第9話

文字数 1,325文字

 書斎のデスクに、一冊のファイルが開いたまま置かれている。しかし宗一郎が目を通しているのは、携帯のメールだ。本文にはただ一言、「完了」とだけ記されている。
「さすがだ」
 満足気に口元を緩め、「了解」と返事を送ってから画面をオフにし、デスクに置いた。
 部屋の電気は点けず、デスクライトの光に灯されたファイルに視線を落とす。しばらく眺め、やがてゆっくりと閉じた。
 腰を上げ、両腕を伸ばしてデスク前の丸窓障子を開ける。書斎の前は裏庭だ。デスクライトの明りを消して椅子に座り直すと、ゆったりと背にもたれた。
 先代である父が和室から洋室にリフォームし、そのまま受け継いだ書斎には、この丸窓一つしかない。霊符や護符を描く際に気が散らないようにと配慮した結果らしい。そのため、明かりを消すと部屋はほぼ闇に包まれる。唯一丸窓から差し込む今夜の月の光は、少々頼りない。ぼんやりと宗一郎の顔を照らし、闇へと飲み込まれていく。
 袖口に腕を交互に入れると、椅子が小さく軋んだ音を立てた。
 視線の先は、ひっそりと佇む、垂直に伸びた一本のヒメシャラの木。白い月明かりに照らされ、鮮やかな緑の葉の隙間に小ぶりの白い花をいくつも咲かせている。暗闇の中、丸窓越しに映る光景は一幅の絵のようだ。
 二人の子供がまだ幼かった頃、夏美(なつみ)が「裏庭が寂しいのよね」と言って植えたものだ。夏は白い花を咲かせ、秋は真っ赤に紅葉し剪定も必要ないため、自宅のシンボルツリーとして人気らしい。だからと言って裏庭に植えてどうするんだと思ったが、桜がことさら気に入ったらしく、度々ここに来ては眺めている。書斎に籠ることが多い父としては大歓迎だ。ちなみに、ツバキ科に属しており、椿の名の由来にもなった。兄妹仲が良いのは親として嬉しい限りだが、左近の危惧が現実にならないかと少々不安でもある。
 植えた時は細く頼りなかったヒメシャラの木は、子供たちの成長と共に大きくなった。高さはもう13メートルほどあるだろうか、幹は太く、すべらかな赤褐色の樹皮に覆われている。
 宗一郎は、ゆっくりと瞼を閉じた。
 二十歳と十七歳――もう、そんなに経ってしまったか。
 二人を初めて抱いた感覚は、まだ腕にしっかりと残っている。小さな体から上がる、空気を震わせるほどの大きな泣き声。まるで自分の生を主張しているようだった。腕に収まるほど小さいのに、妙に重いと感じた。あれは、小さな体に宿る魂のせいだろうか。
「私も、年を取るはずだ」
 誰に言うともなく呟き、声を殺して笑う。と、携帯が振動した。
 体を起こし、手に取った携帯の液晶を確認して通話する。
「私だ」
 先程閉じたファイルの表紙に視線を落として、相手の言葉に耳を傾けた。端的な二言三言。
「分かった。進めてくれ」
 いつもならばこれで終了だが、今夜は相手がさらに付け加えた。
「了解した」
 続いた言葉に短く返すと、すぐに通話が切れた。携帯をデスクに置き、再度背をもたれる。
 再び視線を丸窓へと投げた宗一郎の顔に、不敵な笑みが浮かんだ。
「言われずとも、葬ってやるさ――まとめてな」
 ヒメシャラの茂った葉と白い花が、さわりと音を立てて揺れた。
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