第1話

文字数 5,105文字

 気を失うように眠りに落ちた数時間後、ゾンビのごとく床を這う大河(たいが)の姿がそこにあった。目標は、机の上の紙袋の中で早く止めろと言わんばかりにアラームを鳴らす携帯だ。
「い、痛い……」
 紛うことなき、全身筋肉痛。ベッドの横の机までは、ほんの数メートル。こんなに遠いと感じたことがないくらい遠い。いや、それ以上にアラームの設定時間は早朝五時だ。音量は抑えてあるが、皆、就寝時間が遅かったのだから迷惑極まりない。早く止めねば。
 そんな大河の焦りとは裏腹に、体は言うことをきいてくれない。
 この数分前、開きっ放しのカーテンから差し込む朝日で、あれほどの疲労があったにも関わらず奇跡的にアラームに気が付いた。夢現の中でいつも通りに腕を動かそうとした時、全身に鈍痛が走った。特に腹だ。声も出せずに硬直し、しかし眠気は一気に吹っ飛んだ。アラームは確かに鳴っているのにどこか遠い。しかも体が動かない。動きが鈍い頭で記憶を呼び起こす。
 そうか、廃ホテルの乱闘だ。訓練で毎日体を動かしているが、緊張で無駄に力が入っていたのだろう。そう推測して、ふと情けない気分になった。動きにはついていけていたし、多勢に無勢だった。けれど、独鈷杵(どっこしょ)がなければ体術だけでは通用せず、筋肉痛を引き起こす程度の体。きっと宗史(そうし)たちは、筋肉痛なんてなっていない。
 自分の未熟さを痛感し、大河は息をついた。とりあえずアラームだ。気を取り直して一人苦悶しながら体を起こし、何故か机の上に置いてある紙袋に首を傾げた。
 (さい)紫苑(しおん)に部屋の説明をしたことまでは覚えている。それ以降の記憶がない。無意識に置いたのだろうか。
 俺の馬鹿、と自分を責めながら、歯を食いしばってタオルケットを剥ぐ。じわじわと体勢を変え、床に足を着く。そこから腰を上げてゆっくりと立ち上がる。瞬間、がくんと崩れ落ちた。痛みもそうだが、足に力が入らない。マジか、とぼやき、仕方なく痛みを堪えて腕と足のわずかな力だけを頼りにずるずると床を進んだ。
 そして現在、亀よりも遅い速度でやっと机の側まで到着したところである。
 式神の治癒って筋肉痛にも効くかな、とささやかな期待をしつつ、机の足に掴まってゆっくりと立ち上がる。まるで生まれたての小鹿のように小刻みに震える足を踏ん張り、紙袋の中から携帯を探ってアラームを止める。
 やっと静かになって一息ついた。五時五分。
 宗一郎(そういちろう)が時計を確認した時は一時だったから、寝たのはおそらく二時を過ぎていただろう。睡眠時間約三時間。迷うことなく二度寝に入るような時間だが、体中の痛みのせいですっかり目が覚めてしまった。
「とりあえず、起きるか……」
 這いつくばることで固まった筋肉が多少ほぐれたのだろう、立てている間に身支度を終わらせて一階に下りた方がいい。もし二度寝して次起きた時は動けないなんてことになったら、笑えない。それに、痛いからといって動かないと、血行が悪くなってさらに痛みの原因になると影正(かげまさ)から教わっている。ゆっくりでも軽く体を動かして、早く筋肉痛を緩和させなければ訓練に支障が出る。さらに言うなら。
「絶対、(いつき)さんとか弘貴(ひろき)とかちょっかいかけてくる」
 あの二人ならやりかねない。恐ろしい。
 いつもなら着替える前に洗面を終わらせるのだが、廊下を行ったり来たりするのは厳しい。先に着替えを終わらせ、携帯やお守り、独鈷杵、霊符一式を持って洗面が正解だ。
 大河は「いたたた」と一人ごちながらなんとか着替えを終わらせ、エアコンを消し、忘れ物がないことを確認してから扉を開けた。一歩一歩、へっぴり腰でゆっくりと廊下を進む。寝ている皆を起こさずにすむのはいいが、遠い。
 先程と同じく、洗面所までこんなに遠かったっけ、と思いながら歩いていると、背後から扉が開く音が聞こえた。肩越しに振り向くと、着物に着替えた柴と紫苑が部屋から出てきたところだった。
「……おはよう」
 小声で挨拶をすると、大河の間抜けな恰好に言葉が出ないのか、しばしの沈黙が流れた。
「……ああ」
 なんとか絞り出したといった感じの声で、柴が答えた。腹の虫が鳴った時といい、いっそ爆笑してくれた方が気も楽なのだが。
 紫苑が扉を閉め、二人揃ってゆったりと向かってくる。
「何だ、そのおかしな格好は」
 紫苑の忌憚ない突っ込みが痛い。へらっと笑って足を動かす大河の速度に合わせて、二人が後ろに続く。
「昨日の乱闘で体中が痛くて」
「まだ傷が痛むのか」
「傷っていうか、殴られたところが」
 着替えている時に腹を確認すると、うっすらと青紫色になっていた。治癒の時から痛みはあったものの大した痛みではなかったし、女性陣に腹を晒すのもどうかと思い言わなかったのだが、やはり右近に治癒してもらうべきだった。
 今日頼んでみようかな、と思いながらやっと辿り着いた洗面所の扉を開ける。柴が口を開いた。
「あまり、無理をしない方が良いのではないのか?」
 二階の洗面台は三つ。大河が後ろの棚からタオルを三枚取り出して手渡し、三人仲良く並ぶ。
「軽くでも動いた方がいいんだよ。じっとしてたら体が硬くなって余計痛くなるから」
「……そういうものなのか」
「そういうものなの」
 いてて、と小さく漏らしながら蛇口を捻り、腰を曲げる。
 平安時代の医学がどの程度のものなのかさっぱり見当が付かない。影綱の日記には、薬草を摘みに行ったことが書かれてあったから、医療という概念が一切なかったわけではないのだろう。しかしあの時代、病気は祟りや穢れ、疫病は怨霊の仕業だと考えられ、加持・祈祷が重要な医療行為だった。と、日本史の資料に書いてあった。つまり、医学としての治療よりも霊的な治療が重要視された時代で生き、かつ自己治癒力が尋常でない鬼である彼らの医学知識はほぼ皆無だと考えた方がいい。ゆえに、筋肉痛で全身が痛いとは言えない。筋肉痛とは何だと聞かれたら、筋繊維の説明もしなければならなくなる。さすがに専門知識はない。宗史がいればきちんと説明できたかもしれないが、医学は果たして範疇なのか。いや、そもそも鬼は筋肉痛にならないのか。
 解体新書って江戸時代だよなぁ、と中学で学んだ記憶を引っ張り出しながら顔を洗う。タオルで水気を拭き取り、ふと目に入った隣の光景に思わず手が止まった。
 顔を洗う柴の長い髪を、紫苑が両手で束ねて後ろで待機している。貴族か。洗い終わった柴に紫苑がタオルを手渡し、紫苑が顔を洗い終えると、洗濯かごにタオルを放り込んで洗面所を出た。
 さて、ここが一番の難所だ。
 大河は階段を見下ろした。気合を入れて壁に手をつき、そろそろと足を踏み出す。全身に走る鈍痛に顔を歪め、まずは一段クリアだ。続けて二段目。
「……症状は重いようだな」
「そのようです」
 歯を食いしばり、小さく唸り声を上げる大河の後ろを、柴と紫苑がどこか不憫な面持ちで続く。階段は全部で十五段。
「二人とも、先に下りていいよ」
 先は長い。一旦足を止めて大河が振り向くと、柴が首を横に振った。
「転がり落ちるやもしれん」
「……ありがと」
 気を使われてしまった。情けなくも思うが、確かに転がり落ちたら洒落にならない。素直に受け取った大河に、柴がこくりと頷いた。
「それにしても、二人とも早いね。ちゃんと眠れた?」
 再び階段を下りながら尋ねる。二人が平安時代、そして復活してから今日までどんな生活をしていたか知らないが、さすがに現代のようなベッドと布団を使っていたとは思えない。体に合わず、目が覚めたのだろうか。
 そんな大河の心配をよそに二人はああと頷き、柴が言った。
「問題ない」
「そっか、良かった」
「お前も早いが、良いのか」
「うん。体が痛くて目が覚めちゃって。訓練にも支障が出るし、ほぐしとこうと思って」
「そうか」
 動いた方がいいと言ったせいか、柴と紫苑はへっぴり腰で階段を下りる大河を黙って我慢強く見守った。途中、壁に両手をついてカニ歩きで下りはじめた大河にこっそり肩を震わせていたのは紫苑だ。
 最後の一段を下り切った大河は、どっと襲った疲れに脱力した。階段を下りるだけでこんなに疲れるとは。しかし、またさらに体がほぐれたのか少し楽になった気がする。その証拠に、背筋が伸ばせる。
 健康って大事だよな、としみじみと実感してダイニングに向かう。扉が開いているということは、やっぱり一番乗りだ。誰か起きていれば、音が響かないようにダイニングの扉を閉める。それが開いていて物音もしないということは、まだ誰もいないのだ。
 ダイニングに入って、大河は顔を歪めた。痛みにではなく、燦々と差し込む日差しで温められた室温にだ。
「やっぱり暑いなぁ。先に窓開けよう、窓」
 エアコンをつけてもいいのだが、まずは空気の入れ替えをしたい。言いながら窓際へ行き、レースのカーテンと鍵を開ける。見よう見真似で柴と紫苑も窓を開けた。
 訓練中、誤って窓硝子を割ってしまわないように、ダイニングからリビングまでの窓は引き込み式の全開口窓になっており、全て開け放つとするとかなりの解放感がある。サッシを滑り、左右の袖壁に収納されていく窓を見ながら、柴と紫苑が感嘆の声を上げた。
 早朝にも関わらず流れ込む空気は室温と大差ないが、新鮮な空気はやはり気持ちが良い。白い雲が流れる空は青く高く、太陽も蝉も雀も元気だ。
 大河は縁側で一度大きく深呼吸をし、踵を返した。
「二人とも、喉乾いてない? 麦茶でいい?」
 若干速度を上げられるようになった大河がキッチンへ向かいながら尋ねると、二人は縁側から振り向いた。紫苑が尋ねた。
「それは、昨夜の飲み物のことか?」
「うん、そう。昔はなかったの?」
 冷蔵庫からポットを取り出して作業台に置き、後ろの棚からグラスを三つ取り出す。
「麦湯というものはあったが、口にしたことがないので同じ物か分からぬ」
「麦湯……」
 おそらく同じ物だと思うが、麦湯という言葉を初めて聞いたためはっきり分からない。大河はグラスに麦茶を注ぎながら尻ポケットから携帯を取り出し、手早く検索した。すると麦茶でヒットし、麦湯とも呼ぶと書いてある。ふと、今は母の雪子(ゆきこ)が水出し式で作っているが、昔は祖母が湯に煮出して作っていたことを思い出した。そこから名付けられ、呼び名が変わっていったのだろう。
「同じ物みたいだよ。今は麦茶って呼んでるんだ」
 あの時代にもあったにも関わらず飲んだことがないのは、鬼だからだろうか。
 携帯をしまい、ポットを戻してお盆にグラスを乗せ縁側に運ぶ。
「……今は、皆が口にできるものなのか」
 ウエイターのごとくお盆を差し出した大河に、柴がぽつりと問うた。
「うん」
「そうか……」
 陽に透けて薄茶色に透けた麦茶を眺めながら、柴がゆっくりとグラスを手に取った。倣うように紫苑も持ち上げる。
「贅沢だな」
「贅沢?」
 首を傾げた大河に、二人が視線を上げた。
「以前は、人間の貴族しか口にできなかった」
「そうなんだ」
 大河は麦茶に視線を落とし、へぇと小さく息を吐いた。
 今時麦茶なんてどこにでも売っているし、年中通して飲める飲み物だ。けれど千年前には貴族しか口にできないほど高級品で、貴重な飲み物だった。麦茶が贅沢品なんて、考えたこともない。
 きっと、生産量が少なかったのだろう。それをここまで普及させるのに、どれほどの苦労があったのか。刀倉家のしきたりも陰陽術もそうだった。長い時間をかけ、最善の方法を模索し確立してきた。そこには想像もできないほど大勢の人が関わり、労力と時間が費やされ、やがて「当たり前」になった。
 今、自分たちが「当たり前」だと思っているものが「当たり前」ではない時代が、確かにあったのだ。そんな時代に、二人は生きていた。
 柴と紫苑の目には、現代はどう映って見えるのだろう。
 ゆっくりと味わう二人を見やり、大河も口を付ける。水出しで作っているのか種類が違うのか、昔飲んだ祖母の麦茶に比べてコクはあまりないが、香ばしさは感じられる。それに、苦味や雑味がなくすっきりとしていて喉越しが良い。普段は意識せずに飲んでいたけれど、少し意識するだけでこんなに違いが分かるのか。
 大河はグラスから口を離した。
「美味しい」
 顔を緩ませた大河に、柴と紫苑が頷いた。
 どこからか二羽の雀が庭に飛び込んできて、地面をついばみ始めた。餌を探しているらしい。何となく黙ってそれを見守る。ひとしきりついばんで満足したのか、突然思い立ったようにぱっと飛び立った。
 雀を見送り、はたと気付く。のほほんとしている場合ではない、眠気に負けて結局先延ばしにしてしまった話をしなければ。
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