良いためエクシード社の物を愛用している。
 はたと気付いた。まさか。
「越智さん、そこの長男で副社長」
 会長の次男の次は副社長ときたか。陰陽師家ってのは一体どんな人脈を持っているのか。両家の自宅といい高級車といい、いちいち驚いていたら身がもたない。
「…………そうかい」
 とは言え驚きを隠し切れず、二人を凝視したまま瞬き二つ分の間を開けておかしな返事をした大河に、弘貴と春平が短く声を上げて笑った。でさ、と弘貴が笑いながら続けた。
「エクシードの本社って京都にあるんだけど、創始者の越智始(おちはじめ)って人、元々孤児だったんだって。だから児童養護施設を支援するようになったらしくて、今でもずっと続いてるんだ。双子は、退院したあと越智さんが支援してる施設に入る予定だったんだけど、華さんが自分の養子として引き取れないかって言いだしてさ」
 保護して情が移ったのか。華らしい。
「できなかったの?」
「うん、無理。ああいうのって審査が厳しいから。既婚者ってのはもちろんだし、収入とか犯歴とか素行とか色々調べられるんだ。華さん独身だから、そこからしてもう駄目だろ。でも、宗一郎(そういちろう)さんと明さんが双子の霊力に気付いて、施設長に説明してこっちで預かることにしたんだ」
「へぇ……」
 大河は相槌を打ったものの、やはり引っ掛かる疑問を尋ねた。
「ねぇ、こっちで預かるってさらっと言ったけど、そんなこと簡単にできるの?」
 華同様、例え大企業の副社長の顔が利いたとしても、子供の保護や里親探しを担う施設が、条件を満たさない者に幼児を預けたりしないだろうに。子供の人生に大きくかかわってくる決断なのだ。
 首を傾げる大河に、弘貴と春平は顔を見合わせた。春平がわずかに眉を寄せて小さく頷くと、弘貴が向き直った。
「あのさ、もうこの際言うけど、俺たち――俺と春、それと夏也姉(かやねぇ)、同じ児童養護施設の出身なんだよ」
「……え」
 大河は目を丸くした。言葉が出ない大河を置いて、弘貴は続ける。
「双子が入るはずだった施設、俺らがいた施設なんだ。あの頃、頻繁に心霊現象が起こっててさ。子供たちはすげぇ怖がるし、終いには施設が呪われてんじゃねぇかとか言い出す奴もいるしで、騒ぎが大きくなっちゃって。んで、越智さんって施設にちょくちょく顔出すような人でさ。施設長ともかなり懇意にしてたらしいんだ。だから施設長から越智さん経由で宗一郎さんに調査依頼したんだよ。それで調査に来た宗一郎さんが俺らの霊力に気付いて、俺らの感情の起伏で霊力が暴走してたって説明してくれてさ。まあ、タイミングとか見ても何となくそうじゃねぇかなって思ってたから、結構すんなり受け入れられたんだけどな。浮遊霊とかも見えてたし」
 感情の起伏で心霊現象が起こるのは、いわゆる霊力の暴走なのだろう。大河と藍と蓮が、無意識に霊符を発動させたこともそれに当てはまる。
「それで、このままいても他の子供たち怖がらせるしと思って、寮に入ったんだ。だから双子を預かるって話が出た時、越智さんと宗一郎さんの信用がでかかったんだろうけど、俺らの前例もあるし、施設長が俺らのこと信用してくれてたってのもあったらしいんだ。双子の親のことも、本当はああいうのって外部に漏らすことは絶対にないんだよ。けど、特例中の特例で、宗一郎さん経由で俺らに回ってきたんだ」
 つまり、心霊現象騒ぎが先にあったおかげで、宗一郎と施設の直接的な繋がりができ、越智や弘貴たちの信頼の上で双子を預かることができた、ということだ。
 大河は長く息を吐いた。
 藍と蓮は「寮の前で保護され、引き取られた」。弘貴と春平と夏也は「児童養護施設出身」――この二つの事実だけが、すとんと心に収まった。
 この感覚は、一体何なのだろう。
 すっかり汗をかいてしまったグラスへと視線を落とす。小さな水滴が周囲の水滴と一つになり、ひと回り大きくなって滑り落ちて、コースターに吸い込まれる――不意に何かが心を掠って、泡のように消えた。
 今、一瞬腑に落ちたような感覚を覚えたのに、すぐに分からなくなってしまった。
 煙のように実体はあるのに手に掴めない、もどかしさ。
 しばらく流れ落ちるグラスを眺めて感覚を探ったが、やがて諦めたように息をついた。消化不良を起こしたように、胸がもやもやする。ただこの感覚の正体は分からないけれど、彼らの事情を受け入れた実感はある。
 今は、それだけでいいか。
 大河はゆっくりと顔を上げて、二人を見据えた。
「そっか」
 穏やかな笑みを浮かべてそう一言だけ告げた大河に、弘貴と春平は一瞬驚いたように目を丸くした。グラスを持ち上げ、コーヒーに口をつけた大河を見つめる。
 大河がグラスを置いた時、二人がふっと息を吐くような笑みをこぼした。
「何?」
 視線を上げると、いいやと弘貴が首を振った。
「何でもねぇよ」
 隣では、春平が困ったような呆れたような笑みでグラスを持ち上げている。何か笑われるようなことをしただろうか。
 首を傾げて二人を眺めていると、ふと春平が視線を上げた。
「そういえば、時間大丈夫?」
「あっ!」
 話に夢中ですっかり忘れていた。真言の暗記中だったのだ。弘貴がジャージのポケットから携帯を取り出した。
「十時四十分だ。悪い、長話しすぎた。春、行こうぜ」
「うん。ごめんね大河くん、邪魔しちゃって」
「いや、大丈夫。あと二つだけだし、話しができて良かった」
 自分の分のグラスとカップを持ち、慌ただしく腰を上げて机に置きながら振り向く。トレーを抱えた春平と、扉に手をかけた弘貴を目が合った。さっきから何なんだ。
 大河が怪訝そうに眉を寄せると、弘貴が「おう」と満面の笑みを浮かべた。
「ほら春、行くぞ」
「うん。頑張ってね、大河くん」
「ありがとう、頑張る」
「それが大河の最後の言葉だった、とかならねぇようにしろよ」
「縁起でもないこと言うなよっ」
 可能性としてなくはないため、洒落にならない。大河が噛み付くと、二人揃って楽しそうに笑いながら扉を閉めた。他人事だと思って。
 大河は閉められた扉をしばらく見つめ、静かに溜め息をついて椅子に腰を下ろした。
「児童養護施設か……」
 ぽつりと口にして、ふと思い出した。実家から野菜が届いた時の、夏也のあの台詞。手間をかけているのはどっちだと親を非難した大河に対して、夏也は「そんな風に言ってはいけない」と嗜めた。やっぱり、夏也は親がいる事の有難みをきちんと理解していたのだ。
「……そういや、俺……」
 有難みとは少し意味が違うけれど、島を出る前、自分の我儘を受け入れてくれる両親や省吾たちが本当に大切だと思った。それなのに、毎日の忙しさに気持ちが薄れていた。しかもそう思っただけで、どう大切にするか、というところまで至らなかった。だから生意気な口を利き、連絡も遅れた。
 夏也は、それを教えてくれた。思い出させてくれた。
「……よし、やる」
 誰かの存在を有り難いと思った時、誰かを大切だと思った時、その気持ちをどう伝えるか、大切にするか。
 両親や省吾たちには、できる限り連絡を。寮の皆には、守るために影綱から受け継いだこの力を使うこと。もちろん当初の目的もあるし、実力は皆に到底及ばない。けれど、影正(かげまさ)の二の舞にはさせたくない。あんな思いを二度と味わいたくないし、皆に味わわせたくない。
 大河は手を伸ばしてメモを――スルーし、透明のカップを掴んだ。先に軽く腹ごしらえをば。
 蓋を開け、ピックで刺したケーキを口に運ぶ。一口噛むと、ほろ苦い甘さが口いっぱいに広がった。
「何これ、うまっ」
 もごもごとくぐもった声で感想を漏らし、今度こそメモを引き寄せて視線を落とした。

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