第1話

文字数 5,463文字

 あまり眠れず、少し寝坊した。午前五時半。
 大河(たいが)はぼんやりする頭を抱えて身支度を済ませた。頭だけでなく、心にも靄がかかったようにすっきりしない。
 (かい)を隗だと認識した時の感情の正体が何なのか。分かっていてごまかそうと、否定しようとしているからだろうか。けれど、受け入れてしまうと自分が自分ではなくなる気がして――。
 つい昨日の昼間、隗と再会した時の自分はどうなるか分からないと悩んでいた。弘貴(ひろき)の言葉で吹っ切れたのに、もうこれだ。
 扉のハンドルに伸ばした手を引っ込める。両手を持ち上げて目を伏せ、勢いよく自分の頬に打ち付けた。パン、と乾いた音が部屋に響く。
 香苗(かなえ)の報告は、あの時のことは省かれていた。気を使ってくれたのか、それともよほど怖かったのか分からないけれど、確実に気付いたはずだ。このままでは皆に心配をかけるし、訓練で怪我をする。やらなければいけないこともたくさんある。それに、(すばる)美琴(みこと)に霊符を描いてもらった時も思った。自分でなんとかできるようにならなければ、と。
 これは、自分自身の問題だ。
「しっかりしろ。自分で決めたんだろ、甘えんな」
 いつか省吾(しょうご)に言われた言葉を言い聞かす。甘えるな。
「よし」
 大河は表情を引き締めて扉を開けた。
 リビングの扉を開くと、思わず足が止まった。弘貴と春平(しゅんぺい)と香苗と夏也(かや)が、(いつき)怜司(れいじ)から独鈷杵の訓練を受けている。四人一列に並び、揃って独鈷杵を握り締めて目を閉じているが、今のところ誰の独鈷杵も変化はない。縁側には風呂敷が置かれ紫苑(しおん)が腰を下ろしているけれど、(さい)の姿が見当たらない。
 ピンと張り詰めた空気の中に、今日も今日とて元気な蝉や雀の鳴き声、車の走行音や人の声が届く。
 集中している皆の邪魔をしてはいけない。ゆっくり静かに縁側へ出て、大河は紫苑の隣に腰を下ろした。
「おはよう」
「ああ」
 小声で挨拶をすると、紫苑も小声で返してきた。
「柴は?」
「部屋に下がられた。日記をお読みになるそうだ」
「ああ……」
 そっか、と呟いて弘貴を眺める大河を一瞥し、紫苑も庭へ視線を戻した。
 原稿用紙に書かれていてかなりの分厚さだったが、宗一郎(そういちろう)は読み終えただろうか。何か分かったかな、と頭の隅で気にかけた時、弘貴から降参の声が上がった。
「あ――――っ、限界!」
 詰めていた息を盛大に吐き出した弘貴につられるように、春平たちも息を吐く。張り詰めた空気が緩み、大河もつい息を漏らした。
 一方、呆れた溜め息をついたのは樹だ。
「弘貴くんは集中力が切れるの早すぎ。それに力みすぎ。霊力を注ぐのに力は関係ないって言ったでしょ」
「むしろ逆効果だな。程よく力を抜いてリラックスしろ。お前、擬人式神行使できるだろ」
 樹と怜司からダメ出しを食らい、弘貴は仏頂面でぼそぼそとぼやいた。
「俺、擬人式神の数一番少ないし。こういうの向いてないのかなぁ」
「じゃあ諦める? 僕たちは別に構わないよ」
「外されるのは弘貴だからな」
 こんな時いつもは挑発的な顔をするのに、今日は至極真剣だ。本気度が窺える。弘貴がぐっと声を詰まらせた。唇を尖らせ、拗ねた顔で二人を睨む。
「諦めるわけないでしょ。やりたいからやってるんです」
「じゃあもっと集中して。あと、いちいち叫ばない。春くんたちの集中力も切れるから」
「はい、すみません……」
 バツが悪そうに俯いた弘貴を置いて、怜司が言った。
「香苗と夏也は問題ない。その調子で続けてくれ」
「はい」
 声を揃えた香苗と夏也は顔を見合わせ、嬉しそうに頷き合った。
「春、時々気が逸れるな。自分で立て直せるのは感心だが、その分疲れも増すから持続力をつけろ」
「はい」
 力強く頷いた春平に怜司が頷き返したところで、樹が縁側を振り向いた。
「あ、大河くん起きた?」
「おはようございます。すみません、寝坊しました」
「いいよ。弘貴くんたちの訓練できたし。柔軟してて、僕ちょっと休憩するから」
「はい」
「弘貴くんたちは終わり。あとは自主練して、続きはしげさんたちに教わって」
 はい、と声を揃えて少し気が抜けた様子で縁側へぞろぞろと足を向ける。
「紫苑、手合わせいいか」
「ああ」
 靴を履いた大河と怜司に頼まれ草履をつっかけた紫苑の二人と、弘貴たち四人が入れ替わる。
 紫苑と手合わせをするなら、庭に出ない方がいいかもしれない。大河は縁側の正面から端に移動し柔軟を始めた。香苗と夏也は朝食の支度があるためそのままシャワーへ行き、樹は「糖分、糖分」と不気味に呟きながら冷蔵庫へ吸い寄せられて行った。限界が来る日も近そうだ。
 一方、弘貴と春平は倒れ込むように縁側に腰を下ろした。
「集中力って、どうすりゃ上がるんだ?」
 汗を拭きながらしかめ面でぼやいた弘貴に、春平がペットボトルの蓋を捻りながら言った。
「それなんだけど、弘貴ってゲームやってる時はかなり集中してるよね。声掛けても気付かない時あるし」
「んー、まあそうだけど……。でもゲームとこれって一緒じゃねぇだろ?」
「同じようなものじゃない? 独鈷杵に集中すればいいんだから。感覚を全部画面に集中するようなものだよ」
 さすが春平だ。大河は屈伸をしながら心でうんうんと頷く。かくいう大河も、賀茂家で初めて具現化した時は例の漫画の思い出に浸っていた。感覚どころか意識も完全に思い出の彼方に飛ばされていたのだ。
「感覚全部を、画面に集中……」
 弘貴が手の中の独鈷杵に目を落とし、ぽつりと呟いた。
「じゃあ、目ぇつぶるより独鈷杵見てた方がいいのか……?」
 ぶつぶつ言いながら模索し始めた弘貴を横目で見て、春平が微かに微笑んだ。
 大河は地面に座り込み、足を開いて右へ左へと体を倒す。基本は確かに大切だが、人それぞれやりやすさや、やりにくさがあるのは仕方がない。集中すると言ったら目を閉じて視界を塞ぐイメージだが、弘貴にはどうやら合わないようだ。集中する「対象物」が視界に入っていた方がやりやすいのかもしれない。
 人それぞれだなぁ、と感心しつつ、始まった怜司と紫苑の手合わせを見やる。
 一礼のあと、先制攻撃を仕掛けたのは怜司の方だ。真っ直ぐ紫苑に向かって右足で回し蹴り。それを紫苑は後退してあっさり避け、足を踏ん張って体勢を立て直しつつ右腕を大きく水平に振った。当たれば怜司のみぞおちに直撃だ。しかし怜司は素早くしゃがんでそれをかわし、低い体勢のまま紫苑の背後へと回り込んだ。そのまま足払いの体勢に入り、右足を紫苑の足を狙って思い切り振った。それをひょいと跳ねてかわしながら反転し、反動で一回転して立ち上がりすぐさま繰り出した怜司の拳を腕で防いだ。そのまま連続して襲ってくる拳を難なくかわしたと思ったら、右手で拳を捕まえたまま半回転して怜司をぶん投げた。
「げっ」
 大河は思わず動きを止めて驚きの声を上げた。分かってはいたが、昨日の右近同様、なんて力だ。あれでもかなり加減しているのだろう。
 怜司は靴底で数メートルほど地面を滑り、止まったとほぼ同時にまた地面を蹴った。
 動きは追えるが、同じ動きをしろと言われたら絶対に無理だ。二人ともどういう運動神経をしているのだろう。そもそも紫苑はあの体勢からどうして足払いが来ると分かったのか。後ろにも目が付いているのだろうか。
「ケーキ食べたい……チョコでもクッキーでも、いっそグミでも……ああ、大福もいいなぁ……」
 幻覚でも見ているのかと思うような虚ろな目をした樹が、スポーツドリンク片手に戻ってきた。こんな人が怜司以上に強いなんて信じられない。大河は白けた顔で柔軟を再開した。
 それから総復習を終え、独鈷杵の具現化を繰り返し、体術訓練を受けている間に夏也と香苗がシャワーから戻り、双子を連れた(しげる)たち残りの成人組が揃って下りてきた。挨拶が飛び交う中、最後に姿を見せた美琴は、珍しくバツが悪そうな顔をしている。
「そろそろ終わろうか」
 樹の終了の声に大河は構えを解いた。
「ありがとう、ございました……」
 息も絶え絶えに礼を告げると、樹はよろしいと言って軽く息を整え縁側に向かう。あれだけ動いたのにあまり疲れているようには見えない。化け物かこの人。大河は深く息を吐き、そのまま締めの柔軟に入る。
 一方、怜司と紫苑も手合わせを終わらせた。一礼し、体全体で呼吸を繰り返しながら千鳥足で縁側に倒れ込んだ怜司とは反対に、紫苑は涼やかな顔をして何ごともなかったように縁側に腰を下ろした。すると(あい)(れん)がすぐさま駆け寄り背中にしがみつく。柴を探してきょろきょろと周囲を見回す双子に、紫苑が「部屋にいらっしゃる。邪魔をしてはならぬぞ」と言い聞かせ、二人一緒に膝に乗せた。茂がおじいちゃんなら、紫苑はやっぱりお父さんだ。
 いやでも年だけでいうなら紫苑の方がおじいちゃんになるよな。おじいちゃんっていうか先祖レベルだけど。と大河がくだらないことに頭を使っていると、美琴が縁側に出てきた。その後ろでは、茂、昴、(はな)、夏也、香苗が、こちらをちらちらと窺いながら落ち着かない様子でうろついている。昴が椅子に足の指をぶつけて悶絶した。
「おはよう、美琴ちゃん。体調どう? 何ともない?」
 縁側の前で具現化の自主練に励んでいた春平が声をかけた。無言でこくりと小さく頷いた美琴を、弘貴が横目で見やる。
「……おはよう」
 ぼそりとぼやくような挨拶に、
「……おはよう」
 と美琴も似たような挨拶を返す。二人の間に、何とも言えない微妙な空気が流れた。
 倦怠期のカップルか。溜め息をついたのは大河だけではない。縁側でペットボトルを煽っていた樹と瀕死の怜司、挙動不審な茂たち成人組もだ。藍と蓮は小首を傾げ、紫苑の膝から弘貴と美琴を交互に見比べている。昨日の今日だけに、少しは歩み寄ってくれるかもと思っていたのだが、そう簡単ではないらしい。
 二人の間の溝が埋まる日は来るのだろうか。大河はそんなことを考えながら柔軟を終わらせて立ち上がった。と、
「あ……」
 美琴の口から小さな声が漏れた。思わず動きを止めて様子を見守る。両手を握り締めて視線をあちこちに泳がせ、唇を一文字に結ぶ。対して弘貴はじっと美琴を見つめたまま動かない。やがて、美琴が意を決したように視線を上げた。
「あ、りがと……」
 なんとか聞き取れる程度の小声で言うや否や、顔を真っ赤にして俯いた。それを見た弘貴が嘆息し、おもむろに靴を脱ぎ始めた。
「どういたしまして。春、シャワー行こうぜ」
「え、ああうん」
 弘貴のそっけない態度にうろたえつつ春平も続く。大河からしてみれば、顔を真っ赤にして礼を言う美琴は可愛らしく思うのだが、弘貴にはどう映ったのだろう。角度的に美琴の表情は見えたはずだが。そんなことを思いながら縁側に向かおうとした時。
「何ともなくて良かったな」
 すれ違いざま、弘貴がぶっきらぼうにそう付け加え、大河は苦笑した。もっと笑顔で顔を見て言ってあげればいいのに。
 ずかずかとリビングを突っ切ろうとした弘貴に、華たちがはたと我に返り大慌てで散った。
「さて朝ごはんの支度しなくちゃ」
「今日は洋食にしましょうか」
「き、今日の新聞はどこかなぁ」
「しげさん僕が取ってきますっ」
「あっ、昴さんここに、ここにあります!」
 バレバレなのに往生際が悪い人たちだ。大河は笑いを噛み殺し、改めて縁側へ向かう。和やかのなの字もないやり取りだったが、二人の関係と性格からすれば、大きく前進したと言ってもいいのだろう。
「怜司くん、生きてる? お風呂行こうよ、汗臭いよ」
「……ここで寝たい」
「処分中だからって飛ばしすぎだよ。そう簡単に僕に追い付けるわけないじゃない」
「絶対にその鼻っ柱へし折ってやる」
 大河は、物騒な会話を聞きながらこっそりとやれやれ顔を浮かべて靴を脱ぎ、縁側に片足を乗せた。すると。
「――え?」
 突然がっしりと肩を掴まれた。肩に目を落とすと、そこには自分よりはるかに小さくて可愛らしい手が乗っかっていた。
 大河は手から腕に沿ってゆっくり視線を上げ、瞬時に肩を跳ね上げた。美琴が冷ややかな目でこちらを見下ろしている。
「ちょっと、付き合いなさいよ」
 鋭い眼光を放つ今の美琴に「どこに?」とか「それって告白?」などとボケてはいけない。すごすごと縁側に上げた足を下ろして靴を履き直し、はっと気付く。
「いやいやいや、駄目だよ美琴ちゃん。ちゃんと病院行ってからじゃない、と……っ」
「うるさいわね。少しくらい平気よ」
 さっさと靴を履いた美琴に腕を掴み直されて庭へと引き摺られる。あれいいの? と暢気に怜司に尋ねる樹と、我関せずで双子と戯れる紫苑が憎たらしい。
「ちょっ、誰でもいいから止め……っ、うわっ!」
 ぽいと放り出すように腕を放されたとたん、回し蹴りが飛んできた。ぎりぎりで腕で受け止めると舌打ちをかまされた。舌打ちしたよこの子! 心で悲鳴を上げる大河へ、間髪置かずに拳が襲いかかる。
「今の大河くんじゃ、美琴ちゃんは止められないよねぇ」
「奇跡でも起こらない限り無理だな」
「えっ、ちょっと何やってるんだい!」
「美琴ちゃん、まだ動いちゃ駄目だよ!」
 のんびり眺める樹と怜司の背後から、気付いた茂と昴が大慌てで縁側に駆け寄って庭へ下りた。騒ぎに驚いた華と夏也と香苗が、キッチンから飛び出してきてぎょっと目を剥く。
「やだ、何やってるの美琴!」
「美琴ちゃん、まだ静かにしてなきゃ……!」
「私も行きます」
「誰でもいいから早く止めて――――っ!」
 華と香苗の狼狽した声と夏也の冷静な声を、大河の悲痛な叫び声が掻き消した。
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