第17話

文字数 2,371文字

 熊野本宮大社は、熊野速玉大社(くまのはやたまたいしゃ)熊野那智大社(くまのなちたいしゃ)と共に「熊野三山(くまのさんざん)」と呼ばれ、この三つの神社を参拝するための道を「熊野古道」と言う。全国四千社以上ある熊野神社の総本山だ。2004年に「紀伊山地の霊場と参詣道(さんけいみち)」として世界遺産に登録された。
 元々は自然信仰に根ざしていたが、仏教や密教が普及し、修験道の修行場の聖地となったことから霊場となった。奈良時代に神仏習合が取り入れられ、「熊野十二所権現」と呼ばれる三山共通の御祭神に仏名を配し、祀るようになる。仏や菩薩が人々を救うために仮の姿(神)で現れたとする、本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)だ。反本地垂迹説(本地垂迹説とは逆の、神の仮の姿が仏であるという説)が唱えられた鎌倉時代、神仏分離令が発令された明治時代を経て、今なお、神と仏が一体となった場所である。
 また、熊野三山をそれぞれ浄土とする考え方から、熊野に参拝し戻ることを「浄土から帰ってくる」、つまり「死と再生」を意味し、「よみがえりの地」として現在でも多くの人々から信仰を集めている。
 人々は輪廻転生を神に託し、生きながらにして生まれ変わりより良い幸せを祈る。昔も、今も。
 参拝の中腹にあるのは、祓戸大神(はらえどおおかみ)。本殿へ入る前に、ここで穢れを祓うのが正式な参拝方法だ。
「人がどのように信仰しようとも、我らは何も変わらぬ」
 神様としてはどうなの? と尋ねた樹の素朴な疑問に、途中の手水舎でお清めをしながら、閃は冷静にそう言った。端っこにちょこんと乗った小さな八咫烏の像を眺めながら、ハンカチで手を拭く。
「確かに、人がどれだけ理屈を捏ねて習合しようが分離しようが、神仏(ほんにんたち)がいちいちくっついたり離れたりするわけじゃないからね」
「所詮は人の都合だからな」
「そもそも、神道は宗教じゃないって説もあるしね」
 神道は自然信仰であり、経典がなく開祖もいないため、そう主張する者もいる。
「まあ、僕は別にどっちでもいいけど。宗教だろうがそうでなかろうが、習合しようが分離しようが。実際目の前には神様がいるし、仏の力も借りられてるんだからさ」
 陰陽師の台詞としてはいかがなものかと思うが、それが事実だ。日本固有の信仰と、国外から伝来した宗教。二つは別物であり、そう認識されていたからこそ「習合」という思想が生まれ、のちに「分離」された。ならば、人がそれらしい理屈をつけても神は神、仏は仏として在るのだ。
 タダで貸してくれるともっと有難いんだけど、強欲だな、と軽口を叩きながら階段を上る怜司と樹の後ろを、閃はほんの微かな笑みを浮かべて続いた。
 階段を上り切ると、視界が開ける。茜色に照らされた境内には、すぐ右脇は授与所、左脇は社務所、正面に神門がある。
 やれやれといった様子で到着するや否や、左の通路の植え込みの角から、袴姿の男性が姿を現した。この時間まで残っているのなら、宮司だろう。こちらに気付くと、宮司はすぐに会釈をし、小走りに駆け寄った。
「お待ちしておりました。寮の方と、土御門様の式神様でございますね」
 式神に様をつける人は初めてだなと頭の隅で考えつつ、怜司がはいと答える。
「すみません、遅くなってしまって」
「いいえ、大丈夫ですよ。混んでいましたか?」
「いえ。河川敷を確認していました」
 何でもないことのように答えると、宮司は顔を曇らせた。戦いとなるであろう場所を見て来たのだと、察したらしい。そうですか、と宮司は憂いの帯びた声で呟いた。
 不意に、袖をつんと樹が引っ張った。横目で「時間がないよ」と訴えてくる。
「さっそくで申し訳ありませんが、ご挨拶のあと、境内を確認させていただいても?」
「はい、もちろん。では、こちらへ」
 手を差し出して先行する宮司に続く。石畳の先には、長さ四.五メートルの太いしめ縄と白い菊花紋章の神前幕が掲げられた、桧皮葺屋根の神門。一礼して足を踏み入れ、ざっと見渡す。
 周囲は鎮守の森が迫り、敷地いっぱいに玉砂利が敷き詰められている。目の前には横長の壁で一つに繋がった、桧皮葺屋根の拝所。正面中央と右に一カ所、左に二カ所、それぞれ御扉と賽銭箱、鈴緒が設置されている。そしてその奥に見える三つの桧皮葺屋根が本殿だ。左の拝所から、
 第一殿、夫須美大神(ふすみのおおかみ)(イザナミ・千手観音)
 第二殿、速玉之男神(はやたまのおのかみ)(イザナギ・薬師如来)
 第三殿(主祭神)、家都美御子大神(けつみみこのおおかみ)(スサノオ・阿弥陀如来)
 第四殿、天照大御神(十一面観音)
 と並び、イザナミ・イザナギは、拝所は別々だが一棟の本殿に祀られている。本殿が三棟なのはそのためだ。
 さらに、つい見落としてしまいそうになるが、拝所の右端の少し奥まった場所に、八百万の神を祀った「満山社(まんざんしゃ)」がひっそりと鎮座している。
 正式な参拝順は、第三殿、第二殿、第一殿、第四殿、満山社らしいのだが。
「すみません」
 怜司は宮司を見やった。
「きちんとご挨拶するべきなのでしょうが、時間がありません。主祭神だけでよろしいですか」
 時間を気にしておざなりになるのも、また失礼だ。宮司は人好きのする笑みを浮かべた。
「はい。神々も、事情をご存知かと思いますので」
 どうぞ、と手を差し出して勧められ中央の拝所の前に並ぶと、おもむろに閃がしゃがみ込んで片膝をついた。
 一瞬驚いたが、式神にとって目の前におわす神々はまさに生みの親。いや、祖父母や曾祖父母だろうか。何にせよ、膝をついて恭しく頭を垂れるほどの相手だ。
 姿勢を正して、二礼二拍手一礼。示し合わせたように怜司と樹が顔を上げ、閃も立ち上がった。
 荘厳な社殿を眺めながら思う。神々は今、この状況をどう見ているのだろう。
 などと感傷に浸っている場合ではない。行くよ、と樹に促され、怜司は身を翻した。
 宮司には敷地に結界を張ることを伝え、すぐにこの場を立ち去るように伝えた。神門を閉めると言った宮司と別れ、足早に境内を見て回る。
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