第3話

文字数 5,134文字

 紺野を追いかけて本部を出たはずの熊田は、物凄く不機嫌な顔で戻ってきた。そして何故か物凄く睨まれた。はいはい行きますよ、と佐々木に引き摺られるようにして捜査に戻った熊田に安堵したのはいいが、次は溜まりまくった資料や報告書の整理を押し付けられた。
 まあそのために残ってるんだけど、と自分に言い聞かせつつも、思考は逸れる。
 ここにいれば全ての情報はいち早く知ることができるし、何より紺野がいない今、捜査から外されるわけにはいかない。けれど、この山積みにされた資料や報告書のようにやることは多い。こんなところで暢気に整理している場合ではないとも思う。
 めくった報告書のファイルに、北原は手を止めた。
 入れ違いになった共生党党首・小山田(おやまだ)のこと、(あきら)のアリバイから大戦のことまで、あの日のことが全て書かれている。唯一小山田のことは重要視されたが、他は自分たちを含めた捜査員全員が黙殺した事件発生当初の報告書だ。
 あの後、周辺の防犯カメラを確認したが、明が外出した様子は映っておらず、また政治がらみの事件である可能性が持ち上がったため、小山田にも聞き込みが行われた。しかし小山田は、プライベートのことで話す義務はないの一点張りだった。明名義の銀行口座には、小山田以外の多数の政治家からも振り込みがされており、しかし事務所名ではなくあくまでも個人名での振り込みで、送金元も個人口座からだった。当然、聞き込みが行われたが、小山田と同じく任意である以上話す気はないとの回答だった。
 何か後ろ暗いことがあるのでは、と明を含め彼らの身辺を探ったがそれらしい動きはなく、むしろ深追いすれば苦情はもちろん、圧力がかけられることは目に見えており、断念された。政党を越えて何人もの政治家と繋がりがあるため、その圧力は半端なものではないだろう。明が陰陽師であると信じていない捜査員たちの間では、では何のために土御門家へ行き、振り込まれた金は何の金なのか、と疑問視されたままだ。
 また、政治家以外にも確認された個人名から身元を洗うと、名だたる企業の社長や重役や役員だった。中には、お祓いをしてもらい金はその代金だと証言した者もいたが、ほとんどは警察に疑われるようなことはしていないと一蹴し、さらに不審な行動や金の動きは確認されなかった。ここまでくると、ほんのわずかではあるが、捜査員の中に陰陽師というのは本当ではないのかと、次第に自分の認識を疑う者も出始めていた。
 とはいえ、自分の目で術を見たわけでもなく、刑事が非科学的なものをおいそれと信じるわけにはいかず、何やら悶々としているようだ。
 今考えれば、まあ言えないよな、と思う。彼らの目的は一様にして祈祷や占術や厄払い。プライベートであったとしても、この時代に陰陽師を名乗る人間と懇意にしている政治家や企業家など、胡散臭さ満載でイメージに傷がつく。しかし、土御門家と政治家らの繋がりは事実で、今現在でも明を疑う者はいるが、その関係性から思い切った捜査ができず二の足を踏んでいる状態だ。
 あれから、色々なことがあった。
 などと感傷に浸っている場合ではない。北原は手を動かしながら思考を巡らせた。
 どう考えても、あの紺野がこのまま大人しく自宅待機なんぞをするとは思えない。絶対に動く。となると、おそらく優先するのは例の事件の再捜査。ならばこちらは、三宅の事件だ。
 北原はわずかに眉を寄せた。
 紺野は、会合での証言もあり、昴を早々に被疑者から外した。気持ちは分かる。もし兄弟の誰かが昴の立場だったら同じ判断をしたかもしれない。けれど、だからこそ自分は冷静な判断を下さなければ。
 考えられる可能性は二つ。
 一つ目は、昴が犯人でない場合。三宅自身が恨みを買っていた。この場合、田代との関係は不明だが、三宅の人間関係を探れば被疑者はおのずと浮かび上がる。
 二つ目は、昴が犯人だった場合。加賀谷の推理は筋が通っている。さらに、三宅殺害が元々犯人たちの計画に組み込まれていたとしたら、昴は父親が殺されると知っていたことになる。
 あと考えられる可能性は、と逡巡し気が付いた。
 そもそも、白骨遺体が三宅という鑑定は正しいのか。
 下平と同じように、近藤(こんどう)の行動のタイミングの良さには疑問を抱いていた。けれど、彼ならば鬼代事件と増田事件の類似性に気付いてもおかしくないとも思った。確かにひと癖どころか二癖も三癖もあるし、未だまともに顔を見たことがない。はっきり言って怪しさ満載で正体不明の男だ。加えて下平が調べてくれた彼の過去。それでもこの三年間、紺野とくだらないことで諍い笑い合う彼を目の前で見ている。紺野ほどではないかもしれないが、そこそこ近藤の人となりは分かっているつもりだ。だからこそ、本当は疑いたくない。
 北原はぐっと歯を食いしばって次のファイルに手を伸ばした。
 疑いたくない。しかし疑わしい。この際、本人に直接聞いてみるか。
 ファイルの内容にこれっぽっちも目を通すことなく、なおざりにページをめくる。と、目に飛び込んできたのは矢崎徹の遺体写真。
 一瞬にして全身から血の気が引き、代わりに吐き気が込み上げた。
「う……っ」
 北原は両手で口を覆い、勢いよく椅子から立ち上がった。
「うわっ、びっくりしたぁ。どうした北原、顔色悪い……」
 偶然横を通りかかった先輩刑事が心配顔を浮かべ、しかし広げられたファイルに目を落として「ああ」と納得の声を漏らした。
「早く行け、その辺で吐くなよ」
 動物を追い払うようにしっしと手を振った先輩になんとか頷き、北原は全速力で捜査本部を飛び出した。
 やれやれといった顔で溜め息をついた先輩の背後で、加賀谷が二人の部下に顎をしゃくった。
 真っ青な顔でトイレに駆け込むと、北原は力任せに扉を閉めて便器に顔を突っ込んだ。水を流しながら、込み上げてくるものを込み上げてくるだけ吐き出し、激しく咳き込む。
 全て流れ切り、水が止まった。半ば放心状態で便器の中を見つめ、一息ついたところで壮絶な自己嫌悪に襲われた。
 三年経ってもこんなだから半人前だと言われるのだ。
 この三年、凄惨な遺体をいくつも見てきた。なんとか耐えてはいたものの、強弱はあるが吐き気をもよおすのは変わらなかった。けれど鬼代事件の遺体に関しては、これまでとは比べ物にならないほどの損壊具合で、どうしても耐えられない。紺野たちは、何故平気なのだろう。
 北原は便器の蓋を閉め、ゆらりと立ち上がって腰を下ろした。溜め息をつきながら交差させた腕を膝に置き、上半身を曲げて額をくっつける。
 ふつふつと湧き上がってくる情けなさに、鼻の奥がツンと痛んだ。
 自分は刑事には向いていないのだと思うたびに、紺野の言葉を思い出す。
 あれは、初めて逮捕状を執行する役目を任された時。自宅から出てきた被疑者に逮捕状を見せて読み上げたまでは良かった。しかし、殊勝な顔をして家族に説明してくると言った被疑者が家の中に引っ込み、さらに扉を閉められてしまった。逃亡の恐れがあるため、どんな理由があろうと扉を閉められるのはもちろん、家の中に入れてはならない。大慌てで扉を開けると、被疑者は裏口から逃走しており大捕り物になった。当然紺野に激怒され、先輩刑事から小言を言われ、一課長からは大目玉を食らった。
 その日の仕事終わり、紺野から飲みに誘われた。弱音を吐き続ける北原に、紺野は言った。
『自分の失敗を後悔できるってことは、それだけ伸び代があるってことだ。安心しろ、向いてねぇって思ったら俺が直接引導渡してやる』
 まあ致命的な失敗したら俺より先に上から引導渡されるだろうけどな、と紺野は付け加えた。今のところ、色々と苦言は呈されるが引導は渡されていない。
 北原はぐっと歯を食いしばり、顔を上げた。おもむろに両手を上げ、勢いよく頬に打ち付ける。甲高い音がトイレに響いた。
 自分の不甲斐無さに嘆いている暇はない。今頃きっと、紺野も何か策を練っているはずだ。
 まずはこの状況だ。紺野と行動を共にしていた以上、監視が付く。おそらく今もトイレの外で待機しているだろう。鑑定の正誤を近藤に聞くにしても、会話の内容を知られるわけには――いや、問題ない。後輩として鑑定結果に疑問を持ち、確認するくらいなら自然だ。
 よし、と北原は呟き、携帯を取り出した。
 相変わらず忙しいのか、コール五回で不機嫌な声が電話に出た。
「はい……。珍しいね、北原くんが連絡してくるなんて」
 これは不機嫌というより、寝起きか。もう夕方なのだが。念のため、北原は声量を押さえて喋る。
「すみません、ちょっと聞きたいことがあって」
「聞きたいことぉ?」
 あくび混じりの声に脱力しそうだ。
「例の歯型の鑑定ですけど、あれ、間違いなんてことはないですか」
 率直に尋ねると、無言が返ってきた。近藤は自分の仕事にプライドを持っている。北原はごくりと喉を鳴らした。
 やがて返ってきたのは、今度こそ壮絶不機嫌な声だった。
「北原くんは僕の鑑定を疑うの? ていうか、今まで僕が間違った鑑定したことある?」
「い、いえ、そういう意味じゃないんですけど」
「じゃあどういうつもりでわざわざ電話してきたの? 喧嘩売ってるの?」
「違います違います」
「何? 何なの? 紺野さんに言われたの? 代わってよ」
 このままでは洒落にならないくらい激怒されそうだ。北原は口元を片手で覆い、さらに声をひそめた。
「近藤さん聞いてください。実は、鑑定で判明した三宅なんですけど」
「は?」
 容赦なく苛立ちが伝わってくる。心で悲鳴を上げながらも、北原は言った。
「紺野さんのお姉さんの、元旦那さんだったんです」
 電話の向こう側がしんと静まり返り、トイレに「あー、しんど」という気だるそうな声と共に署員が入ってきた。用を足す音が聞こえる。長いわ! と突っ込みたくなるほど長い用を足した署員は、鼻歌を歌いながら手を洗って出て行った。
「…………何それ。ほんと?」
 沈黙を破った声は、唖然としているように聞こえる。本当に知らなかったのか、それとも演技か。やはり直接会って聞くべきだったか。だがあとには引けない。
「本当です」
「でも、元でしょ? 紺野さんと仲が良かったの?」
「いえ、そういう感じではないみたいですけど」
「じゃあ何も問題ないじゃない」
 昴のことを話していいものか。逡巡する。北原は意を決したように口を開いた。
「甥っ子が一人いて、彼が疑われているんです」
 また沈黙が返ってきた。だが今度はすぐに破られた。
「もしかして、捜査外されたの?」
「はい。自宅待機です」
「はあ……?」
 呆れた声を漏らし、近藤は溜め息をついた。
「鑑定は間違ってない。他の人にも確認してもらってる」
 おそらく嘘ではないだろう。調べればすぐに分かるような嘘をつくほど、近藤は馬鹿ではない。そうですか、と北原は力なく答えた。
「紺野さん、今どうしてるの?」
「あー……、多分家に帰ってる、と思うんですけど……」
「あの人が大人しくしてると思う?」
「……思いません。あ、そうだ。俺が近藤さんに電話したこと言わないでくださいね。動くなって言われてるので」
「分かってるよ。北原くんが紺野さんのこと心配して僕の鑑定を疑ったなんて言わないよ」
 棘だらけの嫌味に、北原はすみませんと肩を竦めた。
「話はそれだけ? 僕、仮眠中だったんだよね。まだ仕事が残ってるんだ」
「あ、はい。すみません、ありがとうございました」
「じゃあね」
 近藤はあっさり言って通話を切った。
 画面を眺めながら、北原は息をついた。率直な感想は、かなり驚いていたように聞こえた。近藤は口が立つし飄々としている印象だが、自分の欲求や感情に素直な分、演技ができるタイプとは思えない。だが逆も有り得る。自分の欲求を満たすために演技も厭わない。それに、昴のことを何も聞いてこなかったし、何よりもあの話の終わらせ方。早く電話を切りたがっているようだった。
 これでは判断ができない。やはり直接会って話を聞く方がいいだろうか。しかし、直球で「鬼代事件の犯人ですか」と聞いて答えてくれるわけはないし、遠回しに聞くとしたらどう聞けばいいのか。
 北原は携帯を握り締めて低く唸った。と、
「おーい、北原。生きてるかー?」
 先程、驚かせてしまった先輩の声だ。長居しすぎたか。
「あっ、はい。大丈夫です!」
 急いで携帯を胸ポケットにしまって腰を上げる。個室から出ると、呆れ顔の先輩にそれはそれは長い溜め息をつかれた。
 平身低頭謝りながら口をゆすぎ、捜査本部に戻る。
 監視が付いている状態で、外で会うわけにはいかない。だとしたら、科捜研に直接行くしかない。
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