第2話

文字数 1,292文字

 右近(うこん)は、普段の哨戒時に様子を見ることはあっても、もう二度と足を止めることはないだろうと思っていたマンションの屋上にいた。
 久々に朝に召喚されたと思ったら、香苗の父親と女の安否を確認して来いと宗一郎から指示を受けたのだ。
 眼下では、香苗の自宅マンションの前で見覚えのある顔を交えた主婦たちの井戸端会議が開かれ、駐車場には父親のバンが停まっている。荷室の窓には詰め込まれた黄色いゴミ袋が見えるが、自宅の窓はカーテンが引かれて中は窺えない。しかし不法投棄することなく帰宅したらしい。柴と紫苑に与えられた人々が犯罪者だったこと、さらに香苗が内通者である可能性は捨て切れないという判断から父親と女を案じたらしいが、取り越し苦労だったようだ。
 右近が踵を返そうとしたその時、主婦の一人が父親のバンを一瞥し、迷惑顔で他の主婦らの顔を見渡した。ここまでは届かないが、車から臭いが漏れているのだろうか。それにしては、他の主婦らは興味津津な様子で彼女の話に聞き入っている。
 何だ。
 この距離ではさすがに聞こえない。右近は周囲を見渡すと、マンションの隣の一軒家の屋根へ跳び移った。少し集中して耳を澄ませる。
「もうびっくりしたわよ。掃除しようと思って表に出たら、二人して倒れてるんだもの」
「それでどうしたの?」
「さすがに放っておくわけにはいかないでしょ。大丈夫ですかって声をかけたらね、女の人が目を覚ましてすごい剣幕で言ったの。女の幽霊がどうとか、真っ赤な手形がどうとかって」
 はあ? と一斉に素っ頓狂な声が上がり、どっと笑い声が響いた。
「何よそれ。そんなものどこにあるのよ」
「やだぁ、もしかして危ないことでもしてるんじゃないの?」
「そう思うでしょ? あたしもね、そんなものどこにもないですよって言ったら、彼女、大慌てで車を確認したの。でもやっぱりないじゃない。そしたらあの人、真っ青な顔して野田さんを置いて家に帰っちゃったのよ」
「薄情ねぇ。一緒に住んでるのに」
「でしょ? それとねぇ、これ本当に申し訳ないんだけど」
 主婦は言葉とは裏腹に、小さな笑い声を漏らした。
「あの時の彼女、酷かったわよぉ。生臭いし髪もぼさぼさでね、ファンデはどろどろ、アイライナーは取れて目の回り真っ黒だし、つけまつげは外れてほっぺたに張り付いてるし。あんな顔で幽霊とか言われてもねぇ。笑いを堪えるの大変だったわよ」
 言外に「彼女の方が幽霊みたいだった」と言った主婦に、他の主婦らは口を押さえて笑い声を潜めた。
「車にゴミを積んでるってことは、夜にどこかに捨てに行こうとしてたんじゃないの?」
「バチが当たったのよ、バチが」
 ねー、と息の揃った同意が上がったところで、右近はやっと踵を返した。
 女の幽霊。
 思い当たるのは、廃墟に留まる女の浮遊霊だ。騒ぎの最中は、酒吞童子がいたせいか建物の中から様子を窺っているだけだったが、おそらくあの後、彼女が奴らにさらなる仕置きを加えたのだろう。よほど怖い目に遭わせたらしい。
 自業自得だ。あんな仕打ちをした上に、香苗にむごい言葉を投げつけたのだから。
 右近はむっと眉を寄せ、主の元へと足を向けた。
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