第8話

文字数 5,037文字

 熊田と佐々木は下り斜面へと足を向けた。一面枯れ葉に敷き詰められ、折れた枝が転がり雑草が茂っている。まだ濡れているせいで、踏んだ部分がわずかに沈んでじわりと雨水が染み出し、雑草がスラックスの裾を容赦なく濡らす。
 滑り落ちないようにゆっくりと、慎重に足を進める。目的の小屋は木造で、屋根が剥がれ、一部にビニールシートで覆われている。手前に枯れ枝や倒木、あるいはどこかに使われていた木材だろうか、綺麗に積み上げられており、左の壁には根元から倒れかけた木が寄りかかっていた。
 目で合図をし、熊田が左、佐々木が右へ回り込む。
 二枚の板壁が剥がれて、横に立てかけられていた。その隙間を、寄りかかった木が人目から隠すように枝を伸ばし、葉を茂らせている。ちょうど目の高さだ。
 熊田が携帯のライトを付けると、向こう側も隙間があったのだろう、眩しい光がこちらを照らした。熊田もライトを照らしながら中を覗き込んだ。とたん、鼻を刺激したすえた臭いに顔を歪ませる。
 この臭いは。
 だが、何か他の臭いも混ざっている。ごく身近なものだ。何だ、と記憶を探り、しかし思い出す前に明かりが人の姿を捉えた。部屋の左端。怯えるように、毛布にくるまった男が一人、膝を抱えてうずくまっている。
「あんた、ここで何してるんだ?」
 刺激しないように、できるだけ平静を装って声をかける。男はゆっくりと、至極ゆっくりと顔を上げ、眩しそうに目を細めた。ライトを手前に移動させ、熊田はさらに促す。
「ちょっと聞きたいことがあるんだ。出てきてもらえないか」
 男はしばし熊田を見上げ、やがてのっそりと腰を上げた。警察だと思っていなくても、神社か自治会の関係者くらいには思っているだろう。男はくるまっていた毛布を無造作に床に落とし、気だるそうに背を向けた。佐々木の方に扉があるようだ。
 熊田は斜面の上を振り向いた。妙子がバッグの持ち手を両手で掴み、不安そうな顔でこちらを見下ろしている。無言で頷くと、妙子は目を丸くして一歩足を踏み出した。ちょっと待て、という声を飲み込んだ。代わりに両手を突き出し、待ての体勢を取る。妙子は足を止めて硬直した。片手だけを妙子に突き出した恰好のまま、急いで佐々木の方へ回り込む。
 立てつけの悪い扉がガタガタと揺れながら開き、男が俯いたまま出てきたところだった。とたんに襲った強烈な臭いに、佐々木が顔を歪めて一歩引いた。男自身だけではなく、小屋の中からも流れ出てきたその臭いに、やっと思い出した。すえた臭いに混ざっているのは、アンモニアの臭いだ。小屋の中で用を足していたのだろうか。
 男は小屋から出ると、崩れ落ちるようにしゃがみ込み、扉の背を預けた。
 俯き、がっくりと肩を落としたその様子を見て、熊田は妙子に手招きをした。この様子では暴れたりしないだろうが、妙子の姿を見られるのはまずい。だからと言って上からではさすがに話が聞こえない。熊田は唇に人差し指を当てて、静かにの合図をし、木材が積まれた場所を指差した。あそこからなら男に見られる心配はない。
 妙子は何度も頷きながら、足元に目を落として慎重に斜面を下りてきた。地面が濡れていて助かった。乾いていたら、確実に枯れ葉を踏む足音が響いている。
 妙子の姿が影に隠れたことを確認し、熊田と佐々木は顔を見合わせると、改めて男を見下ろした。
 着古した服や靴は、もう元の色が分からないほど汚れていて、穴が開き、至るところがほつれている。伸び切った髪は何年も櫛を通していなさそうなほどぼさぼさで艶もない。肌は焼けているのか垢なのか分からないほど真っ黒で、手足は棒切れのようにやせ細っている。
 まずは手始めに当たりさわりのない話から、と思っていたら、先に男の方が口を開いた。
「あんたら、警察か……?」
 何とか聞き取れるほど弱々しい、酷くかすれた声。
「そうだ」
 肯定すると、男は長く息を吐き出した。
「俺を、捕まえに来たのか」
 熊田と佐々木は、揃って眉根を寄せた。自白とも取れる台詞。しかし、ここでそうだと言うわけにはいかない。
「お前、名前は? 何をした?」
 尋ね返すと、男はゆっくり顔を上げた。目元は窪み、頬はこけ、唇は乾燥し、出目金のように飛び出した目は虚ろで、微塵の生気も見えない。指名手配写真とは別人のような風貌だ。
 男はじっと二人を見上げ、ぼそりと言った。
「岡部、安信。……指名手配されてる」
 即座に佐々木が携帯を操作した。指名手配者リストは、ネットで閲覧できる。あくまでもふりだが。自ら指名手配されていることを喋るなんて、六年もの逃亡生活に疲れ果てたか。
 佐々木が検索するふりをしている間に、熊田は健人と昴の写真を内ポケットから取り出して、岡部の前にしゃがみ込んだ。
「この二人を探している。見たことないか?」
 岡部は写真に目を落とし、首を横に振った。まあ、結果は分かっている。さて次だ。熊田は腰を上げ、佐々木を見やった。
「分かったか?」
「はい。過去に窃盗で三度の逮捕歴があり、六年前、左京区で起こった事故で全国に指名手配されています」
「どういう事故だ」
「被害者は土御門栄晴。加害者は藤本剛(ふじもとつよし)。現場は左京区の国道367号線。被害者の車に加害者の運転する車が後ろから激突し、カーブを曲がり切れず、被害者の車は崖の下へ転落。加害者の車は建設業者が所有する残土置き場の土の山に突っ込んだそうです」
 携帯には飼い猫の写真が映っている。それを見ながら、佐々木は事件の概要を淡々と「読み上げた」。感情を殺した声とは裏腹に、表情はとても険しかった。
「その事故、聞いたことあるな。六年前の左京区の国道……、ああ、あの事故か。かなり酷い事故だったって」
 熊田は、思い出したふりをして岡部を見下ろした。
「確か、加害者の方は同乗者がいたんだったな。それがお前か」
 険しい声色で問うた熊田に、岡部は小さく頷いた。佐々木が続けた。
「司法解剖の結果、藤本の体内から睡眠薬が検出されたらしく、自殺目的として捜査されました。しかし藤本の知人らは、そんな様子は見られなかったと証言しています。むしろ、どこか浮かれた様子だったと。ただ、私物から睡眠薬が発見され、結局死亡事故として扱われています」
「だが、同乗者は行方不明か」
「はい」
「――岡部」
「お、俺は……っ」
 鋭い声で名を呼ぶと、岡部は俯いたまま、喉の奥から苦しげな声を絞り出した。
「俺は、やめた方がいいって言ったんだ……っ、絶対に怪しいって。それなのに、あいつが……っ」
 うう、と唸り、岡部は爪まで黒く汚れた両手で顔を覆った。
「……何があった」
 静かに尋ねると岡部は顔から両手を離し、腹の辺りの服を強く握りしめた。何かに怯えるように、手が小刻みに震えている。
 やがて、唇に重りでもぶら下げているのかと思うほど、じわじわと口が開いた。
 藤本はギャンブル好きで、家族に内緒で借金をしていたことが発覚し離婚したそうだ。そこから酒に溺れ、仕事も解雇され、ホームレスになった。
 誘ったのは、藤本の方だったらしい。藤本によると、空き缶を拾い集めているところに一人の男に声をかけられ、事故に見せかけて殺して欲しい人物がいると持ちかけられたのだと言う。もちろん初めは断ったそうだ。しかし、一千万という報酬に目が眩んだ。
 決行日は一週間後。車を盗み、指定された場所に行って指定された車にぶつかればいい。ただそれだけだと藤本は言った。けれど、殺害するとなるとこちらも相当なスピードでぶつからなければいけない。自分たちも無事ではすまない。それに、車を盗めばその分足が付く可能性が高くなる。そう言って、岡部は藤本を止めたらしい。だが彼は、少しのリスクは承知の上だ、成功すれば一千万もの大金が入る。あとは海外にでも逃げればいいと言って耳を貸さず、報酬は二人で折半と約束をした。
 岡部もまた、その額に目が眩んだらしい。
 車を盗む場所の下見の移動費などとして受け取っていた十万で、岡部と藤本はまず身なりを整えた。公共機関を使うには、薄汚いままだとどこに行っても敷地に入ることさえ拒否されるし、何より怪しまれる。また意外だったのは、小銭が入ればすぐギャンブルに投資していた藤本が、珍しく使おうとはしなかった。一千万という額は、目先の欲より魅力的らしい。
 どこに行くのかと尋ねると、藤本は言った。
「最近はどこに行っても防犯カメラがある。でも、未だに田舎の方は防犯意識が薄い。それに、指定された場所から近い方がいいだろ」
 と。仲間内で小銭をかけた賭けをした時と同じ、充実感に満ちた目をしていた。
 向かったのは、左京区の国道367号線が走る小さな町だった。どうやら観光名所となっているらしい寺があったため、これ幸いと観光客を装い、一日かけて見て回った。両側を山に挟まれ、町の中を川が流れ、田畑に囲まれたのどかな町。住宅よりも田畑の面積の方が大きく、これなら夜にもなればほぼ暗闇に包まれるだろう。
 かつて犯した罪を思い出し、罪悪感に襲われた。
「なあ、藤ちゃん。やっぱりやめないか」
 そう言った岡部に、藤本は不快気に顔を歪めた。
「もう貰った金に手ぇ付けちまったんだぞ。腹決めろ」
 今さら何言ってんだ、とぼやいた藤本に、岡部は何も言い返せなかった。確かに、貰った金に手を付けてしまった。もしやめるなどと言えば、殺人を企てるような人間だ、何をされるか分からない。それに、成功すれば五百万が手に入るのだ。
 藤本が目星を付けたのは、いかにも町の修理屋さんといった感じの、古い看板を掲げた小さな自動車修理工場だった。国道から脇道に入った先にあり、そう広くはない敷地の奥に小ぢんまりとした事務所、右手にトタン屋根の作業場、左手に車が二台停まっていた。店主の物か代車だろう。そして敷地の入口には、両端に金属製のポールが地面に埋め込まれ、片方には先端から垂れた鎖が地面でとぐろを巻いていた。これを門扉の代わりにしているらしい。周囲は畑に囲まれ、裏手には、倉庫にしては立派な平屋が建っている。だが、どう見ても手入れがされていない。かつては店主がここに住んでいたのかもしれない。今は、おそらく一帯に広がる畑の向こう側に見える、大きな家に住んでいるのだろう。塀で囲まれていて向こうからは絶対に見えない。また、国道にあると思っていた防犯カメラは、ないと言っていいほどその数は少なく、むしろ探す方が難しいくらいだった。
「ここが一番の候補だな」
 藤本はにやりと口角を上げて、そう言った。
 それから必要なものを買い揃えつつ、確認のために一度だけ町を訪れた。いくつか上がった候補も様子を見て回ったが、結局あの修理工場にしようということになった。
 その間に藤本は、男と何度か会っていたようだった。岡部を仲間にしたことを報告し、対象となる男の写真、車種やナンバー、おおよその時間を伝えられ、当日の動きを確認していたのだと言う。男の正体やどこで会っていたのか、また対象の男がどんな人物なのかは、あえて聞かなかった。
 そして当日。月の光が明るい夜だった。
 あの町は交通が不便だ。夕方頃に町へ入って山の中で時間を過ごし、午後十一時を回った頃に自動車整備工場へと向かった。車はずいぶんと古い年式の普通自動車で、難なく盗み出せた。
「俺は、高校の時に知り合いの金物屋でバイトしてたんだ。昔はそういうところでスペアキーを作ってただろ。高校を卒業して、本格的に鍵のことを教わった。今の鍵は構造が複雑で俺には無理だけど、その工場の事務所は、まだ古いタイプの鍵を使ってて、簡単に開けられた」
 それもあの工場に決めた理由の一つだと、岡部は言った。
 2003年、ピッキングによる被害が社会問題となり、通称「ピッキング防止法」が制定され、開錠道具が業者で使うなどの正当な理由以外での所持が違法となった。しかし、昔ながらの鍵ならば、本格的な道具がなくても知識がある岡部なら開錠など朝飯前だっただろう。
「前も、その知識と技術を悪用したのか」
 熊田が尋ねると、岡部は小さく頷いた。
「藤本がお前を仲間にしたのも、それが理由か」
「多分。ホームレスになった理由を聞かれた時に、話したことがあるから」
 熊田は眉間に皺を寄せ、佐々木は遠慮なく呆れた息をついた。もう説教する気にもなれない。
「分かった。それで」
 先を促すと、岡部は一瞬顔を歪めたが、素直に続きを口にした。
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