第5話

文字数 3,036文字

 半年後、いてもたってもいられなくなり、今度は高校の同窓会があると嘘をつき、家を空けるふりをした。同窓会は土曜日だが、友達に会うからと言って金曜日の朝に出発すると伊佐夫と弥生に伝えた。二人は会社と学校がある。二人を送り出したあと、念のために荷物を駅のロッカーに預け、再び家に戻り、じっと一人で時間を過ごした。聞き間違えでありますようにと、祈りながら。
 二階には部屋が三室ある。うち弥生の隣の一室は物置きとして使っており、弥生が帰宅する前にそこに籠った。息をすることすらままならないほどの緊張感。自分の呼吸の音がうるさく、異常なほど汗が噴き出した。
 しばらくして玄関の扉が開いた音が聞こえ、階段を上る足音が近付いた。弥生の部屋の扉を開け閉めする音。少ししてから弥生は一階へ降りたあと、夕飯の支度でもしていたのか、すぐには戻って来なかった。やがて弥生が部屋へ戻り、それからさらに時間が過ぎて再び玄関の扉が開いた。ただいま、と伊佐夫の声がうっすらと聞こえ、そのまま階段を上がってくる足音に、仁美は息を飲んだ。
 何かぼそぼそと話し声が聞こえ、それから数分後、ベッドの軋む音が耳に入った。
 まさか、そんなことない、嘘だ。そう思いながら静かに部屋を出ると、弥生の部屋の扉がわずかに開いていた。恐る恐る隙間から覗いて見えた光景に、愕然とした。二人が、ベッドの上で重なり合っていたのだ。
 気が付いたら、駅にいた。預けていた荷物を取り出し、ふらふらと街を歩いた。何度か人とぶつかったような気がするけれど、はっきりと覚えていない。目についたホテルに部屋を取って、ペットボトルの水を半分ほど一気に喉に流し込み、一息ついた。
 隙間から見えた光景が脳裏に焼き付いている。混乱した。
 血は繋がっていないけれど、親子として暮らしてきた。それなのに、どうしてあんな関係になっているのか。二人は、親子なのに。
 どうして、いつから、何故――分かりもしない疑問が浮かび、ふと思った。
 どっちから?
 どっちが初めに誘った? 弥生? 夫?
 それとも、何かきっかけがあって雰囲気に流された?
 どちらであったとしても、雰囲気に流されたとしても、二人が関係を続けているのは間違いない。
『この子は、どんな人と結婚するんだろうな』
 ふと、伊佐夫が昔そんなことを言ったのを思い出した。
『花嫁姿は綺麗だろうなぁ。今から楽しみだよ。ああでも、泣いても笑わないでくれよ?』
 ソファでうとうとする弥生を眺めながら照れ臭そうに言った伊佐夫を見て、これまでにない温もりで心が満たされた。血が繋がっていないのに、ここまで弥生を愛しんでくれる。本当に良い人と巡り合えた、と。
 あんな風に言う彼が、誘うわけない。じゃあ、誘ったのは弥生。前の離婚の理由は、たび重なる夫の浮気だった。若い女をとっかえひっかえし、生活費も入れず女に貢ぐような最低な奴だった。あの男の血が流れている弥生なら有り得るかもしれない。
 ――汚らわしい!
 いくら血が繋がっていないからといって、娘が父親を誘うなんて。前の夫の浮気で散々傷付いた記憶が蘇り、嫌悪と軽蔑と怒りが噴き出してきた。やっぱり、血は争えない。
 けれど、大ごとにすれば伊佐夫との関係も壊れてしまう。最悪、離婚も有り得る。それはしたくない。年老いた両親にまた心配をかけてしまう。
 弥生は高校二年。県外に進学か就職をしてくれれば、関係は終わるかもしれない。あと一年我慢して、弥生に関係を知っていることを話せば戻って来ることはないだろう。
 あと一年の辛抱。そうすれば、元の生活に戻れる。
 できるだけ平静を装った。だがどうしても弥生への嫌悪は隠し切れず、伊佐夫がいる時は必死にこれまで通りの良い母、良い妻を演じ、いない時は反動が出た。さすがに弥生も感付いたのだろう、何度も「話しを聞いて」とすがりついてきた。言い訳なんか聞きたくない。どんな弁解をしても関係を持ったのは変わらないのだから、聞くだけ無駄だ。さっさと進学でも就職でもして出ていけばいい。
 そんな仁美の気持ちとは裏腹に、弥生は進学をせず就職を選んだが、何故か市内の会社ばかりを選ぶ上にことごとく不採用の通知が送られてくる。苛立ちが募った。
 結局就職先が見つからないまま高校を卒業し、アルバイトをしながら探していたが、一向に出て行く様子がない。もう爆発寸前だった。
 そして今から二年ほど前だろうか、アルバイトに行ったまま突然帰って来なくなった。
 携帯は繋がらず、和歌山の両親の元へも行っていない。アルバイト先も、辞めるという電話が一本あったきりだという。伊佐夫は動揺してあちこち探し回っていたが、決して警察に届け出ようとはしなかった。不思議に思ったけれど都合はいい。あえて警察にとは言わなかった。表面上は心配しているふりをし、内心でほくそ笑んだ。
 一方、伊佐夫は酷く落胆し、口数も減り、食事もあまり摂らなくなった。そんな態度の伊佐夫に、次第に虚しさと恨みを抱くようになった。あたしがいるのに、と。ここで初めて、弥生を娘ではなく一人の女として嫉妬している自分に気付いた。そんなに弥生がいいか、若い女の方がいいか。
 それでもなんとか踏み止まっていたのは、夫婦の営みがあったからだ。まだ大丈夫、求めてくれる。必ず元の生活に戻れると安心し、抱かれている間だけ優越感で心が満たされた。
 それなのに、つい先日、伊佐夫が信じられないことを言った。
「仕事を辞めて、弥生を探そうと思ってるんだ」
 と。
 目の前が真っ暗になり、うん、とか、そう、とか言った気がする。心にじわじわと憎悪が広がっていく。その夜は一睡もできなかった。眠れないほどの怒りと憎しみ。この感情が伊佐夫と弥生のどちらに向けられたものなのか、もう分からなかった。
 貯金はあるし、退職金もそれなりに出るだろう。けれど、老後のこともある。定期的な収入がなくなればそのうち切り崩すことになる。
 今の生活を――自分との生活を犠牲にしてまで、伊佐夫は弥生を求めているのだ。だとしたら、何故自分を抱いたのだろう。抱きながら見ていたのは、本当に求めていたのは、自分ではなく弥生だったのか。
 身代わりにされていた。二年も。
「今日、退職願を出してくるよ」
 翌日の朝、そう告げられたとたん、ぷつっと何かが切れた。
 記憶は曖昧だが、所どころ覚えていた。キッチンから包丁を持ち出し、リビングを出て行こうとした伊佐夫を後ろから刺した。力任せに引き抜くと、伊佐夫は扉にすがるようにしてずるずると床に倒れ込んだ。首だけで振り向いて何か言っていたような気もするけれど、聞こえなかった。ただ火山のように噴き出してくる怒りと憎しみに任せ、馬乗りになった背中に何度も包丁を降り下ろした。血飛沫を浴びながら、何度も、何度も。
 どのくらい時間が過ぎたのか。気が付けばこと切れた伊佐夫が、血の海の中に横たわっていた。床に広がる大量の血の中に沈む自分の足。手も顔も体も、全身血まみれだった。
 尻の下で真っ赤に染まり、包丁が刺さったままの伊佐夫の背中を揺さぶった。揺さぶられるがままの背中を見て、無意識に口角が歪んだ。
「……裏切るからよ」
 自分の声とは思えないほど、低く掠れた声だった。
「あんたたちが裏切るから、こうなったの」
 仁美は恍惚とした顔で天井を仰ぎ、ふふ、と笑った。そして、堰が切れたように高笑いを上げた。狂気じみた甲高い笑い声が、家中に響き渡った。
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