第15話

文字数 5,640文字

「絶対に許さないから……ッ!」
「やべ……っ」
 女が低く恨みの言葉を吐いた瞬間、弘貴と呼ばれた少年と春が何かを避けるように素早く背中から飛び退いた。弘貴が茂たちへ駆け寄って窓際まで下がらせ、春が尻ポケットから紙切れを取り出して構える。間髪置かずに女が苦しげに呻いたと思ったら、体から黒い靄が噴き出した。脱皮するようにするりと離れ、椅子を突き飛ばして欄間をくぐり隣の和室へと移動した。こちらの動きを警戒するように天井近くでふわふわと浮いている。
「な……」
 幻覚を見ているのか。この世のものとは思えない、身の毛がよだつほどのおぞましさに声が詰まった。黒い靄はもぞもぞと蠢くと、二メートルほどだろうか、茂たちに向かって食虫植物のようにぱかっと口を広げた。怯えた表情で、咄嗟に恵美が真由を抱き寄せる。
「ノウマク・サマンダ・バザラダン・カン!」
 叫んだ春の声に呼応するように、指に挟んでいる長細い紙切れが小さな光を放ってぴんと張った。一方黒い靄は、警戒したように一瞬できゅっと縮んで元の大きさに戻り、物凄い勢いで天井をぐるぐると旋回し始めた。その動きに合わせて春の視線も動く。まるで獲物を狙っているような鋭い目付きだ。
帰命(きみょう)(たてまつ)る、邪気砕破(じゃきさいは)邪魂擺脱(じゃこんはいだつ)――」
 春の指から紙切れが離れて宙に浮いた。一方、女の方は見えていないらしい、怪訝な顔をしつつもここぞとばかりに素早く体を起こした。するりとショルダーバッグを肩からおろし、転がっていたナイフを拾い上げる。
「やめろって!」
「放して!」
 弘貴が気付いて茂たちから離れ、すぐにナイフを持つ方の手首を掴んで取り押さえたが、二人の叫び声が春に一瞬の隙を作らせた。その隙をつかれ、黒い靄が茂たちに向かって一気に滑空した。
「恵美さん、真由!」
 茂が二人を背中に庇い、恵美と真由が何か叫んだ。この黒い物体が何なのか分からない。ただ、近付けてはいけないと、それだけは分かった。だが――。
「駄目だ、伏せろッ!」
顕現覆滅(けんげんふくめつ)、急急如り……っ」
 茂を飲み込もうと黒い靄が口を広げた直後、恵美が茂の体をすり抜けて両腕を広げた。それを見た弘貴が叫び、春の声が中途半端に途切れて、黒い靄目がけて飛んだ紙切れがはらりと落ちた。
「伏せてッ!」
 弘貴が咄嗟に女の拘束を解いて駆け寄り、春の鋭い声が響き渡る。さらに真由も茂の体をすり抜け、恵美を庇うように抱き締めた。
 スローモーションを見ているようだった。
 迫る黒い靄。それを見上げる恵美と真由。間に割って入り、二人を背に庇って紙切れを構える弘貴と春。茂と恵美、真由、弘貴と春の五人の周囲を取り囲み、黒い靄が口を閉じてゆく。
 無意識に体が動いていた。
 また、失うのか。今度は目の前で、少年たちも一緒に。何もできないまま、妻と娘と少年らに守られて、自分だけ生き残るのか。
 守るべきは僕なのに――今度こそ、守らなければ。
 茂は恵美と真由、弘貴と春の後ろから目一杯腕を伸ばし、間を掻き分けるように飛び出した。
「やめろッ!!」
 黒い靄を睨みつけて腹の底から叫ぶ。
 その直後、弘貴と春が持っていた紙切れから小さくもまばゆい光がほんの一瞬だけ放たれ、黒い靄が弾かれたように天井へと後退した。
 一瞬誰もが呆然とし、少し縮んだ黒い靄が居心地が悪そうにもぞもぞと動いた。弘貴がはっと我に返った。
「話はあとだ、春!」
「りょ、了解!」
 動揺を見せながらも、茂の背後から二人が揃って構えた。右手の指に紙切れを挟み、左手の人差し指と中指を揃えて唇に添える。
「ノウマク・サマンダ・バザラダン・カン!」
 弘貴と春の声が重なったとたん、威嚇するように黒い靄が勢いよく広がり、真正面から襲ってくる。紙切れが仄かに光を放ってぴんと張り、指からするりと離れた。
帰命(きみょう)(たてまつ)る、邪気砕破(じゃきさいは)邪魂擺脱(じゃこんはいだつ)顕現覆滅(けんげんふくめつ)――」
 紙切れは、二人の視線に沿ってすぐ目の前に迫った黒い靄目がけて空を切ると、ぺたりと張り付いた。
急急如律令(きゅうきゅうにょりつりょう)!!」
 飲み込まれる寸前、最後の一言で、今度は目が眩むほどのまばゆい光が間近で放たれ、部屋を包み込んだ。
 咄嗟に後ろを向いて四人を抱き寄せ目を閉じたけれど、光は瞼を通して刺激を送ってくる。
 ずいぶん長いこと、人の熱を感じていなかったような気がする。腕の中にある体温が、妙に心地良かった。
 しばらくすると徐々に眩しさが引いていき、茂は瞬きをしながらそろそろと瞼を上げた。つい先程まで叫び声が響いていたとは思えないほど、しんと静まり返っている。
「おじさん、そろそろ放して欲しいんだけど」
 不意に、腕の中から少し困った弘貴の声が聞こえ、茂は視線を落とした。弘貴と春が上目遣いで見上げていて、茂はあっと声を漏らす。
「ごめん」
 そう呟いて腕を解くと、はっとして視線を上げる。恵美と真由も一緒に抱き寄せたつもりだったが、できなかったらしい。しかし、目の前で呆然と立ちつくす恵美と真由の姿に安堵の息が漏れた。良かった、と小さく呟いて二人の元へ歩み寄る。
「何? 今の……」
 こちらもまた呆然だ。女がよろめいて持っていたナイフを落とし、脱力したように崩れ落ちた。あの黒い靄は見えていなかったようだが、光は見えていたのだろう。しきりに目をしばたいている。
 茂はゆっくりと、女の方へ足を向けた。恵美と真由が声もなくあっと呟き、弘貴と春がわずかに表情を硬くした。
「山下さん」
 側に膝をついた茂を、女が夢現の顔で見やった。茂は静かに深呼吸をしてから、口を開いた。
「先程のお話ですが、僕は本当に知らないんです」
 女が夢から覚めたように目を鋭くした。
「嘘よ」
「嘘じゃありません。警察には相談されましたか?」
「バレないとでも思ってるの!?」
「違います。本当に僕じゃないので聞いているんです」
 即答した茂に女は悔しげに唇を噛み、顔を歪ませて目に涙を浮かべた。肩を落とし、俯いてうなだれる。
「じゃあ……一体誰が……」
 ぐずぐずと鼻をすすりながら呟いた女に、茂は悲しげに目を細めた。どこの誰かも分からない者に貶められ、息子を失うところだった。その恐怖と怒りは、理解できる。しかし心当たりがない以上、どうしようもない。
 と、また玄関チャイムが鳴った。対応しようと動いた弘貴と春を止め、茂はリビングへ向かった。
 モニター付きのインターホンを確認すると、そわそわと落ち着きのない顔をした一人の中年男性が映っていた。彼もまた見覚えがある。女の夫、山下透の父親だ。突然すみません、お電話を差し上げたのですがと言われ、携帯を鞄に入れっ放しだったことに気付く。固定電話も、あの騒ぎで気付かなかった。
 妻は来ていませんかと問われ肯定すると、彼は酷く恐縮した様子で何度も謝った。酷く腰が低く不安な表情。この様子なら大丈夫そうだ。
 先程の騒ぎで、多分玄関に鍵はかかっていないだろう。鍵が開いていると思うのでどうぞ、と促すと、父親は一瞬顔を強張らせて返事をし、モニターから消えた。
 リビングを出て玄関へ向かうと、父親は茂を見るや否や、土間で所在なさげな顔をして深々と頭を下げた。もう一度「どうぞ」と促し和室へ案内する。
 和室では、春が窓際で誰かに電話をしている以外は、皆そのままだった。
「お前……っ」
 父親が入口の側でうなだれる女と、側に転がるナイフを見て青ざめた。
「まさか……、お前まさか……っ」
 混乱からか、父親は同じ言葉を口走りながら駆け寄り、女の両肩をがっしりと掴んだ。
「なんてことを……っ、なんてことをしたんだ! こんな……っ」
 女を激しく揺さぶり、父親は俯いて「うう」とくぐもった嘆き声を漏らした。恵美と真由は痛々しそうな顔で二人に目を落とし、電話をしていた春が弘貴の側へ戻り何か耳打ちをした。
「山下さん」
 父親と女の側で、茂は言った。
「お話は伺いました。警察に相談されてはいかがですか」
 俯いたまま動かない。と思ったら、父親は素早く体を茂へ向け、正座をし、両手をついて額を畳にくっつけた。突然の態度に、茂たちは目を丸くした。
「そのことですが、先程分かりました」
 父親の言葉に女が目を丸くして、勢いよく顔を上げた。
「息子の同僚でした。同棲している女性が気付き、説得してくれたそうで。先程、彼女に連れられて謝りに来ました。なんでも、以前仕事のことで揉めてからかなり仲が悪かったらしく、日頃から喧嘩が絶えなかったそうです。すぐに削除すれば大丈夫だろうと、軽い気持ちでやってしまったと」
「そんな……っ」
「お前は黙ってろ!」
 父親が土下座をしたまま鋭く遮り、女は言葉を飲んで肩を落とした。
「息子共々、本当に、本当に申し訳ございません……っ」
 絞り出された声は涙交じりで、背中も小さく震えている。
 同僚ならば名前はもちろん、仲が悪かったとはいえ仕事上の連絡などで携帯の番号も知っているだろう。知らなくても他の同僚から聞けばいい。入院先も、事務手続きなどで会社は知っているだろうし、見舞いに行きたいからと言えば教えてくれる。
 いけないと分かっておきながら飲酒運転をした透と、軽い気持ちで個人情報を晒した同僚は、茂からしてみればどっちもどっちだ。因果応報が本当にあるのなら、その同僚もまた、いつか代償を支払う時が来るのだろう。
「先程、息子さんはとても反省して、自分の罪を受け入れているとお聞きしました。しかし、僕は彼を許す気はありません」
 茂は目を伏せ、わずかに唇を震わせた。
「どれだけ反省しても後悔しても、妻も娘も戻って来ないんです」
 自分に言い聞かせるように呟いた茂に、恵美と真由が悲しい顔をして俯いた。
「ただ、だからこそ、息子さんを失うかもしれない恐怖や憎しみが、理解できます。……もちろん、こんなことをしていいとは思いませんが」
「はい。それはもちろん、重々承知しています。申し訳ございません……っ」
 喉の奥から絞り出した声と共にさらに身が縮まり、額が畳を擦った。
 葬儀の時も同じだった。義両親たちから罵倒され、罵られ、参列者たちからも遠巻きに白い目で見られつつ、彼らはただひたすら謝罪だけを口にした。女は言った。飲酒運転なんて馬鹿なこと、と。彼らは元々、常識ある人たちなのだ。しかしあの日、透が決してしてはいけない選択をしてしまったせいで、さらなる判断を誤った。
 本来、責めるべきは加害者本人であって、家族ではない。けれどそれは世間が、被害者家族が認めない。透はもちろん、加害者家族として、彼らはこれから先ずっと苦しみ続けることになる。
 人の命を奪ってしまった罪に対し、十分な罰や償いというものはない。
 けれど、不自由になった体と、どこの誰かも分からない者たちからの誹謗中傷や嫌がらせが、罪の重さを忘れさせることはないだろう。それは同時に、恵美と真由のことも忘れないということだ。ならば、もうこれ以上は。
「この件に関しては、内密に……」
 しておきますのでどうぞお引き取り下さい、と口にしようとして気が付いた。茂は後ろを振り向いて弘貴と春を見やった。先程、春は誰かに電話をしていた。彼らが親に話せば、あるいはすでに話しているのなら、内密にというわけにはいかない。
 茂の困った顔を見て、弘貴と春は顔を見合わせて頷いた。
「俺らは大丈夫。気にしなくていいよ」
 弘貴が微かに笑みを浮かべ、春がこくりと頷いた。妙に大人びたその表情に、この子たちは一体何者だろう、という疑問が頭をもたげた。
 茂はありがとうと頷き返した。体勢を戻し、改めて告げる。
「この件に関しては内密にしておきますので、どうぞお引き取り下さい」
 畳についた父親の手が拳を握った。
「本当に、申し訳ございませんでした。ありがとうございます……っ」
 ありがとうございます、ともう一度告げて、父親は力なく頭を上げた。視線を弘貴と春に投げ、あの、と茂に恐縮して尋ねた。
「あの子たちは……」
「え、ああ……」
 茂も振り向く。どこの誰かは知らないが、自殺を止めに来た子たちですとは言えない。
「教え子です。ちょうど遊びに来てくれていたんです」
 え、と声には出さなかったが弘貴と春が意外な顔をした。
「そうでしたか……それと、あの、もしかしてあの窓ガラスを割ったのは……」
「え?」
 指摘され、茂は視線を横へ滑らせた。あ、やべ、と呟いたのは弘貴だ。そういえば、窓を割って入ったと言っていた。
「ちょっと遊んでいて割れてしまったんです。そちらのせいではありませんよ」
 ごめんなさい、と弘貴と春が肩を竦めた。茂が微かに笑みを浮かべると、父親はわずかにほっとしたのも束の間、何かを窺うように目を細め、徐々に見開いて視線を投げた。その先には、欄間にかかったままのタオルと横倒しになった椅子。
 あ、と茂はバツが悪い顔をした。
「あの……っ」
「山下さん」
 身を乗り出した父親の言葉を遮り、茂は言った。
「早く、奥様を休ませてあげてください」
 父親はくしゃりと顔を歪め、目に涙を滲ませた。
「本当に、申し訳ありません……っ」
 涙で掠れた声を絞り出すと、父親はゆっくり立ち上がった。魂が抜けたように脱力した女の腕を掴んで無理矢理引っ張り立たせ、涙を拭って弘貴と春を見やる。
「君たちも、怖い目に遭わせて申し訳なかった」
 そう言って弘貴と春に向かって深く頭を下げた父親に倣い、女もゆらりと頭を下げた。
「大丈夫です、怪我してないし。な」
「うん」
 あっけらかんと言った弘貴に春が頷くと、父親は肩を震わせながら顔を上げた。その表情は今にも泣きそうなほど歪んでいた。
「本当に申し訳ありませんでした。あの、ではこれで」
「ええ」
 行くぞ、と女の手を強く引っ張る父親の背中は、申し訳なさからか猫背だ。
 二人を玄関まで送り、何度も何度も頭を下げる父親を見送った。父親がどこまで察したのかは分からないし、結局女からの謝罪は一度として聞けなかった。けれど、いちいち説明する必要はない。父親が心から謝ってくれた。もう、それでいい。
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