第15話

文字数 3,073文字

 大河は一匹と一柱を目で追いかけて拳を握り、諦めたように詰めていた息を吐いた。
 示し合わせたように全員が安堵の息を漏らすと、張り詰めていた空気が緩んだ。するとおもむろに香苗が踵を返して、置きっ放しにしていたゴミ袋の方へ向かった。こんな目に遭えば二度と捨てようなどとは思わないだろうが、何せあの女がいる。先に帰らせた方がいい。大河と弘貴と春平も続く。
 大河たちがゴミ袋を荷室に詰め込む間、茂たちは困惑気味の顔を見合わせた。状況は理解できたが何故隗がいるのかまでは分からない、といった顔だ。
「とりあえず宗史くんたちに連絡して、聞くのは戻ってからにしようか」
「そうですね」
 茂の判断に華と昴と美琴が頷いた。華が携帯を取り出し、ふと手を止めた。視線の先には、香苗。
 ゴミ袋を積み終わりドアを閉めると、香苗が未だ呆然とする父親の前に立った。
「……お父さん、大丈夫?」
 腰を屈め、小さな手を差し出す。父親がゆらりと視線を上げた。能面のようだった顔がじわじわと歪み、虚ろな目に恐怖の色が浮かぶ。勢いよく香苗の手を弾いた。
「近寄んな! 何なんだよお前ら気色悪ぃ!」
 正気に戻るや否や、開口一番に吐き出された暴言。香苗は悲しげに眉を寄せ、手を握って引っ込めた。また大河もきゅっと唇を結ぶ。
「てめぇいい加減にしろよ! 誰のせいでこんなことになったと思ってんだ!」
「弘貴!!」
「放せ! 殴らねぇと気が済まねぇ!」
 憤慨した弘貴を、大河と春平が両側から腕を掴んで引き止めた。放せ、と暴れる弘貴を無理矢理押さえ付ける。
「俺は子供なんかいらねぇっつったんだよ!」
 耳に飛び込んできた言葉に、大河たちがぴたりと止まった。
「それをあいつがどうしても産みたいって言うから産ませてやったんじゃねぇか! そしたらこのザマだ、やっぱ産ませるんじゃなかった!」
 怒りとか呆れとか、そんな感情を通り越して幻聴かと思った。絶句し、言葉を失った大河たちの意識を戻したのは、ザッと地面を滑った右近の草履の音と、昴の切羽詰まった声。
「美琴ちゃん!?」
 全員が振り向くと、背中を丸め、胸の辺りを両手で掴んで膝から崩れ落ちる美琴を、昴が咄嗟に支えたところだった。
「美琴ちゃん!」
「美琴!?」
 茂と華が慌ててしゃがみ、大河たちも弾かれたように駆け寄った。皆に囲まれた美琴の口から、ひゅうひゅうと隙間風のような呼吸が聞こえる。何かの発作だろうか。大河が右近と閃を振り向く前に、弘貴と春平が叫んだ。
「ヤバい、過呼吸だ! 昴さん代わって!」
「皆、その場で静かに、動かないで!」
 慌てて立ち上がった昴と弘貴が入れ替わり、春平が鋭く指示を出す。弘貴はしゃがみ込んで膝をつき、美琴の肩を抱くと落ち着いた声で囁くように言った。
「美琴、大丈夫だから。皆ここにいる、大丈夫だから、落ち着け。ゆっくり息を吸って、ゆっくり吐け。数を数えるから、それに合わせろ」
 大丈夫、ともう一度繰り返して、弘貴はゆっくりと数を数えはじめた。いーち、にーい、とかなり遅いスピードに合わせて、美琴がたどたどしく呼吸をする。
 森の中に、弘貴の落ち着いた声と、美琴の呼吸の音だけが響く。
 どれくらいそうしていたのか。やがて、大きく上下していた背中は落ち着きを取り戻し、呼吸音も小さくなってきた頃、弘貴が数えるのをやめた。
「落ち着いたか?」
 弘貴が顔を覗き込むようにして尋ねると、美琴が小さく頷いた。全員からほっと安堵の息が漏れる。弘貴が顔を上げた。
「しげさん、すぐ帰らせて休ませた方がいいと思う。念のために明日病院に……」
「やだ、何……?」
 弘貴の言葉を、女の声が遮った。全員が視線を投げる。女は地面に座り込んだまま顔を歪ませ、両手を胸で組んだ。
「何? 今の。過呼吸? 怖っ、気持ち悪っ」
 頭に血が上ったのは大河だけではない。あまりにも不謹慎すぎる。父親といい、もう我慢の限界だ。
「あんた……っ」
「お前さっきから……っ」
 同時に女の元へ一歩踏み出した大河と春平の横を、香苗が素早く通り過ぎた。足早に女のところへ行くその背中を、大河と春平は思わず足を止めて見送る。
「な、何よ」
 目の前で立ち止まって見下ろす香苗を見上げ、女が口を尖らせた。香苗は一文字に口を結び、無言のまま膝をついて女を睨み付けると、容赦なく右手を振り抜いた。
 パンッ、と肌を打つ甲高い音が木霊する。
 誰もがその行動に驚いて、目を丸くした。
 香苗はすっくと立ち上がり、両手を握り締め、女を睨むように見下ろした。
「苦しんでる人に……っ、あたしの友達に酷いこと言わないで!!」
 怒りのせいだろうか。握った拳がわずかに震えている。
 香苗は呆然とする女を置いて踵を返し、険しい顔をして大河たちを通り過ぎた。父親の前で立ち止まって、深く俯く。
「なん……」
「もう、二度と会いません」
 父親の言葉を遮って告げられた言葉に驚いたのは、右近だ。香苗がゆっくりと頭を上げた。
「二度と貴方の言うことは聞かない。だから来ないで」
 香苗はきゅっと唇を結び、覚悟を決めたように力強い眼差しで見据えた。
「あたしの家族は、貴方じゃないから」
 はっきりと告げた声には一切の迷いがなく、小さく頼りなかった背中は、どことなく大きく見えた。
 今まで何を言われても言い返さなかった香苗が、初めて怒った。驚きもあったけれど、怒るきっかけが彼女らしくて、少しだけ心がほころぶ。
 くるりと父親に背を向けて小走りに戻ってくる香苗は、今にも泣きそうな顔をしていた。けれどそれは、父親との別れを悲しむものではないだろう。
「美琴ちゃんっ」
「香苗」
 美琴に駆け寄ろうとした香苗を止めたのは、右近だ。
「明日にしろ」
「あ……はい……」
 申し訳なさそうに眉尻を下げ、両側を弘貴と華に支えられて体を起こす美琴を心配そうに見守る。
「美琴、立てる?」
 美琴は俯いたままゆっくりと立ち上がり、しかしすぐによろけた。様子を見守っていた閃が動いた。
「華、弘貴、代わろう。私が送り届ける」
 え、と美琴が小さく呟いた。
「あ、そうか、そっちの方が早いか」
「そうね、じゃあお願いするわ。宗史くんたちに連絡しとくわね」
「ああ」
 華と場所を交代した閃は、美琴の腰に腕を回して支えた。弘貴が離れると、上半身を屈めて膝裏に腕を差し込み、軽々と持ち上げた。俗に言う、お姫様抱っこだ。一瞬で抱え上げられた美琴はぽかんと口開け、はっと我に返って顔を強張らせて俯いた。
「頼んだよ、閃」
「できるだけ静かに運んでやって」
「美琴ちゃん、帰ったらすぐに休んだ方がいいよ」
「気を付けてね」
 茂、弘貴、春平、昴が口々に声を掛ける中、大河は初陣の時のことを思い出し、ゆっくりじわじわと首を横に倒す。お姫様抱っこはどうやら女性にとって憧れであり、かつ恥ずかしいものらしい。閃の身長が高いため、目的のものはすぐに見えた。思った通り、真っ赤だ。視線に気付いた美琴と目が合ってじろりと睨まれたが、すぐに逸らされた。ほら、やっぱり可愛い。
「美琴、寄りかかれ。そちらの方が安定する」
「えっ?」
 何言ってんの? と言いたそうだが決して顔は上げない。
「そうよ美琴。確か、緊張が良くないのよ。閃は絶対に落としたりしないから、安心して任せておきなさい」
 美琴の頭を撫でる華に、華さんそこじゃない、と大河は心で突っ込んだ。
「いや、ちが……」
「では、先に戻る」
「ちょ……っ」
 何やら言いたげだった美琴を無視し、閃はさっさと跳び上がってこの場を後にした。色々な意味で大丈夫だろうか。少しの不安を胸に、大河は小さく手を振った。

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