第14話

文字数 5,766文字

 翌日、宣言通り同じ時間に香苗の元へ行った。父親の車が駐車場に停まっているところを見ると、帰ってきたようだ。香苗が答えを出すまでは、両親の前に姿を現すわけにはいかない。寝静まるまで待つか。
 いつものマンションの屋上から部屋の様子を見守る。どのくらいの時間が過ぎただろう、突然カーテンが窓に押し付けられ、ドンと鈍い音がした。何かがぶつかったような衝撃音。夫婦喧嘩にしては、今回は激しい。怪訝に思いながらも窺っていると、今度はカーテンが勢いよく左右に大きく開いた。
 そこから見えた光景に、右近は息を飲んだ。
 助けを乞うような必死の形相で外に視線を巡らせる香苗の姿。背後から父親が香苗の髪を鷲掴みにして後ろへ引き摺り倒し、苛立たしげにカーテンを閉めた。
 右近は大人一人ほどの水龍を瞬時に形成した。
「宗一郎を呼んで来い」
 指示を出しながら跳び、一気にベランダへ下り立った。鍵が開いている。鬱陶しげに窓とカーテンを引っ張り開けて足を踏み込むと、ローテーブルの横で香苗が小さく体を丸め、拳を振り上げた父親が驚いた顔で振り向いた。また母親は、携帯を手にソファに座っており、目を丸くしている。
「な……っ、何だおま……っ」
 右近は勢いよく歩み寄り、父親の胸倉を掴んで軽々と廊下の方へ放り投げた。
「きゃ……っ」
 母親が身を縮めて小さく悲鳴を上げた。父親はドンと鈍い音を響かせて床に落ちて滑り、閉まりかかっていた扉にぶつかって止まった。
 右近は香苗の横に膝をつくと、顔を覗き込むようにして震える背中に手を添えた。
「香苗、私だ。香苗」
 声をかけると、香苗はぴくりと小さく震えたあと、ゆっくり体を起こした。父親は唸り声を漏らして鈍痛に顔を歪ませている。
 ゆるゆると顔を向けた香苗の頬は涙で濡れ、わずかに赤く腫れていた。右近は目を細めて、鋭い視線を父親へ投げた。
「貴様」
 ゆっくりと腰を上げかけた右近の着物を、香苗は咄嗟に掴む。
「や、やめて……っ、だい、じょうぶなので……っ」
 懇願するような眼差しに、右近はきつく唇を結んだ。頬を赤く腫らし、拳を振り上げられてもなお、庇おうとする。何故だ。
「だ、誰だてめぇ! どうやってあんな所から入ってきた!」
 痛みに顔を歪ませつつ体を起こし、声を荒げた父親に右近は冷ややかな視線を投げる。
「貴様ごときに名乗る必要も、説明するつもりもない」
 母親がごそりと動いて腰を浮かせた。
「動くな」
 鋭く命じ、じろりと睨みつけると、母親は大仰に体を震わせて再びソファに腰を落とした。
「何故、このようなことをした」
 端的に問うと、父親は眉をひそめた。
「何でお前に話さなきゃ」
「答えろ」
 父親の言葉を鋭く遮り、ゆっくりと立ち上がりながらもう一度問う。
「何故このようなことをしたのかと聞いている」
 威圧するように目を細めると、父親が一瞬怯み、しかし忌々しげに歯噛みをして叫んだ。
「そ、そいつが逆らうからだよ! 施設に入りたくねぇって言いやがるから入りたくなるようにしてやったんだ!」
 つまり、暴力を振るえば見限ると思ったのか。それを母親は傍観していた。
「本当か? 香苗」
 右近は香苗を見ることなく問うた。香苗は俯き、かろうじて聞き取れるくらいの小さな声ではいと頷いた。
 施設に入れと言われてただ泣いていただけの彼女が、入りたくないと訴えた。暴言を吐かれても、家事の一切を押し付けられても、両親と共にいることを望んだのだ。子供のそんな健気な願いを、この二人は暴力で踏みにじった。
「そもそもお前に関係ねぇだろ! いきなり勝手に入ってきて人んちの事に首突っ込んでんじゃねぇッ!」
 父親は立ち上がりながら右近に走り寄り、拳を振り上げた。足元で香苗が身を縮ませる。顔めがけて真っ直ぐに襲ってくる拳を、右近は眉一つ動かさずに難なく受け止め、そのまま強く掴んだ。
「い……っ、痛い痛い! 離せ……ッ」
 このまま握り潰す気かと思うほど強く握られ、父親は掠れた声で悲鳴を上げ、苦痛に顔を歪ませる。形勢が不利だと思って焦ったのか、母親が携帯を掲げて言った。
「ちょ、ちょっとあんた! け、警察呼ぶわよ!」
 牽制のつもりだろうが、震える声では効果などない。右近は母親を横目で見やり、手を離した。父親が手を抱え込むようにして後ろによろめき、しゃがみ込んで体を丸めた。
「好きにしろ。だが、あの怪我はどう見ても暴行の跡だ。どう言い訳をするつもりだ?」
 母親はぐっと言葉を詰まらせると、ふと思い付いたようににやりと口角を歪めた。
「この中で不審者はあんたよ。強盗にやられたって証言すればいいだけの話でしょ。ねぇ香苗、できるわよね?」
 香苗に視線を向け、猫なで声で問う。香苗は肩を竦ませて右近と母親を交互に見やり、俯いてぎゅっと唇を結んだ。渋面を浮かべた父親が顔を上げる。
 やがて、香苗は小さく頭を横に振った。
 あんた、と母親が低く唸り顔を怒らせ、持っていた携帯を振り上げた。不意に、近付いてくる左近の気配を感じた。宗一郎がそこまで来ている。変化させたか。
「親の言うことが聞けないの!?」
 ヒステリックな声と共に投げつけられた携帯から、香苗が咄嗟に顔を庇うように両腕を上げ、右近はしゃがんで片腕で庇いながら香苗を胸に抱き込んだ。携帯が腕にぶつかって床に落ち、鈍い音を響かせる。
 母親がローテーブルを足で蹴り付け、置いてあったティッシュの箱やリモコンが滑り落ちた。
「誰のおかげで生活できてると思ってんだ! 腹痛めて産んでやったんだだろうが、親の言うこと聞けよ!」
 興奮して息を荒げる母親を、右近は庇った腕を下ろしながら冷静な目で見据えた。香苗の震えが、腕の中から伝わってくる。
「子を子として慈しめぬ奴に、親を名乗る資格はない」
 おもむろに告げた右近に、は? と母親が鬱陶しげに顔を歪めた。
「お前たちは、何を勘違いしている? 子は、お前たちの都合のよい道具ではない。お前たちと同じ人間だ。そんなことすらも理解できぬお前たちに、親を名乗る資格はない。恥を知れ」
 淡々と語られた言葉に母親が目を吊り上げ、父親がゆらりと腰を上げた。
「あんた何様のつもり!?」
「てめぇ偉そうに説教垂れてんじゃ……っ」
「失礼」
 父親の言葉を遮ったのは、玄関扉が開く音と同時に飛び込んできた宗一郎の声だった。一斉に玄関の方へ視線を投げる。
「鍵が開いていましたよ。不用心じゃありませんか?」
 そう言いながら、宗一郎はいつも通りのゆったりとした口調と物腰で姿を現した。ただ、着物ではなく洋服だ。ぐるりと部屋を見渡す。
「ああ!? 誰だお前! どいつもこいつも勝手に入ってくんじゃねぇよ!」
「まあそう興奮なさらずに。ご近所に迷惑ですし、あまり騒ぐと警察に通報されますよ」
 浮かんだ笑みは、表面上は穏やかだが、その裏に隠された感情は真逆のものだ。事前の報告内容に部屋の惨状、何より香苗を見れば、何があったのはすぐに分かる。
 あっさりと制され、両親は揃って悔しそうに口をつぐんだ。香苗が首を縦に振らなかったことで、警察を呼ばれると困るのは彼らの方だ。
 宗一郎は父親と母親の横を素通りし、香苗の前で膝をついた。右近が腕を解く。
「君が、野田香苗さんだね?」
 優しい声色で尋ねると、香苗は戸惑った顔で右近を見上げた。
「私の主だ」
 右近の答えに安心したのか、香苗は宗一郎に向き直り、こくりと頷いた。宗一郎はじっと香苗を見据えて問うた。
「君は、どうしたい?」
 静かに重みのある声で尋ねた宗一郎に、香苗は眉尻を下げて俯いた。
 暴力によって気持ちを踏みにじられた以上、答えは一つだ。だが、第三者がどれだけ理屈を捏ねようと、香苗が親を親だと、共にいたいと思っている限り、こればかりは強要できない。
 やがて、香苗がぽつりと言った。
「……一緒に、行きます……」
 そう答えを出した香苗の心の内には、一体何があるのだろう。絶望か、それとも、希望か。
 宗一郎は了承の言葉の代わりに目を伏せ、ゆっくりと立ち上がった。両親を交互に見やる。
「申し遅れました。私、賀茂宗一郎と申します。単刀直入に言いましょう。娘さんを、私どもに預からせていただきたい」
「……は?」
 まさに寝耳に水だろう。両親は呆気に取られた顔で、間の抜けた声を同時に漏らした。
「失礼ですが、そちらの事情は調べさせていただきました。離婚するために、娘さんを施設に入れたいとか。それでしたら、いっそ私どもに預けていただけませんか」
 にっこり笑顔を浮かべた宗一郎を、二人は呆然と見つめる。
「施設に入れるための手順と条件はご存知ですか?」
「条件……?」
 母親がぼやき、父親が怪訝そうに眉を寄せた。携帯一つで情報が手に入るのに、どうやら何も調べずに入れるつもりだったらしい。
「ご両親がご健在である場合、児童相談所で育児の悩みや家計状況、家庭環境を相談し、保護の必要があると判断された場合のみ、まずは一時保護という措置が取られます。その後、保護措置の必要があると判断されれば児童養護施設に入所することになります。そして、前年度の所得に応じて入所費用がかかります」
「は!?」
 素っ頓狂な声を上げたのは二人同時だった。
「ちょ、ちょっと待て、金がかかるのか!?」
「ええ。各自治体によって差はありますが」
「やだ、タダで預かってくれるんじゃないの!?」
「生活保護世帯や孤児など例外はありますが、お二人とも働いていらっしゃるようですし、見る限りこちらは該当しないようですね」
 宗一郎は、ふむ、とわざとらしく室内を見渡した。
「税金払ってんだからタダで預かれよ、使えねぇな」
 父親は盛大な舌打ちをかましてぼやいた。母親の方も面倒臭そうに顔を歪めている。子供の目の前で、よくもそんな態度が取れるものだ。右近はわずかに目を細めた。
「もし私どもに預けていただければ、彼女にかかる養育費や諸費用は全額こちらで負担致します。そちらには一切請求致しません。お約束します」
 思いがけず降ってきた好条件に、二人は弾かれたように宗一郎を見やった。しかし、すぐに父親が怪訝な顔をして眉根を寄せた。
「……胡散臭ぇな。あんたに何の得があるんだ」
 賀茂という名字を聞いても思い当たらないあたり、知識がないらしい。陰陽師と言えば安倍晴明ばかりに焦点が当てられるが、宗史が言うには歴史の教科書にも賀茂忠行の名は記載されているらしい。学業を疎かにしていたようだ。
 疑いの眼差しを向ける父親に苦言を呈したのは母親だ。
「ちょっと余計なこと言わないでよ。別にいいじゃない、タダで預かってくれるって言ってるんだから」
「馬鹿かお前。あとで金請求されたらどうすんだ。口約束なんか信用できるか」
「誰が馬鹿ですって!?」
「必要なら、誓約書を交わしても構いません」
 勃発しかけた諍いへ口を挟んだ宗一郎に、二人は顔を見合わせた。互いの意見を探り合うような視線を飛ばす。しばらくして、父親が警戒した視線を宗一郎へ向けた。
「絶対に請求しねぇんだな?」
「ええ、絶対です」
「あたしはいいわよ」
 あっさり承諾した母親を見て、父親は舌打ちをかました。
「分かった」
 宗一郎が笑みを浮かべた。
「ありがとうございます。ただし、いくつか条件があります」
「はあ!? 何だよ結局なんかあるんじゃねぇか!」
 ジャケットの内ポケットを探った宗一郎に、父親が怒りの籠った声を上げる。
「勘違いなさらないでください。学校の転入手続きや住所変更はどうしても避けて通れません。施設に入れるとしても同じことです。こればかりは、ご両親にお任せするより他ないのですよ」
 言いながら一通の封筒を取り出し、ローテーブルの上に滑らせた。
「先のことを考えれば、あなた方にとっては造作もないでしょう」
 両親はああともうんとも形容しがたい曖昧な声を漏らした。母親が前のめりに覗き込んで手に取り封筒を開け、父親がソファの後ろから覗き込んだ。
「していただきたい手続きや必要な書類と情報の一覧です。一つ目の条件として、こちらを全て終わらせたあと、書類のコピーと住民票を書かれている住所へお送りください。一つでも抜けていた場合」
 宗一郎が一旦言葉を切り、両親は視線を投げた。
「娘さんへ対する暴行を診断書と共に警察に告訴致します」
 ぐっと二人が息を飲んだ。続けて宗一郎が告げる。
「二つ目の条件ですが、これら全ての手続きを三日以内にお済ませください」
「三日!?」
 二人同時に驚きの声を上げる。
「ええ。学校を長期間休ませるわけにはいきません。それに、先延ばしにすればするほど面倒になってきますよ」
「待ってよ、そんなこと言われても明日は日曜だし、こっちだって仕事が……」
「急病なり半休なり、時間を作る方法はいくらでもあります。あなた方も早々に済ませてしまいたいでしょう」
 それはそうだけど、と母親はしかめ面をして用紙に目を落とした。
「では、三つ目の条件です」
「おい、まだあるのか!?」
「これで最後です」
 宗一郎は笑みを収め、強い口調で告げた。
「彼女が望まない限り、今後一切接触をしないでいただきたい」
 感情の読めない冷たい眼差しは、二人を威圧するのに十分だったらしい。両親は顔を引き攣らせて慄き、宗一郎はにっこり笑みを浮かべた。
「以上の条件が飲めないと仰るのであれば、即刻警察に通報致します。いかがですか?」
 得体の知れない者に娘を預ける不安より、金を気にするような輩だ。時間のかかる審査と手続き、費用が必要な施設より、宗一郎の出した条件の方が断然都合が良いだろう。
 二人は顔を見合わせ、間を置かずに言った。
「分かった。それでいい」
「あたしもいいわ」
「ありがとうございます。では、一旦娘さんをお預かりします」
 宗一郎から視線を向けられ、右近は石のように身じろぎ一つせずにやり取りを聞いていた香苗に目を落とした。
「香苗、立てるか」
 そろそろと腰を上げた香苗を支え、一緒に立ち上がる。スカートから伸びた足にもいくつか痣があった。玄関へ誘導し、ゆっくりと歩む香苗に歩調を合わせて歩く。
「それではこれで失礼致します。くれぐれも、条件をお守りください」
 強調して告げた言葉に、父親は渋面を浮かべて舌打ちをかまし、母親はむっとした顔をしてそっぽを向いた。
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