第10話

文字数 6,155文字

 新風堂には、茂も時々世話になっている。出てきた客と入れ替わるように店に入り、迷うことなく正面のレジカウンターへ向かう。休日の午前中ということもあってか、ちらほらと立ち読み客や子供連れの親子がいる程度で、まったりとした空気が流れている。
 レジの店員は接客中だったので、横の作業台で雑誌に紐を掛けていた若い女性店員に声をかけた。
「お仕事中すみません」
 声を潜めた茂に、店員は手を止めて顔を上げた。
「K中学の佐伯と申します」
 女性店員は「ああ」と口の中で呟いた。
「どうぞ」
 雑誌を置いてレジカウンターから出て先行する彼女の後を追いかける。ちょうど接客が終わったレジの女性店員が、興味津津な目で一瞥した。
 店員は入口の方へと戻り、フェア台を横目に通り過ぎて、右手の雑誌のコーナーへと足を向けた。音楽、アニメ、ホビー、旅行、料理などの趣味関連の雑誌や書籍がびっしり陳列された什器の間を通り、正面に「スタッフオンリー」とプレートが貼られた扉を開けた。
 すると、目の前に細い通路を挟んで扉が一枚現れた。今度は「事務所」のプレートが掲げられている。通路は右手に延びており、片側に行く手を塞がんばかりに大量の段ボール箱がうず高く積まれていた。壁に立て掛けられた数台の台車、販促用の等身大パネル、丸めたポスター、天井まで届くスチール製の棚には陳列前のコミックが並び、雑然としている。
 店員が事務所の扉をノックすると、すぐに「どうぞ」と声が返ってきた。扉を開けた店員に促され、会釈を残して茂は中へと足を踏み入れた。
「失礼します」
 事務所兼休憩室になっているらしく、扉のすぐ左手に冷蔵庫とレンジ台、右手にコピー機、中央に長机と椅子が設置され、壁一面にはスチール棚。そして正面には、壁に向かって事務机が三台並べられている。
 入るや否や、その真ん中の事務机を取り囲んでいた者たちが一斉に振り向いた。ピリッとした険悪な空気が肌を刺す。
 少女とエプロンを着けた中年男性が向かい合って椅子に腰を下ろし、少女の方には茂のクラスの副担任をしている若い女性教諭の井上(いのうえ)と、電話をくれた三浦。中年男性の後ろには、同じくエプロンを着けた若い男性店員が立っている。
 膨れ面をした少女――藤木麻里亜がすぐに顔を逸らして俯いた。
「佐伯先生っ」
 情けない声を上げた井上を三浦が無言で制した。茂は三浦と目を合わせて頷くと、おそらく店長だろう、険しい顔で見上げてくる中年男性の前で足を止めた。
「担任をしております、佐伯と申します」
「どうも。店長の中村です」
 無愛想というよりは、腹立たしさを押し殺した声といった方が正しい、低い声だ。本屋は万引きが多いと聞くが、ここまであからさまに不快感を表に出すものなのだろうか。
 茂は体を小さくして俯く麻里亜を一瞥し、店長に視線を戻した。
「ご迷惑をおかけしたようで申し訳ありません。ですが……彼女が万引きをしたというのは本当でしょうか」
「本当ですよ」
「してない」
 同時に返ってきたのは、まったく逆の答えだった。眉をひそめた茂とは反対に、店長は目を吊り上げて麻里亜を見やった。
「まだそんなことを言うのか、君は!」
「盗ってない!」
 甲高い声の反発に、店長は顔を覆ってうんざりした溜め息をつき、井上と三浦はすっかり困り果てた顔をし、若い店員はいい加減にしてくれと言いたげに天井を仰いだ。
 デスクの上には、麻里亜の物であろうバッグと財布、ハンカチ、携帯、そして二冊のコミックが並んでいる。袋に入っているものと、むき出しの物が一冊ずつ。
「申し訳ありませんが、説明していただいてもよろしいでしょうか」
 店長はもう一度溜め息をつき、袋に入っている方のコミックを手にとって表紙を茂に向けた。
「こちらの漫画はご存知ですか」
 ええ、と茂は頷いた。最近中・高生の間で流行っている、架空の世界を舞台にした冒険漫画だ。学校では漫画やゲーム類の持ち込みは禁止されている。こっそり持ってきて貸し借りをするだけならともかく、授業中に読む生徒もいて、茂も何度か没収したことがある。
「この作品はアニメ化されてから人気に拍車がかかりまして、重版が間に合わず入手困難になっていたんです。今月に入ってやっと入荷され始め、全巻平積みにしてあります。それがここ最近、気が付いたらシュリンク――この立ち読み防止用の袋のことです」
 シュリンク梱包と呼ばれるそれは、専用の袋に入れ、機械に通して熱処理をし、収縮させて梱包する手法だ。製本の時点でシュリンクする出版社もあるが、基本的に書店員の仕事であり、書店ではもっぱらコミックの立ち読み防止、商品保護のために使用される。店長がコミックを軽く揺らすと、カサカサと音がした。
「これが剥がされたコミックが、平積みの一番上に放置されるようになったんです。初めは、お客さんがこっそり剥がして立ち読みしているのかと思っていました。そういうことはよくあるんですよ。雑誌に掛けてある紐を解いたり袋を破って中を確認するとか。酷いものになると、ふろくだけ盗ったり、コミック雑誌にとじ込んであるゲームカードを破り取ったりということもありました」
 思わず眉根が寄った。そんなことをする人がいるのか。
「シュリンクは、剥がす時に結構音が響くんです。でも気付いたスタッフはいないし、剥がしたシュリンクも見当たらない。こちらとしても注意をしていたんですが、一向に見つからなくて困っていたんです。そしたら今日――」
 店長はコミックを机に置きながら横目で麻里亜を見やり、茂に戻した。
「防犯カメラで、鞄からコミックを取り出して次の巻と交換する瞬間を確認したのですぐに声を掛けました。事務所に来てもらい、どうして盗ったのかと聞いたら、なんて言ったと思いますか。ちゃんと返したんだから盗ったことにならないって言ったんですよ」
 二の句が継げず、茂は目を丸くして閉口した。
「要するに、持ち帰って読んだあと、売り場に戻していたんです。だから万引きじゃないと」
「……ちょっと借りただけ、返した」
 ぼそりと呟いた麻里亜に、店長が顔を歪めた。
「さっきからずっとこの調子なんです。返したんだから万引きじゃないの一点張り。名前も親の連絡先もどこの学校かも言わないので、警察に通報すると言ったらやっと名前と学校名を言ったんです」
 辟易した重い溜め息をついた店長から、茂はじっと俯く麻里亜に視線を移した。
 返せば盗ったことにはならない。いくらなんでも、そんなことを本気で思うような子でも年でもない。その場しのぎと、自分を擁護するための言い訳だ。
 茂は腰を曲げ、両膝に両手をついて麻里亜の顔を覗き込んだ。店長が若い店員を振り向き、目で椅子を用意するように告げる。
「藤木さん」
 茂が名を呼ぶと、麻里亜は細い肩をぴくりと揺らした。
「お店の物を勝手にポケットや鞄に入れた時点で、万引きになるんだよ」
「ちゃんと返したから違う」
「返せばいいという問題じゃないんだ」
「借りただけ!」
 三浦たちも含めこんなやりとりが、茂が来るまで続けられたのだろう。店長があからさまに苛立ちを見せていた理由が分かった。平行線だ。だが、法律で決まっていることだ、もし同じことをされたらどう思うか、などと言って説得するのは無意味だ。麻里亜は、自分のしたことが犯罪だときちんと理解している。ならば、矛盾をつくしかない。
 どうぞ、と椅子を持ってきた若い店員にすすめられ、茂は礼を言い、腰を落ち着けてから改めて麻里亜と正対した。
「君は、そんな言い訳が通用すると、本気で思ってるのかい?」
 穏やかな口調で、しかし厳しい言葉に麻里亜が怯えたようにぎゅっと唇を噛んだ。
「思ってるのなら、どうして店員さんの目を盗んで持ち帰ったのかな」
 沈黙を貫く麻里亜に、茂はさらに問いかけた。
「店長さんに色々聞かれた時、堂々と答えなかったのはどうして? 警察を呼ぶと言われて、どうして学校の名前を言ったの? 悪いことをしていないと思ってるのなら、呼ばれても何も困らないよね」
 意地の悪い聞き方をしているなと、自分でも思った。だが、麻里亜に自分の口から言わせなければ意味がない。
「先生に、説明してくれるかな」
 わずかに語気を強めると、麻里亜は時間が止まったようにじっと俯いたまま動かなくなった。ほんの一分が、やけに長く感じた。店長が苛立った様子で腕を組み、若い店員が掛け時計に視線を投げた時、麻里亜がとうとう折れた。
「……駄目なことだって、分かってました。……ごめん、なさい……」
 膝の上の拳をさらにきつく握り、微かに震える声で謝罪した。一様に安堵の息が漏れる。
 わざわざ本を返したのは、言い訳が通用すると思っていたわけではなく、罪悪感を少しでも減らすためだ。返したから大丈夫、盗んでない。そう思い込んで、自分自身をだましていた。結果、咄嗟に言い訳として口から出てしまった。
「藤木さん。聞いていると思うけど、ご家族には、もう連絡してある」
 一呼吸置いて、麻里亜は頷いた。
 学校側としては、このまま麻里亜を帰すわけにはいかない。家族にきちんと説明する義務がある。それに、警察に通報されればおのずと家族にも連絡がいく。警察と家族の両方に知られるよりも、せめて家族だけの方が、彼女にとって衝撃は少ないだろう。自分がしてしまったことで、家族が他人に頭を下げる姿を見ることにはなるけれど。
 だが、このままなあなあで終わらせるわけにはいかない。麻里亜は、悪いことだと理解していて行動に移した。それを見逃すのは彼女のためにならない。見逃してくれるのだと思わせるわけにはいかない。悪いことだと知っておきながら重ねた小さな罪が、やがて大きくなってからでは遅いのだ。
「一つ、聞いていいかな。どうしてこんなことをしたの?」
「……お小遣い、足りないから……」
 限定版やページ数などで前後することもあるが、新書版コミックは通常一冊四百四十円ほど。子供の一カ月の小遣いではそう何冊も買えないし、他に欲しいものもあるだろう。しかし。
「それは、万引きをしていい理由にはならない。そもそも、どんな理由があっても人の物を盗んではいけない。返したから盗んでないなんて言い訳も通用しない。人やお店の物を勝手に持ち出すという行為は、犯罪なんだ。君はそれをちゃんと分かってると思う。でもこんなことをしたのは事実だ。それがどういうことか、もう一度よく考えなさい。いいね」
 一拍置いてこくりと小さく頷いた麻里亜を見届け、茂はゆっくり腰を上げた。椅子の横に移動し、店長と若い店員に向かって深く頭を下げた。井上と三浦も倣うように頭を下げる。
「大変ご迷惑をおかけしました。申し訳ございません」
 店長と若い店員はやれやれと言った溜め息を漏らした。と、扉が鳴った。
「どうぞ」
 店長が答えると扉が開き、泡を食った麻里亜の両親が飛び込んできた。ちょうど鉢合わせしたらしい。父親はスーツ姿で、母親は私服だ。
「麻里亜ッ!」
 怒声に近い父親の声が事務所に響き渡り、麻里亜がびくりと大仰に体を震わせた。振り向いた茂たちを見て、母親が恐縮した顔で頭を下げた。
「ああ、佐伯先生。すみませんご迷惑をおかけして。先生方もすみません」
 ぺこぺこと頭を下げる母親に、いえ、と茂たちが会釈をする。一方父親は、机の上に広げられた物を見て顔を青くした。
「麻里亜お前、なんてことをしたんだ!」
 ものすごい剣幕の父親に体を竦ませ、麻里亜はみるみるうちに涙を滲ませて嗚咽を漏らした。父親は麻里亜を引っ張り立たせると頭を押さえ付け、自身も深々と頭を下げた。母親も隣に並んで倣う。
「このたびは大変なご迷惑をおかけしまして、本当に申し訳ございません。なんとお詫びをすればよいのか。麻里亜、お前もきちんと謝りなさい!」
「ごめ……ごめんなさい、すみません……」
「盗んだ本は弁償させていただきます。どうか警察には」
 お願いします、と言ってじっと頭を下げる両親と麻里亜に倣うように、茂たち三人も頭を下げる。
 やがて、麻里亜の嗚咽に混じって店長の長い溜め息が降ってきた。
「分かりました。警察には通報しません」
 店長の判断に、揃って安堵した顔が上がる。
「しかし……」
 店長は言いあぐね、だが結局告げた。
「これ以上の時間は取れませんので、詳しいことはあとで先生方からお聞きください。正直言ってかなり質が悪いです。申し訳ないですが、今後は当店のご利用をご遠慮ください」
 つまりは出入り禁止だ。
 麻里亜の嗚咽がさらに大きくなる。どんな理由があっても、どれだけ反省したと言っても、店側からしてみれば、一度でも商品を万引きした者の来店は快く思わない。来るたびに、また何かするのではないのかと疑うことになる。仕事に支障が出るのだ。
 一度失った信頼は、簡単に回復しない。
「分かりました。厳しく言い聞かせます。本当に申し訳ございませんでした」
 もう一度頭を下げた父親に倣い、全員が深く頭を下げた。
「こちらのコミックは買い取っていただきます。話しは終わりです、お引き取り下さい」
 店長が振り向くと、若い店員は頷いてコミックを手に両親を事務所の外へと促した。父親はもう一度店長へ頭を下げ、若い店員に続く。一方母親は、机の上の私物を手早く鞄に入れ、麻里亜と共に頭を下げると背を向けた。
 三浦も踵を返し、茂は何故か動こうとしない井上に「行きましょう」と声をかける。母親が押し出すように麻里亜を部屋から出し、律儀にもう一度会釈をして扉を閉めた。
「先生方も……」
「あのっ」
 早く出て行って欲しいと雰囲気を漂わせる店長の言葉を遮ったのは、井上だ。心配顔でバッグの紐を両手で握り、心持ち身を乗り出して店長に尋ねる。
「このことは、他のお店に伝えるんですか?」
 一瞬、店長が虚をつかれた顔をした。茂と三浦は小首を傾げる。系列店ならあるだろうが、他店にそういった情報を流すのだろうか。
「お詳しいですね」
「書店員の友達がいるんです。前に、そういう話を聞いたことがあって」
 ああ、と店長が腑に落ちた顔をした。
「確かにそういうことはあります。例えば、今回のような人気コミックは、転売目的で全巻ごっそりやられることがあるんです。そういう場合や、質の悪いクレーマーなどは防犯カメラの映像をプリントアウトして、他店にも情報を回します。今回の場合は……そうですね、反省はしていたようですし、本社に報告書を上げて指示を仰ごうかと思っています」
 質が悪いからと言って出入り禁止にしたけれど、麻里亜の反省の態度はきちんと汲んでくれている。しかし、もし他店に今回のことを知らせるとなった場合、つまりは顔を晒されるのだ。そうでなくとも、新風堂で出入り禁止になった以上、他の店員にも顔を把握させるために同じ対処をするのだろう。まるで、指名手配犯のように。必要な処置だと分かっていても、それが教え子となるといい気持ちはしない。
「そうですか」
 顔を曇らせた茂とは反対に、井上は少しほっとした様子で息をついた。
「もうよろしいですか?」
「あ、はい。すみません、失礼します」
 本当にご迷惑をおかけしました、と再度告げ、茂たちは事務所をあとにした。
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