第6話

文字数 3,632文字

 部屋に戻ったのが、十二時を回った頃。いつもなら哨戒に出る時間だ。
 怜司は携帯片手に一人長く溜め息を吐き出し、ベッドの端に腰かけた。しばらく手の中の携帯をぼんやりと見つめ、おもむろに操作する。
 この二年、数えきれないほどの連絡を取ってきた「仲間」たち。けれどメッセージの内容は、普通の仲間とは違う。事務的で淡白なものだ。そう、全員が心がけてきた。お互い深く踏み込まないように、もしもの時のために極力接触を避け、メッセージ上の連絡だけは密にして。
 癒えない傷を抱えた者同士、ある者は大切な人のため、ある者は自分のために、二年を費やした。情が湧かないわけではない。だが、今日という日を境にして、新たな人生を歩むのだ。そのための年月だ。
 怜司は「終了。お疲れ様でした」とだけ送信した。すぐに、メッセージ画面に次々と返信が送られてくる。ありがとうございました、お疲れ様でした、と淡白な一言が連なり、退室の通知が表示されていく。全員の退室を確認してから、怜司は履歴を削除した。
 そしてもう一つのメッセージを開く。栄明たちと出会い、真実を暴くと決めたあの時に彼らと約束した。全てが終わるまで連絡はしないと。「すべて終わりました。お待たせして申し訳ありません」。この時間だし、返信はないだろう。
 一つ肩の荷が下りたような安堵感もあるが、一方でいまいち実感が湧かないのも確かだ。ニュースを見れば、実感できるだろうか。
 怜司は、ふ、と吐息のような溜め息をついて、ゆっくりと腰を上げた。机に携帯を置き、椅子を引いて開けた引き出しには、茶封筒。しまう時は必ず封筒に入れているので、樹はわざわざ中を出して見たことになる。
 あいつは、と改めて呆れた声で責めてみるも、彼の過去を知った今では、しょうがないなと思う自分もいる。あれで意外と繊細な奴だ。
 廃ホテルへ行く道すがら、樹は約束通り全て話してくれた。宗史たちへの報告では省かれていたけれど、何故繁華街をうろついていたのか。そのうろつくようになった理由から、寮に入るもう一つのきっかけとなった母親の死まで。
 樹は、そして昴は、香穂の最期を聞きながら何を思っただろう。
 こんな共通点なんかいらないのに。怜司は封筒から写真を取り出して、懐かしそうに目を細めた。


 自分が「視える」体質だと自覚したのは幼い頃で、それを口にしなくなったのは保育園の年長あたりだった。
 大人にとって、幼い子供の中には「視える」子がいるというのは珍しい話でもないらしく、両親も例に漏れなかった。そのため、誰もいない場所を指して「あそこに男の人がいるよ」と言っても、「そう、お母さんには見えないけど、怜ちゃんには見えるのねぇ」と言うだけで、それが別段悪いことだとは思っていなかった。けれど子供はそうはいかない。お前なに言ってんの、なんもいねぇよ、構って欲しいからそんな嘘言うんだろ、と非難され、その時に、言わない方がいいと学んだ。
 成長すれば見えなくなるらしいことは、偶然夜中に聞いた両親の会話で知った。ならば、大きくなれば見えなくなるのだろうと思っていたのに、見えなくなるどころかますます増えた。
 浮遊霊はともかく、邪気や悪鬼が見え始めた頃は、あれが一体何なのか分からなかった。とにかく良くないものだというのは、全身に走る悪寒で察した。関わり合いになると面倒だと。
 成長するごとに目に映る数が増える、人ならざるもの。漂うようにふわふわと浮いているものもいれば、虚ろな顔でぶつぶつと何か呟いているもの、じっとこちらを見つめてくるものもいる。さらに、怒っている人、機嫌が悪い人、落ち込んでいる人などが周囲に纏う、黒い煙。時折、雲のように飛んで来ては黒い煙と融合する黒いものも見た。とにかくやたらと見えるものが多すぎて、何をしていても注意が散漫になる。襲われるとか取り憑かれるとかはなかったけれど、ひたすらに鬱陶しく辟易していた。今思えば、襲われなかったのは、気休めに持ち歩いていたお守りの効果だったのだろう。
 中学の頃、何か対策はないものかとネットで検索をかけ辿り着いたのが、「自分の子供が視える子だった場合の対策法」という記事だった。
 子供の言うことを否定しない、けれど肯定もしない。話をよく聞く、お祓いをしても意味がないなど、親の視点で書かれているため、参考にはならないかと思いつつも読み進めると、「子供が酷く怖がる場合は」の項目に、こんな一文があった。
『その場から離れ、無視をすること』
 だろうな、と思った。それは分かってると突っ込んで、ふと気付いた。無視をする、つまり「いない」ことにするのだ。ならば、「視えない」と思い込むのはどうだろうと。
 ゲシュタルト崩壊を起こしそうなほど常に「俺は視えない」と自分に言い聞かせた努力が実を結び、次第に目に映る光景が変わり、一年を過ぎる頃にはほとんど見なくなっていた。
 そして、見えない光景がすっかり日常になった高校の時に父を、大学の時に母を病気で亡くした。その時ばかりは、一点の穢れもない真っ白な玉が、体から浮き出るのを見た。それはしばらく周囲を漂い、やがて頬ずりをするように顔を掠めると、すうっと滑るように上へと昇り、どこかへ飛んで行った。
 両親とも県外の出身で、しかも互いに実家との折り合いが悪く、ほぼ絶縁状態だった。祖父母たちは、葬儀には参列してくれたものの対応はそっけないもので、特に母が亡くなった時は怜司も大学生だったため、それきり会うことはなかった。つまりは、天涯孤独だ。
 頼る人がいないと分かっていたためか、両親はこつこつ貯金をしており、それなりの額の生命保険もかけていた。おかげで路頭に迷うことなく大学を卒業でき、草薙製薬に就職が決まり、営業二課に配属された。また、それまで住んでいたマンションを解約し、単身者向けのマンションにも引っ越せた。
 香穂とは同期入社だったものの、研修も別グループだったし、知らなくてもおかしくはない。
 初めて会ったのは、入社して半年後の秋口。営業二課と経理部の合同の飲み会だった。
 その頃からすでに香穂は人気があった、らしい。
「桂木香穂ってお前と同期だよな」
 飲み会前に二つ上の先輩の川口(かわぐち)からそう尋ねられたのが、名前を聞いた最初だ。さあ、知りませんけど。と怜司が返すと、川口はとたんに怪訝な顔をした。
「彼女、人気だぞ。いっつも笑顔で感じいいし、気遣いができて仕事もできるって。この半年に三人告って振られたらしい。今は仕事を覚えるのに集中したいからって。ほんとに知らないのか? え、ほんとに? 自分が狙ってるから紹介したくないとか、そういうんじゃなくて、マジで?」
 しつこい。
 本当に知りませんと一蹴すると、川口はあからさまに肩を落とした。どうやら目的はそこにあるらしい。
 本来、大勢とつるむことは嫌いで、一人でいることに苦痛を感じないタイプだ。むしろ一人の方が楽だと思う。だから飲み会は、大学の時はバイトを理由にのらりくらりと逃げていた。だが、社会人になればそうも言っていられない。
 製薬会社の営業相手は、医療機関。MR(医療情報担当者)と呼ばれ、ごく簡単に言えば自社製品の普及に努める仕事だ。安全性、効能、有効性などを伝える。営業は皆そうだが、人の命にかかわる分、取引相手との信頼関係が非常に重要になってくる。笑顔で物腰柔らかく柔軟に、しかし誠実さと知的さを忘れずに。
 昔は大っぴらに接待をしていたが、医療用医薬品製造販売業公正取引協議会によって過剰接待が自主規制され、今では接待禁止となっている。だが、どんな決まりにも抜け道はあるもので、講演会と称して社内で講演会を開き、その後「慰労会」と称した接待をする。手間がかかるのでほとんどなくなったと聞くが、あくまでもほとんどだ。
 一方で、信頼関係を築けば、個人的にゴルフだの食事だのに誘われることもままある、らしい。まだ入社して半年の怜司には今のところお呼びがかかっていないけれど、教育係の横山(よこやま)は何度かそういったことがあったそうだ。彼いわく、自分では行かない高級料亭やイタリアン、フレンチなどを食べられるのはいいけれど、先方の娘との見合いを勧められる場合があるから気を付けろ、とのことだ。それとなく恋人がいると匂わせておくといいらしい。興味があるなら別だけど、とも付け加えた。
 高級料亭もイタリアンもフレンチも見合いも興味がない。仕事ならともかく、個人的な誘いならなおさら断る。しかし、プライベートとはいえ相手が仕事上付き合いのある人物となると、そう簡単な話ではないだろう。
 また、社内での飲み会も同じだ。毎度毎度付き合うことはなかったけれど、あまり断り続けると「付き合いが悪い」と言われて仕事に響く。余計な非難や揉め事は勘弁だ。コツはこちらも笑顔でやんわりと、適度に受けて適度に断る。あの飲み会は、その「適度に受けた」ものだった。
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