第10話

文字数 4,014文字

「ちょっと来て!」
「あ、あの……っ」
 再び腕を掴まれ、引っ張られるがまま北原は近藤のあとに続く。時折すれ違う人たちから、何ごとかといった視線を向けられる。
 どう見ても怒っているようにしか見えないが、そんなに知られるのが嫌だったのだろうか。しかし別府たちは知っていた。実はプライベートを知られるのが嫌なくらい嫌われているのだろうか。無言のまま店から離れる近藤の足元に目を落としながら、思考はついネガティブに走る。
 近藤は、西花見小路通を南に抜け、団栗通りに出たところで足を止めた。車一台分程しかない通りだ。
 この場所は、右に行けば建仁寺の塔頭(たっちゅう)である正伝永源院(しょうでんえいげんいん)があり、左は花見小路通に出る。目の前には建仁時(けんにんじ)の瓦屋根が乗った門と塀が立ち塞がっているためT字路になっており、花見小路通の方も、少し行った建仁寺の門に突き当たったところで終わるため人通りがほとんどない。
 またしても放り出すようにして北原の腕を離し、近藤は少し落ち着きを取り戻した様子で数歩歩み寄った。
「所長から聞いたの?」
 北原はつんのめるようにして足を止めると、猫背を伸ばせばおそらく百八十センチ以上はあるだろう近藤を振り向いた。両脇は開いているのに、門と近藤に挟まれた状態は妙な窮屈さを感じる。ちなみに塀の前にはごく狭い溝が掘られ、落下防止柵が取り付けられている。
「……はい」
 叱られる子供のように小さく頷いた北原に、近藤は盛大に溜め息をついた。
「紺野さんには言わないでよ? あの人、知ったら絶対面白がって店に来るから。手伝うのは手が足りない時くらいだけど、それでいちいちからかわれるのは癪に障る。話したら麻酔無しで解剖するからね」
 長い前髪の隙間から見える目が威圧するように細められ、北原は慄きながら無言で何度も頷いた。知られたくない理由はらしいと言えばらしいが、脅しが物騒すぎる。
「それで、何しに来たの? まさかまだ僕の鑑定疑ってるわけじゃないよね」
「あ、いえ、そうじゃないんですけど……」
 両腕を組んで臨戦態勢に入った近藤から視線を逸らすと、肩越しに店の影に隠れてこちらを窺う監視役二人の姿が見えた。こう静かだと声が届いているかもしれない。
「じゃあ何?」
「えっと、その……」
 もごもごと言い淀みながら北原は視線を足元に落とす。
 近藤を疑ったきっかけは、少女誘拐殺人事件だ。確かに鬼代事件と似た部分はあったが、あまりにもタイミングが良すぎた。指摘するならそこだろうが、改めて本人を前にすると躊躇う。
 そもそも、時々とはいえ、多忙な科捜研で働きながら母親の店の手伝いをするなんて、よほど仲が良くないとできないことだ。そんな人が、この世を混沌に陥れようとするなんて思えない。やはり間違いだったのだろうか。
 いや、例え間違いだったとしても、きちんと本人の口から理由を聞いて真意を見定めるべきだ。
 北原は覚悟を決めるように唇を結び、顔を上げた。
 と、近藤の肩越しに、西花見小路通からこちらへ向かってくる一人の男が目に入った。半袖パーカーのフードを被り、ポケットに右手を突っ込んで、左手は携帯をいじっている。気だるそうに横を通り過ぎた男を、監視役二人が一瞥した。
 北原は思わず眉根を寄せた。この熱帯夜に、フード?
 そう訝しげに思った次の瞬間、男は携帯をポケットに突っ込んで鬱陶しそうにフードを脱いだ。ゆっくりと上げられた顔に、北原は瞠目した。
 その顔には、見覚えがあった。
 恍惚としているようにも見える、狂気を孕んだ冷笑。金髪にいくつものピアス――平良だ。
 どうしてここに、見張られていたのか、それとも、という疑問が頭の中に渦巻いて、反応が遅れた。ポケットから出された右手は、何かを握るように結ばれている。それが何か、反射的に理解した。
 自分の背後に視線を投げたまま、まるでお化けでも見たような表情を浮かべる北原を見て、近藤が怪訝な顔で振り向いた。とたん、北原が弾かれたように動いた。勢いよく力任せに近藤を左側に突き飛ばし、それを避けようとして反射的に右半身を後ろに下げたが、間に合わなかった。背後から足早に歩み寄った男が、肩をぶつけるように北原の右半身にぶつかった。
 そこにいた誰もが、一体何が起こったのか理解できなかった。
 平良とぶつかった瞬間、右脇腹にそれを押し付けられたことは分かった。そして間髪置かずに体の中を硬質で鋭い物が貫通する感覚を覚えた。突然のことで痛みを感じなかった。ただ、異物が体の中を切り裂きながら、瞬く間に通り抜けた感触だけはあった。
 霊刀で貫かれた。そう理解したとたん、焼けるような強烈な痛みが全身を駆け巡り、感覚を麻痺させた。同時に平良が後ろへ下がりながら、一気に霊刀を引き抜いた。さらなる襲った痛みに微かな悲鳴も上がらない。足から力が抜けて、膝から崩れ落ちるように地面に倒れ込んだ。どさりと地面に倒れた北原の体の下に、じわじわと黒い液体が滲み出て池を作る。
 平良は、それを北原の頭の側で悠然と佇んだまま、満足そうな笑みを浮かべて見下ろした。
「ふ……っ、ざけんな……ッ」
 こいつわざと消さずに抜きやがった。悪態をつくことで、わずかでも気を抜けば消し飛びそうな意識をかろうじて保ち、北原は視線だけで平良を見上げた。
 あのまま気付かなければ、近藤ごと一緒に霊刀で貫かれていた。ならば近藤は協力者ではないのか。それとも敵側の内情に問題があるのか。それに、平良は監視役がいる西花見小路通から来た。監視役が付いていることは分かっているはずだ。人目があるにも関わらず、何故。
 どうなってる。
「――北原くんッ!!」
 ほんの数秒後、我に返った近藤の鋭い声が周囲に響き渡った。数歩駆け寄ってしゃがみ込もうとした近藤目がけて、平良がその場で足を横に振り抜いた。
「っ!」
 近藤は反射的に息を詰め、両腕を交差させて防ぐ。だが体勢が悪く、勢いに押されるようにして落下防止策に吹っ飛んだ。ガシャンと金属音を鳴らして柵が揺れた。
「へぇ」
 苦悶する近藤を眺めながら、平良が驚いたように瞬きをした。
「反応しやがった。何もんだお前」
「そこの男! 動くなッ!」
 近藤の声で我に返った監視役が駆け寄りながら叫び、西花見小路通にあるレストランや料理屋から、騒ぎに気付いた人々が顔を覗かせる。
「おっと、やべ」
 平良は人目もはばからず霊刀を消しながら、花見小路通の方へと駆け出した。
「待て!」
 監視の一人が平良を追いかけ、もう一人は足を止めて携帯を操作する。
 救急車を呼ぶ声を聞きながら、近藤は痛みが走る腕に顔を歪め、羽織っていた開襟シャツを脱ぎながら北原の元へ這うようにして近寄った。適当に丸めて傷口を押さえ、怒鳴るように叫ぶ。
「北原くん! 北原くん聞こえる!?」
 こんな近藤の切羽詰まった叫び声を聞くのは初めてだ。閉じかけた瞼を気力で開けると、周囲に声を張り上げる近藤の必死な姿が目に映った。
「誰でもいいからタオルありったけ持って来て! 早くッ!!」
 有無を言わせない剣幕に、遠巻きに見ていた店のスタッフらしき人々が大慌てで店へと駆け込んだ。それを見届けてから、近藤がこちらに向き直る。
「しっかりして。大丈夫、北原くん若いし鍛えてるし、人間そう簡単に死んだりしないから。僕が言うんだから間違いないよ」
 励まし方が理屈と自画自賛だ。近藤らしい。これまで、近藤の顔ははっきり見たことがなかった。けれど、下から見えた彼の顔は想像していたよりも端正で、しかし今は悲壮に満ちている。
 近藤はあちこちの店から提供されるたくさんのタオルを受け取り、血まみれのシャツの上から止血する。一方監視役たちは、取り逃がしたらしい、平良を追いかけた一人が悔しげな顔で舞い戻ってきて報告をし、残っていた一人と協力してでき始めた野次馬を遠ざける。微かにパトカーのサイレンが届く。
 北原は、おそらく紺野へ連絡をするのだろう。片手でタオルを押さえたまま、もう片方の血まみれの手で携帯を取り出した近藤に向かって、うっすらと口を開いた。
「北原くん……? 何? 何か言いたいの?」
 金魚のように口を動かす北原に気付き、近藤が口元に耳を寄せる。こんな状況でなければ、とっくに意識を手放している。けれどできない。もう少しだけ踏ん張って、伝えなければいけないことがある。
「こん、のさ……メ、モちょ……わたし……」
 掠れた声で呟かれた途切れ途切れの言葉を、近藤はすぐに理解した。
「紺野さんにメモ帳渡せばいいんだね? 分かったからもう……」
 黙って、という近藤の言葉を遮るように、北原は再び口を開いた。
「……いら……」
「え?」
 北原は最後の気力を振り絞って吐き出した。
「たいら……っ」
 きちんと言えたかどうか、自分でも分からなかった。けれど近藤なら、きっと大丈夫。
 さっき、平良は「何もんだお前」「おっと、やべ」と言った。あれは間違いなく、自分の蹴りに反応した近藤に驚いて、気を取られた台詞だった。樹に戦いを挑もうとするほどだ。よほど自分の実力に自信があるのだろう。そんな平良の蹴りを防ぐなんて、近藤の得体の知れなさに拍車がかかってしまった。
 でも今はそれ以上に、安心の方が大きい。
 近藤は、協力者ではなかったのだ。
 ――ああ、よかった。
 少しずつ瞼が落ちて、視界がぼやけていく。
 三年。たった三年だ。決していい後輩とは言えなかった。たくさん迷惑もかけた。でも、悲惨な事件を担当する日々の中、くだらないことで諍い合って、笑って、励ましてもらって、色んなことを教わった時間は、かけがえのないものだった。
 自分はあの頃に憧れたような格好良い刑事にはなれなかったけれど、あの人がいる。彼なら大丈夫。自分がいなくなっても、下平も近藤も、陰陽師の皆もいる。
 だから、大丈夫。
 近藤が必死に名前を呼ぶ声が次第に小さくなって、やがて聞こえなくなった。
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