第4話

文字数 1,893文字

 科捜研に泊まり込む際の寝る定位置は、デスク下だ。床も硬く寝心地は非常に悪いが、狭い空間が落ち着くためよく眠れる。
 そのデスク下で北原からの電話を切った近藤は、溜め息をついた。
「しょうがないなぁ」
 首を鳴らしながらぼやき、面倒臭そうに体を起こした。のっそりとデスク下から這い出ると、毛布を椅子の背もたれに引っ掛けて、ひとまずぬるい水を喉に流し込む。猫背を伸ばすと背骨がポキポキと音を立てた。爆発したような髪を適当に手櫛で整え、科捜研のトレードマークである白衣を羽織る。鑑定中は邪魔になる職員証をデスクから発掘して一応首にかけ、近藤は個室から出た。
 真ん中に設置されている長机で、他の研究員たちと一緒に茶をすすっていた所長の別府(べっぷ)が振り向いた。
「ああ、近藤くん。眠れた?」
「うん。僕ちょっと出てくるね。すぐ戻るよ」
「え、ちょっと近藤くん?」
 依頼が溜まってるんだけどー! と別府の悲痛な叫び声を扉で遮り、近藤は白衣のポケットに手を突っ込んだ。
「余計なことしてくれるよねぇ」
 ぼそりと小さくぼやき、エレベーターホールへ向かう。数人と乗り合わせ、各々が目的の階床ボタンを押す中、最上階を押した近藤に署員らが怪訝な視線を投げた。
 次々と降りて行く署員らを見送り、最上階に到着すると近藤は足を踏み出した。
 ここには、会議室や応接室の他に京都府警察本部・本部長室がある。
 廊下の突き当たりにあるのは、立ち入りを拒むように閉じた重厚な扉。だが近藤は、一切躊躇もノックもせずにその扉を開けて、体をくぐらせた。
 光沢を放つ応接セットに出迎えられ、その向こう側には窓を背にこちらを向いた高級なデスク、旭日章(きょくじつしょう)が刺繍された巨大な旗、重々しい書棚、部屋の隅には観葉植物、壁にはモノクロの写真が飾られている。
 突然開いた扉を振り向いたのは、デスク前で手帳を広げた本部長秘書の男と、近藤を見るなり目を剥いた迫田文彦(さこたふみひこ)本部長だ。
「おい、なんだお前」
 手帳を閉じ、険しい顔で歩み寄った秘書に、近藤は下げていた職員証を掲げた。
「見て分かるでしょ。科捜研の研究員だよ」
 しらっと答えた近藤の目の前で、秘書が足を止めて立ちはだかる。
「研究員が何の用だ?」
「あんたにじゃないよ。用があるのは後ろの人」
 秘書越しに迫田を見やり、近藤は口元にうっすらと笑みを浮かべた。
「本部長はお忙しい、アポイントも取らずに」
「構わん。お前は席を外せ」
 どこか緊張した面持ちの迫田に遮られ、秘書は驚いた顔で振り向いた。
「しかし……っ」
「いいから外せ!」
 今度は鋭く遮られて、秘書は渋面を浮かべた。一度近藤を睨み付けると、苦々しい顔のまま迫田に会釈をし、部屋を出た。
 扉が閉められた音を聞いてから、近藤は白衣のポケットに手を突っ込んでゆったりと足を進める。
「あんまり横暴だと、そのうち刺されちゃうよ?」
「何しに来た」
 軽口に付き合う気はないらしい。おどけるように肩を竦め、近藤はソファの肘掛けに腰を下ろした。あからさまな警戒を向けられてなお、その口元には笑みが浮かんでいる。
 近藤は迫田へ真っ直ぐ顔を向けて、口を開いた。
「ちょっと頼みたいことがあってさ」
 迫田が無言で眉をひそめた。
「鬼代事件のことは知ってるよね」
「……右京区の神社で起こった事件か」
「そう」
 近藤は浮かべていた笑みを収め、言った。
「その事件を担当してた紺野誠一って刑事が捜査から外された。今すぐ戻して」
 思いもよらなかった「頼みごと」に、迫田はますます眉間に皺を寄せる。
「何かそれなりの理由があるから外されたんだろう。何故戻す必要がある」
「貴方は知らなくていいことだよ」
 一蹴した近藤に、迫田は沈黙した。
「あの事件、大勢の捜査員を投入しておいてほとんど進展してないでしょ。彼は発生当初から捜査に関わってる。事件を熟知してる刑事を外すのは得策じゃないよね。それでなくても少女誘拐殺人事件から市民はずっと不安な生活を強いられてる。こんな状況であんな凄惨な事件の犯人を取り逃がしたら、京都府警の威信に関わるんじゃないの? 貴方なら適当な理由を付けて戻すくらい簡単でしょ」
 淀みない理屈にすら沈黙を守る迫田に、近藤は嘆息した。
「秘密をバラされたくなかったら頼みを聞いてって、言わせたいの?」
 迫田はきつく唇を噛んで近藤を睨み付けた。それを了承と取ったのか、近藤は満足そうに口元を緩めて腰を上げた。
「あまり待てないから、できるだけ早くしてね」
 憎々しい視線を背中で受けながら扉を開き、肩越しに振り向く。
「じゃあ、頼んだよ?」
 念を押すように嫌味たらしい言葉と笑みを残し、近藤は本部長室を後にした。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み