第2話

文字数 3,591文字

 追い出しやがった――もとい、心配してくれた昇から無線が入ったのは、それからしばらく経ってからだ。
「業務連絡。冬馬さん、社長(オーナー)がいらっしゃいました。今事務所に向かわれてます」
 わずかに眉を寄せ、冬馬はインカムへ繋がるマイクのスイッチを入れた。
「了解」
 一言返してスイッチを切る。明日あたり連絡が来るかとは思っていたが、まさか今日中、しかもこんな時間に直々にお出ましとは。自然と腹に力が入る。
 冬馬が静かに息を吐いた時、ノックもなしに扉が開いた。即座に腰を上げる。
「お疲れ様です」
「ああ、お疲れ」
 余裕を感じさせる、ゆったりとして低く落ち着いた声。涼しげな切れ長の目にすっと通った鼻筋、薄い唇、真っ直ぐな眉は知的で気の強そうな印象だ。すっきりと整えられた髪に、見るからに仕立ての良い三つ揃えのスーツと磨き上げられた革靴。
 アヴァロンの母体である「株式会社 Q.R.S」の社長、柴崎仁(しばさきじん)だ。
 後ろ手で扉を閉めると、柴崎はついと冬馬へ視線を投げた。無意識に息が詰まる。
 この目は、苦手だ。
「どうだ?」
 端的に問いながらソファに腰を下ろす柴崎に倣うように、冬馬もソファに歩み寄る。
「問題ありません、順調です。何か飲まれますか」
「いや、いい。長居するつもりはない」
 向かいの席に手を差し出され、冬馬は失礼しますと言って浅く腰を下ろして姿勢を正す。柴崎はゆったりと背を持たれて足を組み、膝の上で両手を組んだ。寸分の狂いなく見据えてくる視線を、冬馬は緊張の面持ちで見つめ返す。
 社員登用の時の面接で初めて会ったが、その時から思っていた。彼の目は――。
良親(よしちか)が、姿を消したそうだな」
「はい」
 耳が早い。
「お前が確認に行ったとか」
「はい。懇意にしている刑事さんに相談して、立ち会っていただきました。良親のご家族に立ち会いを拒否されたので、鍵屋に解錠してもらい少し調べましたが、書き置きなどの類は一切見当たらず、携帯は電源が切られ放置されていました。マンションの管理人によると、一昨日くらいから姿を見かけず、車もなくなっているそうです。合鍵があったので、施錠し管理人に渡してあります」
 報告を終わらせた冬馬を柴崎はじっと見つめ、やがて目を伏せた。
「そうか」
 静かに言って、柴崎は瞼を持ち上げた。
「あいつの向上心は、そこそこ買っていたのだがな。残念だ」
 姿を消した理由を追求しないのか。しかも、うっすらと笑みを浮かべた顔は残念そうに見えない。
『執着心は身を滅ぼす。自分にとって障害になると判断したなら、迷うことなく切り捨てろ。いいな』
 店長に就任した時、柴崎はそう言った。この男は、例え誰であれ、使えなくなったらゴミでも捨てるように簡単に手放すのだろう。それが、どれほど手塩にかけた者だとしても。
「冬馬」
 不意に名を呼ばれ、冬馬は顔を引き締めた。
「次の店長候補は、決まったか?」
「……はい」
 間を開けた冬馬に、柴崎は息をついた。
「次の店長候補がいないと言って一年も保留にした挙げ句、来年の四月まで待ってくれと言う。散々待たされたにもかかわらず、私はお前の条件を飲んだんだ。これ以上待つつもりはない。分かっているな」
「はい。分かっています」
「ならばいい」
 柴崎は満足気な笑みを残し、腰を上げた。冬馬も腰を上げて、扉へ向かう彼の後を追う。扉の前で立ち止まった柴崎の横から腕を伸ばして、ドアハンドルに手をかけた。
「冬馬」
 扉を開けながら振り向く。威圧感を孕んだ目に、息を飲んだ。
「お前は、間違えるなよ」
「……はい」
「見送りはいい、仕事に戻れ」
「はい。お疲れ様でした」
 柴崎を見送り、冬馬はするりとドアハンドルから手を離した。
 扉が静かに閉まると、冬馬は息をついてデスクへ戻った。腰を下ろし、開きっ放しのファイルにぼんやりと目を落とす。
 良親は、廃ホテルで言った。お前は贅沢だ、と。収入は良親の方がはるかに多いだろうし、立場も同じだ。ならば良親が言う贅沢とは、おそらく家柄のことだろうと思っていた。そして、手放したものをもう一度手に入れる、とは多分本社異動のこと。
 初めて話を貰ったのは、去年の今頃。しかも柴崎から直接連絡が来た。
 どうしても、店を離れたくなかった。
 けれど、就業規則の内容にもよるが、一般的に人事通達は拒否できないとされている。それは「Q.R.S」にもあてはまり、もし拒否すれば解雇も有り得る。だが、文書による正式な通達でなかったことが幸いした。
 自分勝手だと思いながら、今は店長候補がいないと理由を付けて保留にしたのが、三度。候補がいないのなら派遣すると言われたが、店の状況も知らない人間に任せられないと言って拒否した。だらだらと延ばし、先月の店長会議終了後、とうとう正式に辞令を出すと通告された。
 解雇されても本社異動になっても、どのみち店から離れることになるのなら、せめて近い方にいたかった。
 人事課の人間なら話しくらい聞いている。良親は誰からか聞いたのだろう。そして、社員登用の際に柴崎直々の面談があったことも、次期社長候補という馬鹿げた噂も良親は知っていた。
 良親が噂を信じたのだとしたら、あの台詞の意味が通る。
 華道家元の孫として生まれ、裕福な環境を自ら手放した。にもかかわらず、社長としての道が用意された。そう、良親が考えたとしたら。
 冬馬は背をもたれ、深い溜め息をついた。
 例の不穏な噂が流れて売り上げが減り、しかしすぐに立て直して以降、ミュゲはアヴァロンを越えたことがない。
 だから今の今まで、金と地位(ちから)への嫉妬だとばかり思っていた。けれど、今日の親の対応を知って、本当は違うのではと思った。
 良親は、本当はもっと別のものを欲していて、それは自分と同じものだったのではないのか。それを手に入れるために、金と地位に執着したのではないのか、と。確かに金や地位に群がる輩はごまんといる。だが、そんなもので手に入れたものなど、所詮虚構に過ぎない。
 大学に通っていた時もそうだった。
 桐生という名字は、決して珍しくない。けれど、同じ講義を取っていた同級生に華道サークルに所属する学生がいて、そこから一気に噂が広まった。笑顔の裏に下心を隠して近付いてくる者は後を絶たず、しかし家とは疎遠になっていると言うと、とたんに離れていく。もちろんそんな者たちばかりではなかったが、気持ちは次第に冷めた。家の名がなければ、結局自分にはその程度の価値しかないのだと。
 もし、良親ともっと言葉を交わしていたら――。
 そんな考えが頭をよぎり、冬馬は小さく首を振った。後悔しても、もう時間は巻き戻せない。関係を修復しようにも、良親はもう、この世にいない。
 パソコンに保存されていた画像が、脳裏に蘇る。
 関係を修復するべき相手は、他にもいる。ずっと逃げてきた。罪悪感と後ろめたさから。いい加減、きちんと向き合う時期が来ているのかもしれない。
 現在のマンションを柴崎に勧められた時、咄嗟に疑った。こんな豪華なマンションの一室を家賃も取らずに使えというからには、何か裏があるのではないかと。何故こんなことをしてくれるのかと尋ねると、柴崎は言った。
『遊ばせておくのは勿体ないからな。それに、私は優秀な人材にはそれなりの待遇を心がけている。お前にはそれだけの価値があるということだ。自覚しなさい』
 かつて、祖父も同じようなことを言った。作法や知識を惜しみなく与え、次から次へと着物や花器を新調する祖父は、
『お前は間違いなく私の才能を受け継いでいる。この程度のもので満足するなよ、冬馬。自分の価値を自覚しろ』
 と。
 家の名がなければ人から離れられる程度の自分に、こんな弱い自分に、一体何を期待していたのか。どれほどの価値があるというのか。
 あからさまに向けられる期待は苦痛でしかなく、自分には重すぎた。同じように柴崎からかけられる期待は、あの時逃げた自分への代償なのか。
 期待から逃げた自分を、祖父は決して許さないだろう。だが、祖父の許しを乞うつもりはない。あんたの女癖のせいでと思うし、いっそ生まれてこなければと何度も思った。鏡で自分の顔を見るたびに、繰り返し繰り返し思い出す。祖父への恨みと嫌悪。
 けれど、両親や柊斗(しゅうと)は、祖父の犠牲者だ。だから彼に瓜二つの自分が嫌われても仕方がない。でも、大切に思う気持ちは変わらない。修復はできなくても、せめて自分の気持ちを伝えるくらいはしなければいけない。
 向き合わなければ。手遅れになる前に。
 ファイルの側に置いていたお守りが視界に入り、冬馬は口元を緩めた。子供向けの生地。陽の兄という人の子供のものだろうか。体を起こし、手を伸ばして「厄除」の刺繍を指でなぞる。
 こうするだけで妙に落ち着くのは、本物の陰陽師が作った護符だからか。それとも、これを介してと、そんな気がするからだろうか。
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