第3話

文字数 2,087文字

 鳥居から下を見下ろす。神橋も灯籠も木々も、悪鬼の黒さや結界のほのかな光さえ。一寸先も見えないほどの濃い霧。
 この濃さなら、いくら悪鬼でもこちらの姿は視認できず、霊気に反応する。この場合、香苗が放った擬人式神の霊気と、水龍の神気。ただ、悠長にはしていられない。自然現象の霧ではないので簡単に消えることはないし、多少なりとも神気が宿っている。取り込もうとはしないだろう。ただ、強く排せば視界が開ける。人なら意表をつかれることを警戒して排すか迷うところだろうが、相手は悪鬼だ。何をしてくるか分からない。とはいえ、視認できないのはこちらも同じだ。急いて失敗すれば命はない。
 落ち着いて、霊気も気配も消して、悪鬼の邪気を探って動きを追え。
 霧がちらちらと動く。悪鬼が水龍と擬人式神を狙って攻撃しているのだろうが、動きが鈍い。要は神気に囲まれている状態だ。居心地は非常に悪いだろう。水龍と擬人式神が上手く誘導してくれているらしい。こちらへ近付いてくる。
 水龍のおかげでずいぶんと数を減らしているはずだ。霊力は消費するけれど、いける。
美琴は細く深呼吸をして息を整えると、笠木の角に足をかけ、軽く押し出すようにして飛び下りた。
 一瞬だった。
 体感として落ちているのは分かるが、視界が真っ白に覆われているため景色が変わらない。このままずっと落ち続けるのではないかと小さな不安が胸を掠める前に、一瞬で視界が黒く切り替わった。ほぼ同時に落下する感覚がなくなる。突然停電した時と同じだ。前後左右の感覚が上手く掴めず、しかし足の裏には地面に立っているような感触がある。気温も適温。大河が言った通りだ。悪鬼の内部への侵入に成功したらしい。それらしい感覚は感じられなかったのに。
「気持ち悪……」
 美琴は顔をしかめてぼそりと呟き、霊符を取り出した。
 どういう理屈で成り立っているのかさっぱり理解できない。だが、理解も暗闇に慣れる必要もない。さっさと調伏して脱出だ。と。
 ――どうして。
 不意に囁くような女の声が聞こえ、次々と声が重なった。
 ――苦しいよ。
 今度は子供の声。
 ――許さない。
 次は男。
 ――羨ましい。
 ――あいつばっかり。
 ――悔しい。
 ――嘘つき。
 老若男女の声がいくつも重なり、あっという間に何を言っているのかさえ聞き取れなくなる。こうなるとただの雑音だ。
 美琴は一文字に唇を結び、眉を寄せた。
「恨み事を聞いてる暇はないのよ」
 改めて霊符を口元にあてがい、少し語気を強めて真言を唱える。
「オン・マカヤシャ・バザラサトバ・ジャク・ウン・バン・コク・ハラベイサヤ・ウン。帰命(きみょう)(たてまつ)る。邪気捩伏(じゃきれいふく)碍魂誅戮(がいこんちゅうりく)無窮覆滅(むきゅうふくめつ)急急如律令(きゅうきゅうにょりつりょう)
 自立し、宙に浮かんだ霊符からカッと強い光が放たれる。墨で塗りつぶしたような漆黒の闇が黄金色の光に飲み込まれ、一斉に悪鬼が苦しげに咆哮した。思わず顔の前に手をかざして目を細める。
 鼓膜が破れんばかりの咆哮は、まるで死に際の獣の慟哭だ。
「……ごめん」
 伏せ目がちにぽつりと呟いた言葉は、悪鬼の唸り声に掻き消された。
 ふ、と突然体が宙に浮いた感覚を覚えた。まだうっすらと霧が残っていて、地面が見えない。だがそう離れてはいないだろう。そんな予想通り、すぐに足の裏が地面の感触を捉えた。膝を柔らかくして両足でとんと着地し、すぐに周囲に視線を走らせる。
「美琴ちゃん!」
 目に入ったのは、霧を掻き分けて今にも泣きそうな顔で駆けてくる香苗の姿。それと、ひと回り小さくなった水龍と、二体に減った擬人式神。地面には三体分の残骸が散らばっている。耐水性ではないのに、霧の中にいて二体も残ったのは予想外。上出来だ。
 そして悪鬼は――いない。
 美琴はほっと安堵の息をついた。
「美琴ちゃん、怪我ない? 大丈夫?」
 香苗が心配顔でちょろちょろと周りを移動し、体中のあちこちを確認する。心配したのは――と言いかけて、素直じゃない自分が顔を出した。代わりに出たのは、溜め息だ。
「大丈夫よ。……あんたは?」
 ぼそっと問い返すと、香苗は顔をキリッとさせた。
「大丈夫。一応灯籠の影に隠れてたから」
「そ」
 そっけない返事に、うんと大きく頷く。
 香苗には、絶対に術を使うな気配を消して離れていろと指示を出していた。何度か一緒に仕事をしたことはあるが、必ず茂や華たちと一緒だったので組んだことはない。だから現場で戦っている姿を見たことがない。だが、報告書を読む限り指示には忠実に動いていたし、さっきもそうだった。なるほど、重宝されるわけだ。
 美琴は水龍に目を向けた。濃い青の目と視線が合う。
「悪いわね。でも助かった、ありがとう」
 水龍がいなければ、この作戦は実行できなかった。ずっと悪鬼の足止めをし、囮にもなってくれた。美琴が微かに笑みを浮かべると、水龍は大きく尾を振った。
 さて。気を抜くのはまだ早い。本殿の方では、結界が火花を散らし、白と黒の煙があちこちで絶え間なく上がっている。茂が気になるけれど、まずはこちらを一掃してしまわなければ。
「戻るわよ」
「うん」
 二人は、水龍と擬人式神を従えて本殿へと走った。
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