第5話

文字数 1,822文字

 押され気味の真緒と、確実に体積を減らしつつある犬神。雅臣が舌打ちをかますと、絡んだ触手が腹を圧迫した。
「ぐ……っ」
 息が詰まり、反射的に腹に力を入れたが、内臓が口から飛び出しそうだ。このままでは握り潰されて体を真っ二つにされる。足をばたつかせ、苦し紛れに触手を掴む。痺れに似た圧迫感が全身を襲い、上手く力が入らない。
「はな、せ……っ」
 苦悶の表情でかろうじて絞り出した声は、自分のものとは思えないほど掠れていた。
 このまま、殺されるのだろうか。触手に骨を粉々に砕かれて体を真っ二つにされ、内臓を撒き散らして血まみれで死ぬのだろうか。でも、いっそその方がいいのかもしれない。こうして抵抗し、時間が経てばたつほど皆が傷付いていく。
 ――確実に、足手まといだ。
 じわりと滲んだ涙は、苦しさからなのか、死への恐怖からなのか、それとも不甲斐なさからなのか、自分でも分からなかった。
 春平は触手を掴んだ手から、じわりと力を抜いた。と。
「何をしている!」
 五十鈴川の方から、よく通る紫苑の怒声が響き渡った。まるで叱咤するようなそのひと言に、はっと我に返る。
「紫苑……っ」
 着物は至る所が破れ、口元には血を拭った跡がある。けれど無事な姿に安堵した。それは、皓を相手に無事でいてくれたことへか、それとも、助かったことへか。もう頭の中がぐちゃぐちゃで、考えがまとまらない。
 紫苑は刀を抜き、御垣の前へ降り立つとすぐさま玉砂利を蹴ってこちらへ駆け出した。雅臣が顔を歪め、触手の一部を紫苑へ向けた。同時にますます強く腹を圧迫されて獣のような呻き声が漏れ、無意識に体をよじって足をばたつかせる。
「紫苑!」
「よそ見をするな!」
 思わず意識が逸れた弘貴の足を触手が掠った。
「さっきからいてぇなこの野郎! お前覚えてろよ!」
 まだそんな元気があるのかと思うほど元気な悪態が響く中、触手を叩き切りながらこちらをちらりと見上げた紫苑と目が合った。怪訝そうな顔。まさか、戦いの最中に霊力を封印したなんて想像もしないだろう。
 申し訳なさと不甲斐なさから、苦しさの中視線を逸らした、次の瞬間。
「わ……っ」
 ぐんっと強い力に引っ張られて、体が傾いだ。何ごとかと思う余裕もなかった。風景が横倒しになり、気が付いた時には地面に叩きつけられていた。
「ごほ……っ」
 全身の骨が砕けたのかと思うほどの激痛が走り、一瞬時間が止まったような感覚に陥った。状況を理解する前にものすごい力で今度は上へ引っ張られて――するりと、触手が離れた。
「春ッ!」
 弘貴の追い詰められた叫び声と、
「朱雀!」
 夏也の悲鳴に似た怒声と、
「オン・バザラナラ・ソワカ!」
 華の鋭く真言を唱える声が、同時に神苑に木霊した。
 解放感と浮遊感を覚えて体が回転し、地上の光景が視界に映った。
 紫苑と競うように伸びた触手が朱雀の炎に焼き尽くされ、その下では、真緒が華の放った火天の略式を霊刀で防いでいる。だが、鋭い一閃から放たれた火玉は広範囲に広がり、霊刀で全て防ぐことはできない。真緒をすり抜けて襲いかかった火玉は、背後にいた雅臣の触手と数本激突した。険しい顔をした雅臣が、かろうじて霊刀で火玉を防ぎながら触手で真緒を回収する。触手を縮ませながら広場の方へと下がった。
 ほんの一秒かそこらだっただろう。そんな光景を目にし、立て続けに飛び込んできたそれに目を剥いた。こちらへ手を伸ばした紫苑の背後に、黒くて太い触手が迫っている。
「紫苑ッ!」
 紫苑が肩越しに一瞬だけ振り向いた。くっと小さな唸り声が聞こえたと思ったら、ドンと胸に強い衝撃が走った。強制的に軌道が変わり、遠ざかった紫苑は反動を利用して振り向きざまに刀を振り上げた。――だが。
 ドスッ、と鈍く生々しい音が、妙に鮮明に耳に飛び込んできた。
「がは……ッ!」
「――紫苑ッ!」
「――夏也ッ!」
 反射的に叫んだ名前に重なったのは、華の悲鳴に似た叫び声。え、というひと言さえ声にできなかった。
 紫苑が吐き出した血が空中に飛び散り、くの字に曲がった体を貫く長い触手から血が滴り落ちる。そして落下しながら見えたのは、犬神の触手二本に腹を貫かれた、夏也の姿。
 紫苑と夏也の体から、触手が一気に引き抜かれた。
 夏也が地面に倒れ込み、紫苑の血が滝のように流れ落ちて視界を真っ赤に染めた。
 このままでは地面に叩きつけられて死んでしまうとか、助かる方法はとか、そんなことを考える思考すら、もうなかった。

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