第18話

文字数 2,976文字

「開けろっつってんだろ!」
 母の怒声と、ドンッと床が揺れるほどの衝撃が空気を震わせた。蹴り付けたような強い衝撃音が恐怖と緊迫感を煽り、ぎゅっと目をつぶって受話器を強く耳に押し付ける。と、呼び出し音が途切れ、
「もしもし」
 懐かしい声が耳に飛び込んできた。明だ、繋がった。
「あ……っ」
 明さん、と呼びかけようとして、不意に気付いた。あれから、もう四カ月だ。たった一度会っただけの、しかも四か月も連絡を寄越さなかった子供のことなど、覚えていないかもしれない。それに、今さら都合が良すぎないか。あれだけ世話になっておいて一度も連絡しなかったのに、こんな時にだけ助けてくれなんて。
 駄目だ。今さら彼を頼ろうなんて、虫が良すぎる。
 そもそも、彼は京都に住んでいる。京都から神戸まで、どのくらいの時間がかかる? 二時間、三時間? そんなに耐えられない。
 絶望が、胸に広がった。やっぱり、母からは逃げられないのだ。
「開けろ、開けなさい!」
 力づくで開けようとしているらしい。ドアが激しく揺れ、鍵の部品同士がぶつかる金属音が鳴り響く。美琴は唇を結び、受話器を耳から離した、その時。
「美琴ちゃん?」
 まさかと思った。
「もしもし、美琴ちゃん? 僕だ、明だ。聞こえるかい?」
 ――覚えていてくれた。
 胸に広がっていた絶望が、喜びに掻き消されて行く。じわりと涙が滲み、足から力が抜けた。崩れ落ちるように床に座り込み、美琴は受話器を耳に当て直した。
「あ、あきら、さ……っ」
 声が震えて、喉に何かが詰まったように上手く言葉が出てこない。と、ガンッ! と強く扉を蹴りつけた音が響き渡り、美琴はびくりと肩を跳ね上げた。
「どいつもこいつも馬鹿にして……っ。殺してやる!」
「助けて……ッ」
 母の怒声に弾かれて、詰まっていた言葉が飛び出した。
「美琴ちゃん、今、家にいるんだね?」
「ん……っ」
 うん、のひと言すら上手く言えない。
「すぐに行くから、もう少しだけ頑張れそうかい?」
「わ、分からな……っ。部屋に……鍵、閉めてっ、バリケード……っ」
「分かった。いいかい、何があってもそこから出ないように。絶対に助ける。僕を信じて」
 言葉の合間合間に小さく頷き、最後にはいと返す。
「大丈夫、落ち着いて。このまま話そう。できるかい?」
 てっきり、切られると思っていた。思いがけない提案に、はいと答えてゆっくり大きく深呼吸をする。と、不意に音が止み、
「ねぇ、美琴」
 突然、母のとても落ち着いた声が扉の外から届いた。こんな声、初めて聞く。目を丸くして扉の方へ視線を投げる。静かに、と明が小声で言った。
「ごめんね。お母さん、どうかしてたわ。駄目ね、昔からカッとしやすくて。直さなきゃって思ってるんだけど、なかなか難しくて。駄目な母親でごめんね、美琴」
 この豹変ぶりは何ごとだ。気味が悪い。
「あんたには、一度も話したことなかったわよね。お父さんのこと」
「え……」
 予想外の話題に、思わず声が漏れた。これまで絶対に話してくれなかったのに。何故今になって、しかもこの状況で。
「あたしはね、愛してたの。あんたのお父さん。すごくかっこよくて、人気者だった。皆に羨ましがられたわ。自慢だった。でも、いつも不安だった。あの人の周りには、ハイエナみたいな女がたくさんいたから。でも、あんたを妊娠したって知った時、あの人はとても喜んでくれたわ。その時はまだ籍を入れてなかったから、早く入れようって話してる矢先に、あの人はいなくなった。あの人の友達に問い詰めたら、女と駆け落ちしたって言うのよ。それも、ひと回りも離れた上司の奥さんと。それだけ離れてたらおばさんじゃない。しかも駆け落ちよ? いつの時代よ、気持ち悪いったらなかったわ」
 ははっと、小馬鹿にしたような笑い声。
「あの人を探してる間に中絶期間が過ぎちゃって、産みたくなくても産むしかなかったのよね。だってそうでしょう? 浮気してた男の子供なんて、誰が産みたいなんて思うのよ」
 ねぇ? と問い掛けられ、やっと腑に落ちた。母が、何故いつも苛立っていたのか。何に苛立っていたのか。
 苦しい生活へ対するものだと思っていた。でも違った。いや、それもあるのだろう。しかしそれ以上に苛立っていたのは、自分を裏切った男の血を引く美琴(こども)を育てなければならないという、現実にだ。
 愛した分、憎しみも大きかっただろう。子供に罪はないとか、自分の子供でもあるからとか、そんなふうに思えないほど憎んだのだ。だからこそ、裏切った男の子供を何故自分が育てなければならないのかと。妊娠中の辛さ、出産や産後の痛みに耐え、金と時間と手間をかけてまで、どうしてあんな男の子供を、と。そんなふうに思った。そんなふうに、思われていた。
 なるほど。金も時間もかけたくないわけだ。産みたくて産んだわけではないのだから。もしかすると、捨てることも殺すことも考えたかもしれない。そして、祖母はそれを知っていたのだろう。だからいつも側にいて、守ってくれた。
「昔から貧乏で、色んな事を我慢して、やっと幸せになれると思った。人並みの生活ができると思った。それなのにこのザマよ。――もう、疲れちゃった」
 母が弱音を吐くのを、初めて聞いた。愚痴や文句ばかりだった母が、初めて弱音を吐いた。
「ねぇ、美琴」
 これまで聞いたことのない、とても穏やかな声で、母は言った。
「お母さんと、一緒に死のう?」
 その言葉は、驚くほど強く鮮明に鼓膜に飛び込んできて、瞬く間に思考を支配した。――死。今まで、考えたこともなかった。生きることに、母から逃げることばかりに必死で。
「このまま生きてても、幸せになんかなれないもの」
 小さな子供に優しく言い聞かせるような口調。
「だってそうでしょう? あたしたち、辛いことばっかりだったわよね」
 母の言葉は甘言となって、芳しい香りを放ち始める。
「苦しいことばっかり、我慢ばっかりして、どれだけ頑張っても、誰にも愛されない」
 その香りに引き寄せられる虫のように、じわじわと思考が引っ張られる。
「生きてても、しょうがないわ」
 視界も思考も少しずつ狭まって、周りが見えなくなる。他のことが考えられなくなる。それは、まるで言葉の麻薬。楽な方へ、楽になれる方へと導いてゆく。
「ねぇ、美琴」
 気が付いた時にはもう、手遅れだ。
「お母さんと一緒に、死のう?」
 蜘蛛の糸に絡め取られた獲物のように、身動きが取れない。
 無意識に、涙が一筋こぼれ落ちた。
 父にとって、母は必要なかった。だから、お腹の中に自分の子供がいると知っておきながら、父は他の女を選んだ。それはつまり、父にとって自分も必要のない子供だったのだ。そして母にとっても、父を繋ぎ止めておけなかった自分は、いらない子供だった。
 お腹にいる時から、母にとっても、父にとっても、自分は必要のない人間だった。初めから、母に愛されようなんて無理な話だったのだ。だってそうだろう。この世に生を授かった瞬間から、この世で最初に愛してくれるはずの親。彼らから愛されず、必要とされていなかったのだから。そもそもこの世に必要のない命だったのだ。今さら消えても、何も問題はない。
 父に必要とされなかった母。両親に必要とされなかった自分。愛して欲しい人に愛されない者同士、一緒に死ぬのも、悪くない。
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