第5話

文字数 5,707文字

 ゴミが入った袋とペットボトル片手に少年課へ戻ると、扉の前で榎本が仁王立ちしていた。前もこんなことあったな。ちゃんと説明するからデスクで待っていればいいのに。逃げるとでも思われているのだろうか。
「あっ」
 心外に思っていると、榎本が気付いて組んでいた腕を解いた。ずんずんと音がしそうなくらい気迫たっぷりで歩み寄り、足を止めてまずは挨拶。
「おはようございます」
「おう、おはよう」
「怪我は大丈夫ですか?」
「ああ、この通りだ」
 にっと笑ってガッツポーズをして見せると、榎本の表情がほっと和らいだ。しかしすぐに眼差しをきりっとさせる。
「では、皆さん揃ってます。行きましょう」
 踵を返した榎本に、下平は小首を傾げた。
「行くって、どこに」
「会議室です」
「は? なんで」
 榎本の後ろを、何となくついて行く。以前は弥生のことを伝えるために会議室を借りたが、今日は聞かれるとまずい話は――まさか。
「お前、あいつらに話したのか!?」
 下平は榎本の腕を掴んで引き止めた。
「はい、話しました。昨夜のうちに先輩方に連絡して、少し早めに来て欲しいとお願いしました」
 振り向いて、さも当然と言わんばかりに肯定した榎本に閉口して、下平はするりと手を離した。ぽかんと開けた口から出たのは、叱責ではなく大きな溜め息だ。
「お前なぁ……」
 人が朝飯を食らっている間になんてことをしてくれたんだ。手で顔を覆った下平に、榎本は体を向けて正対した。
「あれは、どう考えても異常です」
 力強く断言した榎本を指の隙間から覗き、苦い顔から手を下ろす。
「それは分かってる。だから話さなかったんだろうが」
「だからこそ話すべきだと思います」
 生真面目で融通の利かない榎本が、上司に真正面から反論した。下平は目をしばたいた。真っ直ぐな強い眼差しが、寸分違わずこちらを見上げている。自分は間違っていないと、自信のこもった目だ。
 そもそも、話してしまったのなら、今さら何を言っても後の祭りか。下平はがしがしと頭を掻いて逡巡した。仕方ない。
「分かった、行くぞ」
「はいっ」
 溜め息まじりに言って一歩踏み出すと、榎本はぱっと顔を輝かせた。
 初っ端から予定が狂ってしまったが、榎本を大人しくさせるための理由はすでに考えてある。彼らにも同じことを言うまでだ。
 以前使った小会議室の扉を開けると、榎本の言った通り全員が揃っていた。ぴりっと張り詰めた空気。一斉に向けられた視線には、叱責や胡乱、困惑と様々な感情が混じっている。どこまで聞いたのか知らないが、榎本や(たける)の黒い煙を見たという証言があるにせよ、そう簡単に信じられない気持ちは分かる。半信半疑といったところか。
 おはようございますと挨拶が飛び交う中、下平は前と同じ上座に腰を下ろした。榎本たちも同じ席順だ。
 視線を浴びて、下平は改めて全員を見渡す。
「お前ら、どこまで聞いた?」
「大体全部です」
 即答したのは、マイホームパパの前田(まえだ)だ。くっきりした二重の目が鋭く細められている。
「班長」
 むず痒いから班長と呼ぶなと言い聞かせている。それなのにあえてそう呼んだのは、甘いマスクの新井(あらい)だ。下平はぴくりと頬を引き攣らせた。
「全部話してください。この事件の真相がどうであれ、菊池雅臣が関わっているのなら俺たちの担当です」
「そうですよ。それなのに蚊帳の外なんておかしいじゃないですか」
 追随したのは、大柄に似合わず涙もろい牛島(うしじま)だ。何でもうすでに泣きそうなんだ。
「話してくれないのなら、班長が単独で動いてるって課長に報告します」
 目を据わらせて上司を脅したのは、班内一の俊足を誇る大滝(おおたき)だ。いい度胸をしている。
 榎本を置き去りにして、四人がずいっと身を乗り出した。
「話してください、班長」
「俺たちのこと信用できないんですか、班長」
「心配してるんです、班長」
「信じてください、班長」
「班長って呼ぶなッ!」
 下平は溜まりかねて仰け反り、怒号を響かせた。気持ち悪いほど全身に鳥肌が立っている。しばしの間、無駄に息を切らした下平と部下四人が睨み合う。
 おもむろに四人が澄ました顔で身を引き、ぽかんとした榎本を見やる。隣の大滝が大真面目に言った。
「よく覚えとけよ、榎本。こうやるんだ」
「は?」
「下平さんはな、班長って呼ばれるのめっちゃ嫌がるんだよ」
 何故かうんうんと自分の言動に頷くのは前田だ。
「そうそう。異常なくらい嫌がりますよね」
 なんでだろう? と首を傾げる牛島に、したり顔で新井が続いた。
「下平さんへの一番効果的な嫌がらせだ」
「お前ら榎本に余計なこと教えんな! つーか上司に嫌がらせとはいい度胸だな!?」
 榎本が顔をひきつらせてドン引きしているではないか。つまり、新井の「班長」が嫌がらせ開始の合図だったわけだ。上下関係が非常に厳しいと言われる警察で、部下にここまで好き勝手言われる上司も珍しかろう。それだけ慕ってくれていると思いたいが、もしや舐められているのだろうか。
 下平の怒号に少しも怯えた様子を見せず、前田が真っ直ぐに見据えた。
「下平さん、俺たちは部下です。心配してくれるのは嬉しいですが、頼ってくれる方がもっと嬉しいです」
 真面目な顔で突然何を言い出すかと思えば。もう、十分頼っているのに。部下五人の真剣な眼差しを受けて、下平は溜め息をついた。
「分かってる、悪かった。ちゃんと話すから、もう班長って呼ぶんじゃねぇぞ」
 しかめ面で鋭く睨むと、榎本は大きく頷いたが前田たちはさっと視線を逸らした。こいつら。
 頭を抱えたい衝動を堪え、下平はもう一度溜め息をついて榎本に目を止めた。
「説明する前に、榎本。お前、昨日どうやってあの場所に来たんだ」
「タクシーで追いかけました」
 当然のように返ってきたが、腑に落ちない。街中はともかく、山の中はヘッドライトで絶対に気付くはずだ。後続車はいなかった。下平が怪訝な顔をすると、榎本は続けた。
 彼女は、ずっと気になっていたと言う。
 そそくさと帰ったことはともかく、突然のリンとナナの保護指示。彼女たちから龍之介の話を聞いてはいたが、下平から直接説明を受けていない。そもそもあの日、下平は慌てて課を飛び出した。どこにいて何をしていたのか。その理由も結局聞けずじまいだ。
 どうしても気になって、問い質そうと下平のあとを追いかけた。すると捜査車両に乗り込むではないか。怪訝に思い、慌ててタクシーを捕まえて尾行したらしい。
 しばらくしてコンビニに入ったため、少し離れた場所で待機していると尊が現れた。もしや雅臣から呼び出されたのだろうかと思ったが、ならば何故自分たちに言わないのか。ますます怪訝に思っているうちに車は亀岡市に入り、山道を走ってトンネルを抜けた。それまでは間に二、三台一般車を挟んでいたが、府道50号線に出たところで下平たちが畑に挟まれた脇道に入ったため、一旦通り過ぎた。
 停車してもらい、タクシーの運転手に何かあるのかと聞くと、一本道の先に展望台があると言う。こんな時に夜景を見に行くとは思えない。となると、やはり雅臣から呼び出されたのだ。しかし、このまま尾行するとヘッドライトの明かりで確実にバレる。行き先は分かっているのだから、かなり距離を開けて向かうしかない。そう思い、あとを追ってもらった。
 しかし途中、猛スピードで下りて来た車とぶつかりそうになった。あわやというところで接触は免れたが、相手の様子がおかしい。二人の男が運転席と助手席の窓から顔を出し、早くどけよと怒号を響かせた。表情は酷く強張り、声も裏返っている。何かあったのだ。これまでのことが脳裏を駆け巡った。
 通り魔的な事件だと思っていた案件は、調べれば調べるほど謎が増えた。雅臣の失踪にとどまらず、カツアゲ相手も行方不明。唯一の証言者は黒い煙がどうとかわけの分からないことを言う。そんな中で遭遇した暴行現場。暴行犯が目の前で忽然と消え、被害者は黒い煙が飲み込んだと言い、消えた屋根の上の女性と雅臣は仲間かもしれない説が浮上した。
 何がどうなっているのかさっぱり分からないが、分からないからこそ危険だ。このまま行けば、運転手を巻き込むかもしれない。
 運転手が何なんだとぼやきながら車を寄せると、男たちの車は接触すれすれで通り過ぎて行った。
「そこでタクシーを降りて、走って展望台へ向かいました」
 だからあの時徒歩だったのか。いや、気にするべきはそこではない。これが前田たちならともかく、相手は榎本だ。刑事歴たった四ヶ月の新人の尾行に気付かなかったなんて、屈辱的すぎる。
 下平は、マジかぁ、と低く吐き出して今度こそ頭を抱えた。まさか榎本が尾行をするなんて考えもしなかったし、尊をはじめ、桃子や冬馬、樹たちと、気を揉むことが多かったとはいえ、これはさすがに自信を失くす。いっそ年のせいにしたい。
「榎本、お手柄だったぞ」
「よくやった」
「成長したな、お前」
「頑張ったな」
 落ち込む下平をよそに、前田たちから褒められて榎本は照れ臭そうに笑った。嬉しそうにしやがって。
 とは思うものの、配属されたばかりの頃の彼女なら、上司や仲間を尾行するなどもっての外と考えただろう。ここで味を占められると困るが、多少考え方が柔軟になってきたようだ。そこは喜ぶべきか。
 下平ははにかんで笑う榎本を眺め、くすりと笑った。
「さて、お前ら」
 少し声を張ると、全員が表情を引き締めた。改めて部下たちを見渡す。
「榎本から聞いたのなら分かってると思うが、非現実的な話だ。信じるか信じないかは自分で決めろ。ただし、絶対に口外するな。これは命令だ。いいな」
 語気を強めて釘を刺すと、神妙な頷きが返ってきた。
「それと、関係者がかなり多い上に、複雑だ。メモするなら初めからメモしとけ」
 そう言うと、全員がポケットからメモ帳を取り出した。下平もメモ帳を手に腰を上げる。ホワイトボードの前に立ち、ペンを取ってまずは相関図を書く。両家、寮、式神に鬼。紺野や冬馬、怜司の仲間たち。犯人側のメンバーに草薙、良親を含めたこれまでの被害者。怜司の仲間たちの名前は知らされていないが、それでも次々と連なる名前に、「まだいるのか」と小さな驚きの声が上がった。
 樹の名を書いたところで、榎本が「えっ」と声を漏らしたが、少年襲撃事件だけなら樹はただの目撃者だ、と言うと素直に引き下がった。
「こんなところか」
 改めてみると、本当に関係者が多い。ホワイトボードとメモを交互に見ながらせっせとメモを取る榎本たちの表情は、怪訝だったり困惑だったり様々だ。
 全員のペンが止まったところで、下平は言った。
「事の初めは、七月に起こった鬼代神社での殺人事件だ――」
 下平はペンのキャップを閉め、指示棒の代わりにしながら全てを伝えた。
 鬼代事件が起こって一カ月以上。三か月、半年、一年、あるいはそれ以上の時間をかけて捜査が行われる事件など珍しくもない。けれどこの事件の場合、長引けば長引くほど犠牲者が増える。それが例え犯罪者だとしても、警察官として悠長にしている時間はない。
 途中、休憩を一度挟んで全ての説明が終わる頃には、全員が疲れた顔をしていた。あくまでも事務的に流れを説明しただけだが、情報量が多すぎる上に、警察官が共謀していたのだ。警察官の不正や犯罪は、悲しいことに珍しくないけれど、やはりショックは受ける。
 そして最後に。
「榎本」
 唐突に名を呼ばれ、難しい顔でメモ帳に目を落としていた榎本が、一拍遅れて顔を上げた。
「お前、俺の傷見てるよな」
「え? ええ……」
「どんなだった?」
「どうって……」
 困惑の顔で榎本はペンを置き、右手の指で左の二の腕を切る真似をした。
「両方の二の腕に、こう、刃物のような傷が上下に二つずつ」
「よし」
 頷くと、下平はジャケットを脱いで椅子の背もたれに掛け、ワイシャツのボタンを外した。
「ちょ……っ」
「下にシャツ着てる」
「そ、そう、ですよね……」
 すみません、と呟いて榎本は顔を真っ赤にして俯いた。突然目の前で男が脱ぎ始めれば驚いて当然だ。とはいえ、さすがに全部脱ぐと着るのが面倒なので、半分ほどボタンを外して肩からワイシャツを下げ、半袖シャツの袖をめくった。二の腕を前田たちへ向ける。
「傷、ねぇぞ?」
 前田が不思議そうに言うと、榎本が勢いよく顔を上げた。そして見開いた目でじっと下平の二の腕を凝視し、
「え……っ?」
 時間差で驚いた。しばらく固まったまま瞬きをし、机に身を乗り出す。
「だって、昨日は確かに……。み、見間違えじゃありません、ちゃんと見ました!」
 必死の形相で訴える榎本を見て、前田たちが下平へ視線を投げた。
「ああ、榎本は嘘を言ってねぇ。確かに昨日、展望台で悪鬼に切られた。ただ、そのあと寮に行って式神に治癒してもらったんだ。だから言ったろ、明日になれば治ってるって」
「あ、あれ、そういう意味で……」
「そうだ」
 下平は袖を下ろし、ワイシャツを上げて着直した。
「一応証拠として見せたが、さっきも言ったように、信じるか信じないかは自分で決めろ」
 やれやれと言った顔で椅子に腰を下ろし、お茶を喉に流し込む。さすがにこれだけ話すと喉が渇く。
「自分で決めろって言われても、ねぇ」
 牛島がメモ帳から顔を上げ、同意を求めるように前田たちを見渡した。
「決めるも何も、そもそも黒い煙、悪鬼だっけ? 知ってたしな」
「正直、手がかりの一つとはいえあんまりにも現実離れしてるんで、重要視してなかったですけど。でもここまで来ると疑うも何もないでしょ」
 大滝と新井が答え、
「そもそも、下平さんと榎本はこんな手の込んだ嘘言わないよな」
 前田がにっと笑って言い、新井たちがうんうんと頷いた。
 榎本は実際自分の目で見ているため、疑う余地はないだろう。しかし前田たちは違う。目撃したわけでもない、ましてや熊田と佐々木のように式神と直接会ったわけでもない。それなのに、こうもあっさり信じるとは。
 榎本も嬉しそうに表情を緩めている。下平は微かに口角を上げた。
「分かった」
 仲が良すぎて悪ノリする時もあるが、本当に良い部下に恵まれた。
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