第11話

文字数 4,374文字

 休憩するつもりだったのに、結局区画と聞き覚えのある神社仏閣を数個覚えてしまった。よくよく見ると、晴明神社の他に陰陽寮跡地にも印が付いていて、少し不思議な気分になった。千年以上前、晴明はもちろん、影綱もここにいたのだ。
 はたと気付いた時にはもう五時近くになっていて、急に空腹を覚えた。夕飯は七時頃。軽いおやつがないか聞いてみようと思い、パソコンを持って部屋を出た。
 明かりが点いている。いつもなら、廊下の突き当たりにある天井までの窓から陽が差し込む時間で、照明は必要ない。けれど今は、時間の感覚がおかしくなったのかと疑うほど外は暗く、雨は窓ガラスを滝のように勢いよく流れ落ち、ごうごうと唸る風の低い音は男の唸り声のようにも聞こえる。
 すっかり豪雨だ。
 廊下には、さすがにエアコンはない。冷えた部屋から出たばかりなのに、高温と豪雨のせいで湿度が跳ね上がり、じっとり纏わり付く空気が不快だ。
「……なんか、えらい静かだな……」
 部屋の前で立ち止まったまま、大河は階段の方へ伸びる廊下に視線を投げて、囁くように一人ごちた。照明が点いているにも関わらずわずかに不気味さを覚え、パソコンを胸に抱きしめる。
寮には十五人もいるのに、この静けさは何だ。ごくりと喉を鳴らし、無意識に足音を消して廊下を進んだ。風と雨音に掻き消されているのか、人の気配がしない。心臓がどくどくと鼓動を速め、呼吸が浅くなり、手に汗が滲む。
 皆リビングに集まってるんだと自分に言い聞かせ、大河はそれでもゆっくりと階段を下りた。とん、とん、と足を踏み面に下ろす自分の足音が、妙に大きく聞こえる。
 階段を下り切って玄関の土間をちらりとのぞくと、縁側から避難させた訓練用の皆の靴や、裏庭用のサンダルが綺麗に並んでいた。
「いる、よな……」
 ほっと胸を撫で下ろしたのも束の間、ぴっちり閉められたリビングダイニングの扉の向こうからは、人の声がしなかった。皆が集まっているのなら声くらい漏れるはずなのに。
「な、なんで……?」
 大河は扉の前で立ち竦んだ。嵐の夜など、これまで何度も経験してきた。むしろ実家の方が古いため、ガラスが軋む音や雨戸が揺れる音、裏山の木々がざわめく音、荒れ狂う波の音など、ホラー要素満載だ。それなのに、どうして寮の方が不気味に感じるのだろう。広さか、それとも人が多いのに見当たらないからか。
 扉を開けて誰もいなかったらどうしよう。
 不意にそんな不安が脳裏をよぎり、心臓がますます鼓動を速くした。宿題やら報告書を書いている間におかしな空間に迷い込んだとか、逆に皆の方が異世界に飛ばされたとか、まさか悪鬼に襲われたなんてことはあるまい。いや、そもそも未熟とはいえ陰陽師である自分がこんなことで怖がってどうする。心霊現象は陰陽師の管轄だろう。
 大河は何度か深呼吸をし、顔を引き締めた。
「……よし」
 左手でパソコンを強く抱きしめ、そろそろと右手を扉へ伸ばす――と。
「何してんだ」
「――ッ!」
 不意にかけられた男の声に、大河は大仰に肩を跳ね上げて声にならない悲鳴を上げた。振り向きざまに大きく後ずさり、目をひん剥いて男を見上げる。心臓の大きな鼓動が全身に振動し、自分の荒い呼吸が鼓膜に響く。
「……どうした?」
 怜司は、不思議そうな顔で眼鏡の奥の細い目をしばたいた。
「れ、れれれ怜司さん……」
 どもりまくった上に裏返った声。怜司がますます不思議そうな顔をした。
「何をそんなに驚いてるんだ」
 冷静に聞かれ、大河は盛大に息を吐いて脱力する。おかしな世界に迷い込んだとか異世界とか漫画みたいな妄想してましたなんて言った日には、以前の「女の子の方がいい」発言と共に確実にネタにされる。
「ちょ、ちょっと、考え事をしてて……」
 視線を泳がせて言い訳をすると、怜司は大河を見据えたまま「ふーん」と含んだ相槌を打ち、にやりと口元を上げて扉に手をかけた。
「そうか。悪かったな、驚かせて」
「……いえ……」
 これは確実に勘付いている顔だ。怜司の察しが良すぎるのか、それともやはり自分の思考が分かりやすいのか。果たしてどちらだろう。
 自問自答しながら怜司の背中に続いてリビングに入ると、そこにいたのは茂、柴、紫苑、ダイニングテーブルに華、和室に双子だけだった。しかも華は霊符を作成中で、双子はおもちゃに囲まれて眠ってしまっており、茂たちはローテーブルに教科書や資料を広げて歴史の勉強中だ。他の皆は部屋でそれぞれ自主練中なのだろう。
「ああ、大河くんお疲れ様。お腹空いてない?」
 静かなはずだよ、とこっそり自己嫌悪する大河に、華が筆を置いて腰を上げた。怜司はキッチンに入り、ちょっと休憩しようかと柴と紫苑に提案した茂が腰を上げ、リビングを出て行った。
「あ、はい。空いてます」
「やっぱり。下りてこないから呼びに行こうと思ったんだけど、邪魔したくないからやめたのよ。集中してた?」
「ていうか、一度下りようと思ったんですけど、地図を広げたら印が付いてたんでつい」
 ダイニングテーブルに並べられた護符を横目に、ローテーブルへ向かう。ああ、と言いながら華が冷蔵庫からガラス製の器を取り出し、怜司は自分の分のアイスコーヒーを淹れた。
「美琴が書き込んでたやつね。分かりやすかったでしょ?」
「やっぱり美琴ちゃんなんですね。何を覚えたらいいのか考えなくてすみました」
 ローテーブルには教科書と資料集に加えて世界地図が広げられ、第一次世界大戦のページが開かれていた。世界の国の位置を教えながら説明していたらしい。カラー写真が並ぶ資料集を物珍しそうにめくる柴と紫苑にくすりと笑い、大河はパソコンを置いてダイニングへ戻る。
「あの子、まとめるの上手なのよね。授業のノートとかすっごく綺麗で見やすいわよ」
「そんな感じします。京都って、観光名所多いじゃないですか。それなのに、区画ごとに適度に覚える目印を選んでるっていうか、無駄に一ヵ所に集まってないっていうか。印がなかったら、手当たり次第に観光名所覚えてました」
 茂の席に腰を下ろしながらへらっと笑った大河に、華とグラスを持った怜司が笑った。はいどうぞ、とスプーンと一緒に置かれたガラスの器には、ゼリーが乗っていた。みかんにパイン、桃にバナナが入っており、元々リング状だったのだろう、曲線を描いている。
 これも手作りなんだろうなと、自席に戻った華へ有難く思いながら手を合わせてスプーンを持った。
「ところで、なんで美琴だって思ったんだ?」
 怜司がグラス片手に向かいの樹の席に座った。
「前に霊符のお手本を描いてもらった時に、一年くらい前に寮に入ったって聞いたんです。あと、香苗ちゃんちに行った時、春が神戸出身だって言ってたんで、もしかしてって」
「なるほど」
 一つ頷いて、怜司はグラスに口を付けた。大河はスプーンでゼリーをすくって口に運び、顔を緩ませた。蒸し暑い上に空腹の今、この冷たさと甘さは体に染み渡る。樹の分はどうしたのだろうと頭を掠ったが、さすがにこれは甘味だ。果物くらいは食べたかもしれないが。
 口を動かしながら、テーブルに並んだ乾き切っていない霊符に目を落とす。宗史のものと比べて符号は少し小ぶりにまとまっているが、手本のように整っている。あんな護符を紺野たちに渡したことが恥ずかしくなるくらいの、綺麗な霊符。
「いいなぁ……」
 羨ましそうにぽつりと呟いた大河に、華が乾いている霊符をまとめながら小さく笑った。
「大河くんはまだ始めたばかりじゃない。柴も言ってたでしょ。ある程度描けるようになれば、急ぐことないわ」
「華さんの言う通りだ。どのくらい描けるようになったんだ?」
 そうか、怜司は紺野たちに渡されたお守りに、自分の護符が入っていることを知らないのだ。
「この前宗史さんに見てもらったら、使えなくはないと思うって言われました。ものすごく曖昧に」
 肩身を狭そうにしてゼリーを口に運んだ大河に、ははっと華と怜司が声を揃えて笑った。
「まあでも、この短期間にそれだけ描ければ上出来じゃないか?」
「そうよね。あ、そうだ。ついでだから何枚か渡しておくわ。この前宗史くんにもらってから、減ってるでしょ」
 そう言いながら、華はまとめた霊符をトランプよろしく扇形に広げた。確かに、霊符を描くにしてもそれが実際に使えるかどうか分からない。しかし、せっかく描いたものをこうもあっさりいただいていいものか。大河は申し訳なさそうに上目づかいで華を見やる。
「いいんですか……?」
「もちろん。ストックはまだあるし、時間ができたから描いておこうと思っただけだから。それにね、皆初めはこんな感じなのよ。誰が渡すとか決まってるわけじゃないけど、報告のノートを読んで何となくとか、仕事を一緒にした人が渡したりとか、色々ね」
「そっか……、じゃあ、お言葉に甘えて。ありがとうございます」
「どういたしまして。何を使った?」
 にっこり微笑んだ華に照れ笑いを返し、大河は宙に視線を投げて記憶を辿る。
「えーと、昨日の仕事で浄化を一枚」
 浄化ね、と言って華が束から一枚引き抜いた。
「酒吞童子を捕縛した時に地天の霊符を一枚と、廃ホテルの時に二枚。と、結界を一枚、かな?」
 思い返すと意外と使っている。華に言ってもらって助かった。他はないはずだ。華が結界の霊符を引き抜きながら、ああそうか、と呟いた。
「大河くん、地天の霊符がいるのよね。あたし火属性だから滅多に描かないのよ。ちょうどいいし、今から描きましょうか」
「え、いやでも……」
「地天ならしげさんが持ってるだろ」
 さすがにそれは申し訳ない、と言う言葉を怜司が遮り、なんでしげさんが、という言葉を開いた扉の音が遮った。
「もう、トイレ行くだけでも暑いって、ちょっと勘弁して欲しいねぇ」
 渋い顔で誰に言うともぼやく茂へ視線を投げ、怜司が声をかける。
「しげさん。地天の霊符のストックありますか」
「うん、もちろん……、ああ、大河くんに? じゃあ綺麗な方がいいよね。部屋にあるから取ってくるよ」
 霊符を受け渡ししている大河と華を見て察したらしい、茂は尻ポケットを探ったと思ったら、すぐに踵を返して再びリビングを出て行った。
 大河は、すみませんありがとうございます、と心で合掌して茂を見送り、華と怜司を振り向いた。
「あの、なんでしげさんなんですか?」
「なんでって?」
 華が目をしばたいて小首を傾げた。
「だって、しげさんの属性って水ですよね」
「ううん。しげさんは大河くんと同じ土の属性よ」
「え、でも……、あ、そうか」
 この前は水天の略式を行使してましたよね、と聞き返そうとして思い出した。つい勘違いしそうになるが、いつも属性の術を使っているとは限らないのだ。
 一人納得した大河に、華と怜司が声もなく笑みをこぼした。
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