第9話

文字数 6,668文字

 本来の目的は携帯の返却と事件の情報収集だが、表向きは同僚による安否確認だ。
 まずは会社が緊急連絡先に連絡を入れる。大概は家族になっているので、家族が対象者の家に行き、合鍵などがあればそれを使って確認する。
 というのが一番面倒のない方法だ。しかし今回の場合、親が合い鍵を持っていない上に応じなかったため、少々面倒になる。
 近くの駐車場に車を停め、マンションを見上げた下平は渋い顔をして「贅沢な」とぼやいた。良親が住んでいたマンションは、管理人が常駐している他に、地下駐車場とオートロック付きのなかなか豪華な物件だった。
 エントランスには、右手にカメラ付きのオートロック機、左手に管理人室がある。
 手始めに、冬馬が良親の部屋のインターホンを鳴らした。当然出るわけがない。いないな、と小芝居をしてから、下平が管理人室の窓を覗き込んだ。ちょうど帰宅時間のため、入れ替わり立ち替わり住民たちがマンション内に入ってくる。
 六十がらみの男が窓を開けて、いまいち関係性が分からない二人組を交互に見やった。訝しげな視線を注がれながら、下平が警察手帳を掲げる。
「こんばんは。下京署の下平と言います」
「えっ、警察?」
 管理人の声に、ちょうど帰宅した女性がちらりと一瞥した。
「はい。504号室の林良親さんのことでお伺いしたいのですが」
「504の林さん……ああ、あのホストっぽい方」
 夕方に外出して日が変わってから帰宅する上に、あの身なりでは管理人の覚えもいいだろう。
「実は、彼は林さんの同僚で、一昨日から連絡が取れないと言うんです」
 下平が手帳をしまいながら視線を投げると、一歩後ろに立っていた冬馬が如才ない笑顔で進み出た。財布から運転免許証を取り出して提示する。名刺でないのは、確実に身元を証明するためだ。
「同じ会社の系列店で店長をしております、桐生冬馬と申します。彼の店のスタッフにも確認をしたんですが、今日も出勤していないようなんです」
「何かしらの事故か事件に巻き込まれているかもしれません。心当たりはありませんか」
 管理人は顎に手を添えて逡巡し、そういえば、と呟いた。
「ここ二、三日見てない気が……巡回した時も車がなかったし……」
「そうですか……。まだ何かあったと決まったわけではないので、確認して異常がなければすぐに引き上げます。ご協力ください」
「分かりました。しかし、今すぐというわけには。管理会社から連帯保証人の方に連絡を取ってからになります」
 今ここで、会社の方で親の承諾を得たと言っても無駄だ。証拠がない。
「構いません、お願いします」
 はい、と頷いて管理人は横にある電話の受話器を持ち上げた。
 通常、管理人や管理会社に第三者が頼んでも鍵を開けてくれることはまずない。家族、あるいは警察を通して「安否確認」として開けてもらうのが一番の近道だ。しかし、あくまでも警察は強制ではなく「お願い」であり、管理会社も義務ではない。断ることもできるが、後々、本当に借主、家主が死亡している、もしくは事件に巻き込まれていたという重大な状況に発展する可能性があるため、依頼主によほどの不信感を抱かない限り協力してくれる。
 昔はマンションの管理人や大家がスペアキーを持っていたこともあったが、現在は防犯面から管理人はもちろん、管理会社すらスペアキーを預からないところがほとんどだ。となると、管理人がいようといまいと、家族が合い鍵を持っていなければ鍵屋に解錠を頼むことになる。
 その鍵屋も、後々のトラブルを避けるために依頼主の身分をしっかり確認し、部屋の主でなければ警察官立ち会いの下でしか解錠することはない。過去に、家族や友人、同僚などと偽って鍵を開けさせ、実はストーカーや強盗目的だったという事件が何件も起こっているためだ。
 はいそうです警察の方と同僚の方がいらっしゃっていて、と管理会社に説明する管理人の声を聞きながら、帰宅した中学生くらいの男の子を連れた三人家族に二人揃って会釈を交わす。
 下平は静かに嘆息した。
 良親の親は、息子に興味がないようだった。そうなると、車が見つかって警察が事件性有りと判断しなければ、積極的に探そうとはしないだろう。
 しかし、良親の車が発見されたとしても、あの辺りに防犯カメラは設置されていないし、廃ホテルの惨状を見ても、まさか陰陽師と悪鬼の戦闘が繰り広げられていたなどとは思わないだろう。あの場所で足取りを見失う。そもそも、心霊スポットに放置されている車を一般人がわざわざ通報するとは思えない。せいぜい恐怖を煽る材料にするくらいだ。
 もし親が探したとして、携帯から譲二のことは分かるだろうが、彼もいない。譲二の携帯は、おそらく彼ごと悪鬼に食われている。警察が介入しない限り身元が割れることはない。さらに言うなら、出掛けた形跡があるにもかかわらず、携帯が自宅で発見されれば連絡手段を絶ったと見なされ、よほど不審なデータや痕跡がなければやはり警察は動かないだろう。正直、携帯を処分した方が色々と都合はいいが、警察官としてそれはさすがにいただけない。
 良親は、完全に行方不明者として扱われることになる。
 下平は、往来を眺める冬馬を横目で盗み見た。
 行方不明と言うなら、冬馬もそうだ。家族は、捜索願を出しているのだろうか。冬馬の場合、身の回りの物を放置してというわけではない。連絡が途絶えた時点で、家族はその原因と意味を察したはずだ。それを、彼らはどう受け取ったのか。
「刑事さん、お待たせしました」
 不意に呼びかけられ、下平は思考を切り替えて振り向いた。どこか複雑な顔をしている。
「連帯保証人の方の承諾が得られたので、鍵屋にも連絡を入れました。十分ほどで来られるそうです」
「そうですか、分かりました。……どうしました?」
「ああいえ、ちょっと驚いてしまって……」
 管理会社の担当者から親の対応を聞いたのだろう。困惑した様子で視線を泳がせる管理人に、下平と冬馬は顔を見合わせた。
「連帯保証人は、親御さんでしたか」
「ええ、まあ……お聞きになりましたか」
「はい。会社の方からも連絡を入れてもらったので」
「そうみたいですね。合鍵もなく、同僚の方にお任せしているからと言われたらしくて……」
 ここまでくると、本当に親は良親に興味がないのだろう。それでも連帯保証人が親の名になっているのは、他に当てがなくて仕方なくといったところか。署名、捺印してもらうだけなら郵送で十分事足りる。管理人は、信じられないと言いたげに渋い顔をして息をつき、しかしすぐに笑顔を浮かべ、帰宅した住民に愛想よく会釈した。
 それからほどなくして、大きめの工具箱と膨らんだビジネスバッグを抱えた中年の鍵屋が到着した。下平と冬馬が警察手帳と免許証を提示していると、住民らしいサラリーマン風の男が困り顔で管理人室を覗いた。
「あのー、俺の自転車置き場、誰か間違って置いてるみたいなんですけど」
「ええ?」
 自転車を置く場所も指定になっているらしい。乱雑に置かれて、入れられないだの邪魔だのという揉め事を回避するためだろう。管理人が困った顔で下平を見上げた。
「こちらで対処します。構いませんよ」
 むしろその方が助かる。ぴったり張り付いていられると調べる物も調べられない。下平がそう言うと、管理人は眉尻を下げた。
「すみません、ではお願いします。ああ、鍵開けますね」
 すかさずオートロックドアが開き、鍵屋を連れて中へ入る。
 エレベーターを五階で降りると両側に部屋が並び、内廊下が左右に伸びていた。シックで落ち着いた内装は洒落ていて、物件のグレードの高さがことさらに分かる。
 部屋の前に到着すると、鍵屋はシリンダーを見るなり言った。
「ディンプルキーですねぇ」
 防犯性が高く、多くの住宅で採用されている鍵だ。シリンダーから種類が分かるらしい、さすがプロ。そこから鍵屋は、鍵の種類や解錠方法、代金を提示した。その間、冬馬が念のためインターホンを鳴らす。
「分かりました、お願いします」
 下平が了承すると、鍵屋は「では」と言って扉の前で膝をつき、工具箱を開けた。冬馬も初めて見るのだろう、物珍しげに覗き込む。ピッキング用の道具一式からドライバー、ペンチ、スパナ、小型のハンマー、あとは小型スコープらしき物や、見たことのない工具まで様々だ。
 鍵屋の真剣な様子に雑談すら憚られ、ただ黙って鍵が開くのを待つ。時折、警戒心を露わにした同じフロアの住民と顔を合わせたが、冬馬がこれまた如才ない笑みで交わした。特に女性には効果てきめんのようだ。照れ臭そうに会釈をして立ち去る女性の背中を眺めてから、下平は白けた目で冬馬を見やった。
 三十分も経たずに鍵が回った音がして、二人揃って「おー」と感嘆の声を上げる。ディンプルキーは解錠が難しく、鍵屋によっては早々に白旗を上げて鍵を壊すと聞いたことがある。どうやら熟練スタッフだったらしい。鍵屋がドアハンドルを引っ張ると、カチリと音がしてドアがわずかに開いた。
 よし、と安堵の笑みを浮かべた鍵屋に礼を言い、代金は冬馬が支払って領収書をもらった。鍵屋を見送り、さて、と気合いを入れ直して扉を開く。流れ出てきたむっとした空気に思わず顔が歪んだ。
「あ」
 先に入って明かりを点けた冬馬が、シューズボックスの上を見て声を上げた。
「何だ?」
「これ、もしかして合鍵ですかね?」
 鍵が一本だけ放置されている。良親が持ち歩いていたらさてどうしようかと思っていたが、確認が終わった後の施錠は問題なさそうだ。親が拒んだ以上、この状況なら管理人に預けて後日渡してもらうしかない。
「こんな所に置きっ放しか。不用心だな」
「あとで管理人さんに来てもらって、鍵を掛けてもらいましょう」
「だな」
 親の対応に驚いていたのなら常識があると思っていいだろう。
 打ち合わせながら蒸し暑い室内へ上がる。廊下には水回りと部屋が一室。寝室に使っているらしい、扉が開きっ放しだ。廊下の先は、カーテンが開けられたままのかなり広いリビングダイニングだった。明かりを点けて見渡す。モノトーンで揃えられた家具は一般的な家にある物ばかりだが、しかし大きなテレビにローテーブル、光沢を放つL字型ソファは何やら値が張りそうだ。男の一人暮らしならこんなものかという程度には散らかっているけれど、きちんと掃除すると家具が少ない分、少々味気なくなりそうな部屋だ。
 どう見ても一人、あるいは二人世帯向けの間取りだが、家族連れも住んでいるということは、階によって間取りが違うのだろう。
「あまり長居はできねぇ。冬馬」
 下平は上着のポケットから二組の白い手袋を引っ張り出し、片方を冬馬へ放った。
「準備がいいですね」
「何かあった時あちこち指紋が残ってたら怪しいからな。念のためだ」
 苦笑する冬馬に言いながら手袋をはめ、改めてぐるりと見渡す。
「パソコンがないですね」
「お前はパソコンを探せ。急げよ」
「はい」
 冬馬は手袋をはめてすぐに寝室へと向かった。リビングにないのならそちらだろう。
 一方下平は、尻ポケットから良親の携帯を引っ張り出し、保存袋から出してローテーブルに置いた。電源は、入れない方がいいか。もう誰も戻って来ない部屋に、電源の切れた携帯がぽつんと置かれているという光景が、やけに虚しく見える。
 保存袋を適当に折り畳んでポケットに押し込み、振り切るように視線を逸らした。ファッション誌が積まれたテレビボードの前にしゃがみ込む。一番上の引き出しを開けて、思わず脱力した。一発目からとんでもない物が出てきた。なんでこんな所にあるんだ、普通寝室だろう。しかも使った形跡がある。下平は呆れた息を吐き、順に開けていく。
 妙に長いテレビボードには引き出しが六つと、中央にガラス戸が付いた収納棚が二段。テレビ一つ置くのにこんなに長い必要があんのか! と心で悪態をつきながら手早く確認する。何かのコードや充電器、DVD、文房具、女性物の髪飾り、賃貸契約書までが雑多にしまわれ、目ぼしいものは見当たらない。本棚はないし、他に人に見られて困るような物を隠しておける場所はない。やっぱ何も出ないかと諦めかけた時、最後の引き出しで手を止めた。
 絆創膏や消毒液、口紅やコットンの下に、一通の封筒。しかも役所にある窓口封筒だ。契約書類は別の引き出しにしまわれていたのに、何故これだけ。下平は怪訝な顔で取り出し、中から出てきた一枚の紙に目を疑った。発行日は六年前。情報源はこれか。舌打ちをかましながら腰を上げ、早足で寝室へ向かう。
「おい……」
 思わず戸口で足が止まった。
 寝る前に動画か何か観ていたのだろう。ダブルベットの側で、冬馬がノートパソコンを片腕で支えてじっと液晶を見つめている。どこか懐かしげで、しかし痛々しいほどに切なく悲しげな眼差し。
 ふと冬馬が気配に気付いて振り向いた。
「あ、すみません。何かありましたか」
「……そっちは?」
 質問を返すと、冬馬はぎこちない笑みを浮かべて視線を液晶に落とした。
「ざっと目を通したんですが、それらしいものは。動画や音声データなんかも特に。ただ……」
 下平はゆっくりと歩み寄り、冬馬の視線を辿るようにして覗き込んだ。
「これ……」
「はい。祖父です」
 画面には、若い女と一緒に並ぶ着物姿の年配男性が映っている。話には聞いていたが、想像以上に冬馬そっくりだ。
「で、こっちが父と弟です」
 次に映った画像は、中年男性と若い眼鏡の男。しかし驚くほど似ていない。なるほど、確かに他人が見れば疑うのも無理はない。おそらく一緒に映っている女は客だろう。これを良親に見せたということは、冬馬のことも知っているアヴァロンの客だ。この画像が良親にくだらないことを閃かせたのは疑うまでもない。余計なことをと思うが六年前の話で、今も客として来店していない限り、特に親しくなければさすがに冬馬も覚えていないだろう。例え覚えていたとしても、今さらどうこう言うような男でもない。
「冬馬」
 下平がおもむろに封筒と一緒にそれを差し出したとたん、冬馬は瞠目した。
「……なんで、こんな物が……」
 パソコンを受け取り、封筒を冬馬に渡す。
「役所勤めの知り合いか客がいたんだろ。じゃねぇと一般人が他人の戸籍謄本なんざ取れねぇよ」
 冬馬もそれを知っていたからこそ、良親が実家の住所を知っていたことを訝しんだのだ。何を餌に釣られたのか知らないが、確実に守秘義務違反。露見すれば解雇どころか前科が付く。どこの馬鹿だ、と下平は舌打ちをかましながらパソコンの電源を落とした。
「それ、持ってけ」
「いいんですか?」
「構わん、どうせ不正に手に入れた物だ。むしろあると警察が調べた時、お前が疑われる。どう考えても不自然だからな。けど、さっきの画像は残しておいた方がいい。復元されたら一発で俺たちが調べたことがバレる。……悪いな」
 ふ、と冬馬が笑った。
「いえ、別に構いません。話のネタにされたと、言い訳はできますし」
 ありがとうございます、と冬馬は小さく礼を言って、戸籍謄本を封筒に入れた。
「腰に差しとけ、意外とバレねぇから」
「なるほど」
 パソコンをベッドの上に放り投げて、自分の腰を叩いた下平に冬馬は苦笑した。
 冬馬がジャケットを捲り上げて腰に封筒を差す間に、クローゼットを開ける。ハンガーポールに、仕事用らしいスーツとクリーニングのタグが付いたままのワイシャツ、ネクタイ、私服のジャケットやシャツがずらりと並び、収納ケースが一つ設置されている。服を掻き分けて奥を確認し、収納ケースも中を見るが。
「やっぱなんもねぇな。っと、そろそろ出ないとまずいか」
「リビングの方は何も?」
「ああ。USB一つ出てこん。パソコンに何もないなら、もう他にねぇだろうな」
 事件の証拠は収穫なしだが、思わぬ物が回収できた。それだけでも良しとするか。
「管理人さんを呼んできます」
「頼む」
 外した手袋を下平に返し、冬馬は部屋を後にした。
 下平は短く息をつき、寝室を出て廊下の先に見えるリビングを振り向いた。生活感はあるのに人の気配はすでに消え、部屋に籠ったサウナのような熱気が、あれから誰も帰って来ていないことを証明している。改めて、良親はこの世にいないのだと実感する。
 あの日、悪鬼に食われたのは何人くらいいたのだろう。こんな部屋が、他にも京都のどこかにあるのだと思うと、やりきれない。
 下平は、合鍵を持って部屋を出た。

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