第1話

文字数 6,746文字

 とりあえず、だ。
 このまま通常捜査をしていても埒が明かない。とは言え、陰陽師たちの方も昨日の様子では新たな情報を掴んでいないだろう。
「どうすっかな……」
 午前九時。紺野(こんの)は、右京警察署に設置された合同捜査本部のデスクに広げた資料を眺めながら唸った。
 他の担当刑事たちも打つ手に困っているようで、何度も同じ資料を繰ったり、事件の経緯を示したホワイトボードを眺めたりしている。
 昨日、陰陽師たちの会合に出席したことは本部へは報告していない。してもないがしろに扱われるだけだ。その証拠に、紺野が上げた(あきら)の証言はすっかり捜査員の記憶から消去されているらしく、あれから誰も話題に上げない。
 捜査員たちの気持ちは十分過ぎるほど理解できる。紺野自身も初めは微塵も明の話を信じてはいなかった。いや、今でもほとんど信じていない。実際に陰陽師を名乗る者たちの会合に参加しても、祖母の実家が実は陰陽師の家系で自分にもその血が流れていると聞かされても、どうしても信じる気になれない。
 ただ、朝辻神社(あさつじじんじゃ)に文献が残されていたと報告した時の明の反応。そして会合に参加していた彼らの反応は、確実に嘘偽りのないものだった。刀倉家(とくらけ)の祖父と孫の二人もだ。だとすれば、本当に彼らが認知していた文献は刀倉家の一冊だけだったのだろう。彼らだけが知る秘匿され続けた伝承を、朝辻神社の宮司が知っていたということは、本当に文献が残っていたという証拠だ。だが「文献が残っていた」「内容が一致する」というだけで、伝承が「事実」かどうかは別だ。
 しかし、彼らの話が真実だと、鬼が存在すると仮定すれば、屋根を外から内へとぶち破った怪力、不明な侵入経路、人の骨を素手で砕き心臓を抉る残忍さ。あの異常な現場の説明がつく。
それなのに信じ切れないのは、実感がないからだ。自身に霊感があるわけではない。土御門家(つちみかどけ)に足を踏み入れた時に感じた不思議な爽快感くらいで、何を見たわけでもない。決定的な実感が湧かない。
 もういっそ、目の前で陰陽術なるものを披露させればよかった。自分の目で見た物を信用しないほど頭は固くないと自負している。
 それと気になるのは、(すばる)のことだ。
 二年前、高校の卒業式の日に、昴は黙って姿を消した。無くなっていたのは、数日分の着替えと財布と携帯、そして身分証明書。何度携帯にかけても通じず、どうやら登録している電話以外を拒否しているようだと朝辻に聞かされた。あまり携帯に興味がなく、基本電話とメールができれば良しとする紺野からしてみれば、そんな機能があるのかと驚いた反面、余計な機能付けてんじゃねぇぞ、と開発者に文句の一つでも言ってやりたい気分だった。
 あれから二年。
 まさか、あんな場所で再会するとは夢にも思わなかった。それはあの慌てようからして、昴も同じだっただろう。
 本当はもっと色々と聞きたいことがあった。朝辻たちのことも、これからどうするのかも。聞けなかったのは、警戒心丸出しで昴を守ろうとしていた「仲間」たちのせいだ。会合が終わり解散の流れになったとたん、彼らは昴をさっさと寮と呼ばれる建物の方へ帰してしまった。昴はこちらを気にしていた様子だったが、怖がっている風にも見えた。促されるまま、寮へ戻った。
 昴の姿を見て、興奮と安堵と怒りが綯い交ぜになって押し寄せ、つい組み敷いて怒鳴ってしまった。それが彼らの警戒心を強固にさせた。
「失敗した……」
 もっと冷静に対処すれば、落ち着いて色々話ができたかもしれないのに。もう後の祭りだ。
 朝辻に連絡を入れるかどうかも、まだ迷っている。今知らせれば、朝辻夫婦はきっと昴を迎えに行く。それは先日の様子から間違いない。彼らが迎えに行けば、昴はまた姿を消してしまう可能性がある。そうなったらもう、今度は二度と会えないかもしれない。
 もっと落ち着いて話ができるまで、知らせない方がいい。
 紺野は盛大に溜め息をついて、デスクに突っ伏した。
『知らない。僕は何も知らない。そんな話し知ってたらこんなにも悩まなかった。僕も、母さんも……』
 痛々しいほどに悲しい目をしていた。
 本当に彼らが陰陽師で、昴の力が陰陽師としてのものならば、あの場所から離すのは昴のためにならないのかもしれない。彼らが昴と同じ力を持つ者たちならば、そして同じ悩みや痛みを共有できるのなら、もうこのままそっとしておいてやりたいと思う。
 昴をあんなにも守ろうとした者たちなら、きっと信じてもいい。
 長い間、力のせいで悩んでいたことを知っておきながら何もしてやれなかった自分に、昴を彼らから引き離す資格は、きっとない。やっと見つけた居場所なら、尚更だ。
「陰陽師、か……」
 馬鹿馬鹿しいと、いつもなら一蹴するところだ。けれど、昴のことを考えるとそうであって欲しいとも思う。そうであれば、昴は救われる。
 だが、刑事としては受け入れ難い。
 紺野はもう一度大きな溜め息をついた。刑事としての自分と、叔父としての自分。二人の自分の狭間で窒息しそうだ。と、デスクの上で携帯が振動した。
 もう頭を上げるのも面倒で、紺野はデスクに頬をひっつけたまま携帯を確認する。科捜研の近藤(こんどう)だ。
「ん」
 近藤から連絡が来るなんて珍しい。もしや何か新しい証拠でも見つかったか。紺野は体を起こし通話した。
「おう、どうした」
「あー僕だよー」
 相変わらず気の抜けた口調で、こっちまで力が抜けそうだ。
「分かってる。何だ? 何か新しい証拠でも出たか?」
「いいや、まったく」
「じゃあ何だよ。こっちは色々忙しいんだよ」
 溜め息交じりにせっつくと、近藤は珍しく素直に本題に入った。
「あのさ、今って出て来れる? ちょっと渡したい物があるんだよね」
 近藤の言い回しに引っ掛かった。
「出て来れるって、お前今どこだよ。科捜研じゃないのか」
「屋上。すぐに来て」
「おい……っ」
 言うだけ言って近藤は通話を切った。
 紺野は舌打ちをかますと携帯を持ったまま立ち上がり、周囲を見渡した。ちょうど北原(きたはら)がハンカチで手を拭きながら戻ってきたところだ。すっきりした顔をしている。
「北原、ちょっと来い」
「え?」
 紺野はすれ違いざまに耳打ちし、北原を廊下へ連れ出した。そのまま屋上へ向かう。
「近藤からすぐに来いって連絡が入った。屋上だ」
「近藤さんから? 何か新しい証拠でも見つかったんですか。て言うか、ここ所轄ですよ。何で近藤さんがいるんですか」
「俺に聞くな、知らん。新しい証拠も見つかってねぇ。だが、あいつがいつもと違う行動をするってことは、何かあったってことだ」
「……怖いなぁ」
 眉尻を下げた北原に、同感だ、と小さく同意した。
 コンクリート打ちっ放しの質素な屋上へ出ると、近藤は日影にある色褪せたベンチに寝そべっていた。照り返しが凄まじく足元から熱が上がってくるのが分かる。焼肉ができそうなほど熱せられていそうだ。加えて頭上からは容赦なく太陽が照りつける。日影とはいえ、この時期は気休めにしかならない。そんな中でよく眠れるものだ。
「おい近藤、起きろ。呼び出しといて寝るんじゃねぇよ」
 ここに来るまで五分とかかっていない。もしや当直明けか。近藤の肩を揺さぶると、ううん、と寝ぼけ声が上がった。ぼさぼさの髪を乱暴に掻きながらのっそりと体を起こす近藤の腕から、ファイルが零れ落ちた。
「ったくこいつは」
 しっかりしろ、とぼやきながら腰を折り、ファイルを拾い上げる。すると近藤が大あくびをしながら言った。
「そのファイル、渡そうと思って」
「ああ?」
 眠気で体が安定しないのか、左右にゆらゆら揺れながら告げた近藤が、ついにぐらりと傾いだ。
「うわっ!」
 反射とは言え、近藤を支えた北原は偉い。
「お前、そのまま近藤支えてろ」
「はい? え、ちょっと紺野さん」
 困惑する北原を無視し、紺野はベンチに腰を下ろしてファイルを開いた。北原が一旦近藤を押しやりながら何とか隣に滑り込む。近藤の体重がもろに肩にかかり、北原は気持ち悪そうに眉根を寄せながらもファイルを覗いた。
 ファイルには、いくつかの報告書のコピーが挟まれていた。斜め読みすると、どうやら鬼代事件のものではない。
「何の事件だ?」
 紺野が首を傾げると、北原が報告書の右上に捺印されている確認印に気付いた。
「紺野さん、加賀谷管理官(かがやかんりかん)って、確か少女誘拐殺人事件の担当されてましたよね」
「ああ、確かに。でも……」
 少女誘拐殺人事件は、京都市内で先月から連続して発生していた事件だ。
 日没時間が延びる季節、子供たちだけならず大人たちも時間の感覚が狂う。まだ明るいからと油断していると気付いた頃にはすっかり日が暮れていた、なんてことは日常茶飯事だ。
 それを狙ってか、第一の犯行は午後五時頃に行われている。それから日が経つにつれて犯行時刻はずれ、先日起こった第四の犯行は午後七時頃に行われていた。
 いずれの被害者も、年齢は十歳から十五歳の少女。全員、遺体で発見された。発見場所は市内の山中。服装が乱れていたことから、乱暴された上で殺害されたと見られ、検視の結果、体内から犯人のものと思われる体液が検出された。いずれも絞殺による窒息死。殺害現場は、未だ特定されていない。
 遺体発見現場や被害者の居住地が広範囲に渡っており、府警本部に合同捜査本部が設置された。捜査はかなり難航したが、三つの遺体遺棄現場近くの防犯カメラから同じ車両が確認され、被疑者として浮かび上がったのは市内に住む独身男性。増田雄一(ますだゆういち)、四十四歳。
 紺野は訝しげに眉を寄せ、首を傾げた。
「これ、確か犯人死亡のまま書類送検されただろ。昨日の夜に記者会見も終わってる」
「ええ、俺も見ましたそれ」
 一昨日逮捕状が発行され、執行予定は昨日の朝。増田が出勤する午前七時頃を狙って捜査員たちがアパート近くで待機していた。二階建ての古いアパートの一階が増田の住居だ。だが、いつもの時間になっても家から出てくる気配はなく、逮捕状が発行されていることから踏み込むことになった。それが八時頃。
 インターホンを鳴らしてもドアを叩いても返事がなく、仕方なく捜査員の一人が裏へまわって部屋の様子を確認したところ、カーテンの隙間から倒れている増田を発見。大家に連絡を取り合鍵で部屋に入ると、増田が血まみれの状態で死亡していた。後、被害者の体内に残されていた体液のDNAと増田のDNAが一致し犯人と断定。
 警察は、犯人が自らの首を掻き切って自殺したと発表し、事件の終わりを告げた。
「じゃあ、何でこいつはわざわざ俺たちにこの報告書持ってきたんだ」
「さあ?」
「意味分かんねぇな……」
 紺野は渋面を浮かべてページをめくった。
 発見後すぐに鑑識が呼ばれ、現場検証に入った。すると、玄関はもちろん、全ての窓に鍵がかけられていた。部屋に争った形跡はなく、電気もエアコンもテレビも点けられたまま。ビールを飲んでいたのか、飲み残された缶が床に転がっていた。
 増田の遺体には、右の首筋から鎖骨にかけて大きく噛み千切られた傷跡が残っており、噛み千切られた部分の肉片は部屋から発見されなかった。司法解剖の結果、死亡推定時刻は午前零時から五時の間。傷跡は歯形と判明。しかもそれは人間のものではなく、大型犬のものに酷似していた。だが増田は犬を飼っていないし、もちろん野良犬なども部屋にいなかった。そもそも、密室の部屋にどうやって犬が入り込んで人を噛み殺すというのか。さらに、傷跡から採取されるはずの唾液も、増田以外の人物の痕跡や動物の毛なども一切検出されなかった。隣の住人も不審な物音や叫び声は聞いておらず、近くの防犯カメラからも不審な人物は見当たらなかった。
「何だ、これは。これのどこが自殺だってんだ」
「明らかに殺人……って言いたいところですけど……」
「……ああ」
 おそらく、事件が世間に与える影響を考慮した上で決断をしたのだろう。
 どう見ても自殺ではない。だが犯人は確かに死亡した。けれどその死に方が異様だった。密室状態で、残された傷跡は獣を示している。痕跡も一切残されていない。けれど一刻も早く事件解決の報告をして市民を安心させなければならない。
 警察官として一般市民を安心させたい。その気持ちは分かる。個人的な意見としては間違っていないと思う。現実的な話、事件の詳細を知りたがるのは記者や野次馬根性の強い者、その手の収集家くらいだ。事件のあらましと犯人逮捕が分かれば、しばらくはあれこれと詮索するが、ほとんどの者はそこで満足する。だから、異様な現場の解明を待たず世間に発表した。
 けれど刑事としては、事実を捻じ曲げて世間に伝えるのは言語道断だ。
 北原が大きく溜め息をついた。
「でも、こんなの発表できないですよねぇ」
「吊るし上げだな」
 その点については鬼代事件も同じだ。なるほどな、と紺野がページをめくりながら呟いた。
「鬼代事件と似てる、か」
「あ、確かに。現場の異常性とか、犯人の痕跡がほとんどないとか。それで近藤さんは俺たちにこのファイルを?」
「多分な」
 言外にこの事件を追えと言われているようで、紺野は暢気に眠りこける近藤を見やった。性格に難はあるが、めっぽう仕事はできる。遺留品を鑑定する過程で何か感じたか。
 少女誘拐殺人事件の合同捜査本部は解散した。だが、おそらく極秘で捜査は行われているだろう。犯人が被害者になった事件として。そこに担当ではない刑事が首を突っ込んでいいわけがない。
 短く息を吐いて、紺野はあるページで手を止めた。ご丁寧に殺害された少女たちの資料まで揃えてある。
 どこか旅行に行った時のものだろうか、満面の笑みを浮かべて写真に収まっている少女を眺め、紺野はファイルを握る手に力を込めた。
 まだあどけない少女たち。これから先、輝かしい未来が待っていただろうに。やりたいことも、なってみたい職業もあっただろう。そのすべてを増田が奪った。自分の欲望のまま、自分のためだけに何の罪もない少女たちを辱め、命を奪った。
『犯人死ねばいい』
『絶対死刑求む』
 事件中、そんなコメントがネットに氾濫した。素直な感情だと思う。被害者遺族でない者たちでさえ、犯人に対して強い反感や殺意を持つ。ならば、遺族はどうだろう。
 ここ最近、被害者遺族がマスコミに向けてコメントを発表するという、異常な風潮になりつつある。コメントでは不気味なくらい冷静な文面が綴られているが、はらわたが煮えくり返る思いであるのは間違いないだろう。
 捜査を続けている刑事たちもそこは鑑みているだろうが、被疑者の情報は、逮捕されるまで決して被害者遺族に伝えられることはない。だから増田事件の被疑者からは当然外される。
 常識的に考えれば。
「くそっ」
 紺野は乱暴にファイルを閉じて悪態をついた。
 ここ最近、非現実的なことばかり考えていたから思考がおかしくなっている。被害者遺族が呪い殺したとしたら、なんて可能性が浮かんでくるあたり、もう末期かもしれない。
 突然悪態をついた紺野に北原が驚いて身を引いた。北原の肩に寄りかかっていた近藤が押され、反対側に傾いだ。
「やばっ」
 慌てて北原が近藤の服を掴むと、息苦しそうに呻いて近藤が目を覚ました。それでも眠気が勝るらしく、近藤はしばらくぼんやりして、顔をゆるゆるとこちらに向けた。
「あれ、もう読んだぁ?」
 舌足らずの口調で尋ねられ、紺野は北原越しにじろりと睨んだ。
「お前、俺たちに何を期待してんだ?」
 近藤はのそりと立ち上がり伸びをした。別に、と言い置いて振り向く。
「ただ似てたからさ。何かの参考になればと思って。余計なお世話だった?」
「余計も余計だ。でっけぇお世話だよ。こっちは鬼代事件で手一杯なんだ。余計な仕事増やすんじゃねぇ」
 行くぞ北原、と言って立ち上がる。すると近藤は口元を緩ませた。
「ねぇ、そのファイル無断でコピーしたからさぁ、絶対バレないでよー」
「バレたらお前も道連れだからな」
「だからバレないでってば」
「知らん」
 近藤の声を背中で聞きながら、紺野は出入り口へと足を向けた。えー、と近藤が不満そうな声を上げる。失礼しますと北原が近藤に会釈を残し、追いかけてきた。

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