第3話

文字数 4,722文字

「とりあえず、言ってみてくれるかな」
 昼食後、ソファに移動して茂が言った。
 食事をしながら、どうしても詰まる個所があると話したら、皆一様に弘貴と同じ反応をしてきた。活舌が悪いと言われたことはないが、ここまでくると疑ってしまう。
 大河は茂と対面の位置に腰を下ろし、はいと返事をして息を吸った。ダイニングテーブルでは、弘貴たちが食後のアイスコーヒーを片手に、興味津津に様子を窺っている。
「ノウマク、サマンダ、バサ……バ、ザラダン、カン……」
 やっぱり間違えた。意気消沈して肩を落とした大河に、茂が納得したように頷いた。
「大河くん、唇だけを動かして唱えようとするからだよ。きちんと口を開けて言ってごらん」
「え?」
 指摘されるほど開いていなかっただろうか。顔を上げると、弘貴が口を挟んだ。
「自信がない奴って、口の中でもごもご喋るだろ。お前、今そんな感じだぞ」
「そうなの?」
 うん、と皆が一斉に頷く。気が付かなかった。一度躓いてから苦手意識が芽生えたせいだろうか。
「それとね、文字で書くとどうしても句点で区切られるけど、唱える時は区切る必要ないからね。昨日、宗史くんたちの真言を聞かなかったかい?」
「そう言われれば……」
「暗記する時は区切って覚えた方が覚えやすいけど、声に出す時は流れで唱えた方がいいよ。そのうち口癖みたいになってくるから。結界の真言もそうだろう?」
 大河は逡巡した。茂の言う通り、結界の真言はもう滑るように口から出てくるし、島でも昨日の仕事でも、宗史たちは流れるように唱えていた。いちいち区切っていなかった。
「よし」
 姿勢を正し、真っ直ぐ茂を見据えた大河に皆の注目が集まる。大河は大きく息を吸った。口を開けて、流れるように。
「ノウマク・サマンダ・バザラダン・カン。帰命(きみょう)(たてまつ)る、邪気砕破(じゃきさいは)邪魂擺脱(じゃこんはいだつ)顕現覆滅(けんげんふくめつ)急急如律令(きゅうきゅうにょりつりょう)! 言えた!」
 今にも小躍りしそうなほど目を見開いて満面の笑みを浮かべる大河に、茂が満足気に頷いた。だが。
「大河くん、それで最後かい?」
「はい!」
「じゃあ復習だよ。三つ、間違えずに続けて言ってみようか」
「……え?」
 笑みを浮かべたまま固まった。ダイニングの方から小さな笑い声が漏れる。
「どうしたんだい? 覚えたんだよね?」
 にっこりと浮かんだその笑みは有無を言わせないと言っている。もし間違えたら何かお仕置きでもされるのだろか。元教師らしく、暗記の追加とか。
 大河は全身を駆け巡った鳥肌に身震いした。もうこれ以上詰め込むと覚えた先から忘れてしまう。ここは気合を入れてクリアするに限る。
 表情を引き締めて再び姿勢を正し、膝の上で拳を握った大河を見て、茂が笑みをしまった。
「では、結界から」
 気合を入れて息を吸い込んだ。
「オン・ロケイジンバラ・ラジャ・キリク。帰命し奉る、門戸壅塞(もんこようそく)怨敵撃攘(おんてきげきじょう)万物守護(ばんぶつしゅご)急急如律令(きゅうきゅうにょりつりょう)
「次、浄化」
「オン・カカカ・ビサンマエイ・ソワカ。帰命し奉る、愛執済度(あいしゅうさいど)道途光明(どうとこうみょう)光許嚮導(こうきょきょうどう)急急如律令(きゅうきゅうにょりつりょう)
「調伏」
「ノウマク・サマンダ・バザラダン・カン。帰命し奉る、邪気砕破(じゃきさいは)邪魂擺脱(じゃこんはいだつ)顕現覆滅(けんげんふくめつ)急急如律令(きゅうきゅうにょりつりょう)!」
「はい、合格」
「やった!!」
 無邪気に拳を上げて喜ぶ大河に、ダイニングから拍手が届いた。何だか照れ臭い。
「後は霊符なんだけど、影正さんのノートに霊符の図も載ってたよね?」
 余韻に浸る間もなく問われ、大河は頷いた。
「大河くんは、絵心あるかい?」
「絵心? ありません」
 すんなり否定した大河に苦笑が漏れた。
 工作は得意だが、絵に関してはさっぱりだ。何とかの叫びだの悲鳴だの言われても、何がどう評価されているのかまったく理解できなかった。とは言え、確かに霊符の図は奇怪な模様ばかりだったが、何か問題でもあるのだろうか。
「まあ、こればかりは描いて慣れるしか……あれ? でも、島で略式の術使ったって聞いたけど。霊符はどうしたんだい?」
「じいちゃんが描いたやつが残ってたんで、それ使いました」
「なるほど、そうかぁ……」
「コピーじゃ駄目なんですか?」
「直筆にも霊力が籠るんだよ」
 なるほど。今の時代、コピーすれば大量生産が可能だし手間が省けると思うのだが、そこか。
「仕事の話を聞いているんなら、護符を渡していることも聞いてるよね?」
「はい」
「その護符も直筆が絶対なんだ。ましてや陰陽師である僕たちが、コピーされた霊符を使うのは言語道断。だから、頑張って描けるようになってね」
 満面の笑みでプレッシャーをかけられ、大河は顔を引き攣らせて頷いた。実はこの人が一番厳しいのではないか。
「それなら、道具一式揃えないといけませんね」
 春平が口を開いた。
「あー、そっか。いちいち貸し借りすんの面倒だもんな」
「道具って?」
「練習用の半紙と筆ペンかな。本番用の筆と墨は、後で怜司くんに言って手配してもらおう」
「えっ、筆と墨なんですか?」
「そうだよ。取り急ぎなら筆ペンでも代用できるけど、きちんと描いた物の方が――」
 不自然に言葉を切った茂に首を傾げて待つ。
「神様が喜ぶ」
 物凄くあやふやな理由に、大河は肩を落とした。何だそれ。
「まあまあ、筆に慣れてて損はないよ。将来絶対役に立つから」
 ね、と茂は小首を傾げた。
 将来っていつだよ、と思った時、ふと影正の葬儀を思い出した。芳名帳の記入は、筆ペンだった。
 葬儀の参加者は年配者が多く、特に、島で一番の年長者である風子の曽祖母・都志子(としこ)は、御年百を超えている。年々体は衰弱し、自宅ではゆっくりとでも歩いているようだが、出掛ける時は車椅子だ。いつ迎えが来てもおかしくないと、微笑みながら自分で言っていた。いつか葬儀に参列する時が来る。習字の先生をしていた彼女なら、その時、少しでも綺麗な字が書けるようになっていたら喜んでくれるかもしれない。
「分かりました、頑張ります」
 同意した大河に、茂は満足そうに頷いた。
「じゃあさ、樹さんまだ起きてくる気配ないし、買い物がてら近所ぐるっと哨戒しようぜ。練習用だし百均でいいよな」
 嬉しい提案をしながら弘貴が立ち上がった。
「ああ、いいね。天気もいいし、気分転換しておいで」
「いいんですか? やった」
「春、お前も来るだろ」
「うん」
「あ、それならついでに頼んでいいかしら。キッチンの排水溝の水切り網。ストッキング仕様のやつ。この前買い忘れちゃって」
「いいですよ。他に何かあります?」
 大河が立ち上がりながら尋ねると、美琴(みこと)がぽつりと言った。
「あたし、筆ペン二本。お金、後で返すから」
「了解、二本ね。後は?」
「僕も半紙頼んでいいかな」
「あ、あたしもお願いしますっ」
 昴と香苗(かなえ)が便乗した。
「えーと、排水溝の水切り網と筆ペン二本と半紙二袋」
 大河はぶつぶつと反復し、にっこり笑って春平を見やった。
「だって、春」
「分かった、覚えとくよ」
 大河の記憶力は当てにできないと踏んだのか、それとも記憶することを放棄したことを察したのか、春平は苦笑いを浮かべた。
 水切り網の領収書貰ってきてね、と言う華の声に返事をしながらリビングを出る。ひとまず部屋へ戻り、それぞれ財布と携帯を持ち、再び合流した。大河はお守りも忘れずにポケットに突っ込んだ。
「お前、あのくらい覚えろよ」
「やだ。もう今日は頭使いたくない。早く体動かしたい」
「大河くんって、体で覚えるタイプだよね」
「うん。小難しいこと考えるの向いてない。だから宗史さんとかすっごい尊敬する」
「あの人はもう別格だろ。何せK大生だ」
「あ、やっぱり。何となくそんな気がしてた」
 雑談をしながら靴を履き、玄関をくぐる。
「でもさ、体で覚えるタイプなら、霊符すぐに描けるようになるんじゃねぇの? 真言と同じで描き続けてたら手癖みたいになるし」
「ほんと?」
「うん。僕たちも初めは描き辛かったよ」
「結構苦労したよな。あ、こっち」
 門を出て、弘貴に促されるままついていく。
 今日も朝から日差しが容赦なく照り付けているため、足元から否応なく熱が上がっているのが分かる。裸足で歩いたら一瞬で火傷しそうだ。犬や猫たちは地面との距離が近いため、人よりアスファルトの熱を感じやすく熱中症になりやすいと聞いたことがあるが、それ以前に足は熱くないのだろうか。裸足なのに。
 住宅街を並んで歩きながら、大河は弘貴の「K大生」発言で思い出したくないことを思い出し、小さく溜め息をついた。
「あのさ、弘貴と春の学校って、もう進路希望調査あった?」
「ああ、あったぞ」
「……二人は、どうするの?」
 遠慮がちに尋ねた大河に、弘貴がそうだなと前置きをして言った。
「俺は勉強苦手だし、大学行ってまでやりたいことねぇから。陰陽師の仕事好きだし、このままやっていければと思ってる。だから一応就職って書いた。さすがに陰陽師とは書けねぇからな」
 もうはっきりと決めているのだろう。そう語る弘貴の表情に迷いは見えない。
「春は?」
 春平を見やると、こちらは少し迷ったような表情だ。
「僕は、できれば寮を出たいんだ」
「え、何で?」
 確かに、寮を出ても陰陽師として活動はできる。だが、生活するには寮の方が楽そうに思えるが。大河が首を傾げると、春平は俯いた。
「一人暮らしってやっぱり憧れるし。奨学金受けて大学行って、普通に就職したい。あ、もちろん必要な時には手伝いたいと思ってる。たくさんお世話になってるし、恩返ししたいから」
 そう言って、春平は笑みを浮かべた。春平がどんな経緯でここに来ることになったのかは知らないが、陰陽師として育ててもらったことを感謝しつつも、それでもここを離れたいと思うことを後ろめたく思っている。そんな風に見えた。
「大河は? どうすんだ?」
 弘貴に問われ、今度は大河が俯いた。
「……まだ、決めてない……」
 省吾も弘貴も春平も、自分の将来を見据えていた。やっぱり、自分だけが宙ぶらりんだ。
「そうか。でもまあ、まだ半年以上あるしさ、ゆっくり考えれば? つーか、個人的にはこのまま一緒にやってければ楽しいだろうなと思ってるけどな」
 弘貴の言葉に、大河は目を丸くした。
 このまま陰陽師として働く。そんなこと、考えてもみなかった。進学か就職か、選択肢はそれしかないと思い込んでいたから。
 そうか、その道もあるのか。
 にかっと白い歯を見せてはにかんだ弘貴を見上げ、大河は笑みを浮かべた。
「ありがと。考えてみる」
 おう、と一言返し、あっついなーと言いながら手庇で空を見上げる弘貴に倣うように、大河も目を細めて顔を上げた。
 刀倉家は(さい)の御魂塚の守人だった。それが崩壊した今、あの島に留まる理由は無くなった。ならば、島を出ても何の支障もないはずだ。
 でも、大好きな島を出ることを考えると、すぐには決められない。
「大河くん」
「おーい大河、置いてくぞ」
 気が付けば先に行っていた二人に呼ばれ、大河は小走りで追いかけた。
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