第9話

文字数 2,180文字

 三宮一帯はホテルが多い。母が言った通り、生田神社より山側、つまり北側に何軒かラブホテルを見付けた。ここから徒歩で十分ほど。ああいった場所は突然行って入れるのかどうかなんて知識はない。携帯がないので電話やネットで空室状況の確認はできないし、どんな評価がされているのかも分からない。入れたはいいが残念だったなんてこともあり得る。携帯があれば、色々調べられたのに。
 まあ、ラブホテルなんてどこも一緒だろう。男女が情事を交わすだけの場所。ただそれだけ。
 路地を抜けると、街そのものが発光しているかのような煌びやかさが目の前に広がった。左手に横断歩道。その先には、煌々と明かりを灯したアーチ状の看板がどんと立っている。生田東門商店街の入り口だ。通称・東門街と呼ばれるこの場所は、生田神社の東側を南北に伸びているため、そう呼ばれるようになった。
 商店街と言っても一般的な商店街とは違い、ケーキ屋や文房具店、花屋、酒屋、コンビニ、薬局。ホストクラブにライブハウス、居酒屋などが混在しているため、昼と夜で雰囲気はガラリと変わる。「夜の歓楽街」と称されるが、大阪の北新地同様、風俗営業の店はなく深夜営業を中心とした飲食店が多い。
 普段からこんな感じなのか。人や車がひっきりなしに行き交い、横断歩道のこちら側や向こう側にも信号待ちの人だかりができている。
 美琴と明は、喧騒と人の笑い声の中、人だかりの一番後ろで並んで足を止めた。と、不意に強風が人々の間を吹き抜け、小さな驚きの声があちこちで上がった。美琴はとっさになびいた髪を押さえ、体を竦める。首元を冷たい風が撫で、全身に鳥肌が立った。
 突風だったのか。徐々に弱まっていく風に、美琴は一つ身震いをした。体が芯から冷えそうだ。
「美琴ちゃん」
 呼びかけられて振り向くと、ふわりと首にマフラーが巻かれた。
「風邪をひくといけないから。ああ、やっぱり長いな」
 そう言って笑いながら、ぐるりともう一周。簡単に形を整える。
「苦しくないかな」
「はい。でも、明さんが……」
「僕は大丈夫。これでも、寒さには強いんだ。行こう」
 信号が赤に変わり、人々が一斉に動き出す。遠慮がちに背中に大きな手が添えられ、促されるがまま足を踏み出した。ここでわざわざ外して返すのは、失礼な気がする。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
 何でもないことのように、さらりと受け取って笑う。美琴はマフラーに顔をうずめるように俯いた。
 手触りのいい、高そうなマフラー。ついさっきまで外気に触れて冷え切っていた首に、残った彼の温もりがほんのりと伝わる。それが妙に照れ臭くて、顔どころか全身が火照った。沸騰しそうだ。
 アーチ型の看板をくぐると、雑居ビルが林立し、ネオンが奥へ奥へと続いている。立ち止まって談笑する集団や、身を寄せ合うカップル。携帯片手に店を探す様子の女性たちや、友人と合流し歓喜の声を上げる三人組の男性。店の前で寒そうに体を揺らしている制服姿の男女は、客の呼び込みだろうか。数時間前に来た時はいなかったが、男性の通行人を視線で追う女性二人組や、脇にしゃがみ込んで携帯をいじる若い男性もいる。
 もしかして、と余計な勘繰りが頭を掠め、美琴は彼女たちから視線を逸らした。自分がそうだからと言って、彼女たちがそうだとは限らないのに。
 後ろめたさや心細さから、無意識に仲間を欲しがっているのだろうか。自分だけじゃないと、安心するために。
「この雰囲気、懐かしいなぁ」
 雑踏の中、明のそんな声が聞こえ、美琴は顔を上げた。
「あまり来ないんですか?」
「うん。大学の頃に時々行ったくらいかな。色々と忙しくて」
 来た、ではなく、行った。
「あの、神戸の方じゃ……」
 ないんですよねと尋ねようとして、はっと口をつぐむ。多分、詮索しない方がいい。失敗したと反省する美琴とは反対に、明は特に気にした様子もなく答えた。
「京都なんだ。今日は出張でね」
「あ、お疲れ様です」
 そうだった、彼は仕事終わりだったのだ。当然のように労うと、明はふと笑ってありがとうと言った。何かおかしなことを言っただろうか。美琴は小首を傾げつつ、再び俯いた。
 実のところ、母の努めるスナックがこの通りにあるので極力避けたいのだが、この経路が一番近かった。万が一母と鉢合わせしても声をかけてくることはないだろうけれど、やっぱり見られたくない。生田神社の西側にも西門筋と呼ばれる道が通っているが、生田警察署の真横だ。さすがに通る勇気はない。さらに言えば、繁華街だけあって脇道に交番がある。巡回も頻繁に行われるだろう。できるだけ早く抜けてしまいたい。
「製氷業。へぇ、氷屋か。初めて見るなぁ」
 興味深げに辺りを見渡す明をちらりと見上げ、ふと気付いた。すぐ隣。歩調を合わせてくれている。
 マフラーといい歩調といい。大人の男の人は、これが普通なのだろうか。会ったばかりの他人に、しかも一晩だけの関係の人間に、こんなに優しくしてくれるものなのだろうか。
 改めて見ると、本当にこの雑然とした雰囲気が似合わない人だ。浮いているというか――そう。浮世離れだ。そんな言葉がぴったり合う、彼はそんな雰囲気なのだ。
 同じ団地のおじさんとも、学校の先生とも、恭哉とも。周りにいる大人の男の人とは違う。
 この人は、一体何をしている人なんだろう。
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