第6話

文字数 3,745文字

 ったくお前は、とぼやきながら解いたベルトを床に放り投げた時、廊下からこちらへ駆けてくる一人分の足音が響いた。そういえば、近藤救出に必死で外の男たちのことを気にしていなかった。精霊たちが足止めをしている間に、警察か茂たちが到着するものだと思っていたが、どうなっただろう。
 スチール台を回り込んで近藤を背にすると、うなだれていた男も期待顔を上げた。だがひょこっと顔を覗かせたのは、見知った顔。茂だ。近藤にも寮の写真を渡してある。二人揃ってほっと安堵の息をつく。反対に男はがっくりと肩を落として、再び俯いた。
 男に、知り合いのようだったなどと聴取で証言されると面倒だ。
「警察です。貴方は」
 自分でも分かるくらい棒読みのセリフに、近藤がふっと噴き出した。
「ああ、警察の方ですか。よかった。実は、子供たちに心霊スポットに行きたいとせがまれてここへ。そしたら、外にいた男の方たちに絡まれてしまって。今は大人しくしていますが、様子がおかしいのでもしやと思って見に来たんです」
 意図を察してくれたらしい。なるほど、上手い設定だ。しかも外の状況も説明してくれた。
話しながらも、茂の視線は男へ、というより悪鬼へと言った方が正しいだろうか。どことなく訝しげな面持ちで見つめながらこちらへ向かってくる。
「そうでしたか。申し訳ありません、巻き込んでしまったようで。お怪我は」
「大丈夫ですよ。それより、先ほどすごい音がしましたが……」
「ああ、犯人を少々」
 何をしたか予想していたらしい。曖昧な答えに茂は笑いを噛み殺し、
「お手伝いしましょう」
 そう言って小走りに駆け寄り、足のバックルに手をかけた。手首同様、ベルトが二重に巻かれている。
 ちらりと視線を向けた男は、変わらず悪鬼に憑かれたまま何かぶつぶつと呟いている。二人がかりで足首に巻かれたベルトを解きながら、小声で尋ねた。
「男のあれ、悪鬼ですよね」
「ええ。ですが、人ではありません」
「人じゃない?」
「もしかして、動物? 犬とか猫とか」
 近藤が、上半身を捻り、腕で支えてゆっくり起きながら口を挟んだ。紺野が横から支える。
「おそらく。耳や目のようなものが見えますから。何かご存知ですか」
 めまいがするのだろう。近藤は顔を歪ませて手で覆い、一拍置いた。
「僕を解剖するために、野良犬や猫を実験台にしたらしいよ」
「は?」
「え?」
 紺野は上着にかけた手を止め、茂は外したベルトを持ったまま、近藤を見やる。
「本当か、それ」
「自分でそう言ってたもん」
 落ちてきた前髪をもう一度かき上げた近藤の答えに、紺野が舌打ちをかまし、茂が不快げに眉間にしわを寄せた。あれは、男に殺され悪鬼へと変貌した犬や猫の魂。男を狙っているように見えたのはそのせいか。要は、悪霊に取り憑かれている状態だ。
「なんてことすんだ」
「可哀想なことを」
「どうしますか?」
 このままにしてはおけないだろう。上着を脱ぎながら紺野が問うと、茂はベルトを適当にまとめて台に置いた。
「解放してあげたいのはやまやまですが、今はさすがに。犯人が気を失っていればよかったんですが」
「ああ……」
 一本背負いではなく絞め技で落としておくべきだったか。
 調伏ではなく、解放と表現した。便宜上、悪鬼とひとくくりにしているが、悪鬼化した負の感情と魂は別物で、悪鬼化した魂を調伏することは、恨みや憎しみから解放することになるのか。それが理不尽に奪われた命ならなおさら。陰陽師にしかできないからこそ、楽にしてやりたいと思うのは当然なのかもしれない。
 茂が、いたたまれない顔で諦めたように溜め息をついた。
「仕方ありません。安易に術を使うと、後々面倒なことになりかねないので」
「……そうですね」
 上着を振って埃を落とし、近藤の背中にかけながら同意する。
 鬼代事件の真っ只中だ。術を使い、男に聴取で余計なことを喋られると困る。鬼代事件と北原襲撃事件は合同捜査になっている。北原襲撃事件の被害者の一人である近藤が拉致された事件となると、捜査本部へ報告がいく。それでなくても、同一犯かもしれないと緒方に話しているのだ。明が陰陽師を名乗っていることは、捜査本部も認知している。黙殺されているとはいえ、関連付けられると、茂の身元を探られかねない。
「ねぇ、僕には見えないけど、放っておくとどうなるの?」
「取り憑かれている状態なので、霊瘴を受けます。体調を崩したり、怪我が多くなったり」
「ああ、テレビなんかでよく聞くね。本当にあるんだ」
 近藤は、ふぅんと一つ意味深な相槌を打ちながら茂を一瞥し、わずかに擦り切れた手首を持ち上げた。
「あいつは自業自得だし、動物たちはちょっと可哀想だけど、貴方が気にすることないでしょ。ここで祓えないのなら仕方ない。どうしようもないことはあるよ」
 近藤にしては意外な言葉だ。見せろと言いそうなのに。茂の言葉の意味を察し、いたたまれない面持ちを気遣ったのだろう。まあ、術も悪鬼も見えないだろうから、意味がないとも思ったのだろうが。
 手首に向かって「痛いなぁ」とぼやき、ゆっくり体の向きを変えてスチール台から足を投げ出す。そんな近藤を、茂は少し驚いたような顔で見つめたあと、どこか嬉しそうな笑みを浮かべた。
「ありがとうございます」
「別に、お礼言われるようなこと言ってないよ。それより、何か飲み物ない? 脱水症なんだよね」
「飲みかけでもいいですか?」
「うん。あとでもらっていい?」
「ええ、もちろん」
 初めて会ったとは思えないほど気安い会話に、紺野は口角を緩めた。互いに事件関係者という立場がそうさせているのかもしれないが、初対面で茂は敬語なのにどうして年下の近藤がタメ口なのだ。下平たちに対してもそうだし、そもそも上司の別府に対してもだ。初めの頃は注意していたが、一向に直らないのでもう諦めた。ここで注意しても同じだろう。気安い会話は、茂の懐の広さによるものかもしれない。
 こいつは敬語が使えないのか。今さらながら呆れていると、はるか遠くの方から微かにサイレンの音が聞こえてきた。
「来たか」
 まだ時間はかかりそうだが、ひと段落つきそうだ。やれやれといった空気と、安堵の息が漏れる。
 さて、まずは近藤を下ろさなければならないが、救急車が来ているとは限らないし、あの階段で担架は無理だろう。紺野は茂に再度小声で尋ねた。
「茂さん。他には誰が来てるんですか?」
「ああ。弘貴くんと春くん、それと夏也さんです」
 樹たちではないのか。となると。
「犯人を一人にしておけないので、弘貴を呼んで近藤を運んでもらっていいですか」
「分かりました。あの階段、結構急でしたからね」
 茂はポケットから携帯を取り出した。
「近藤、もう少し踏ん張れよ。あの階段、担架は無理だぞ」
「そんなに急なの?」
「下手したら転がり落ち」
「何でだよッ!」
 唐突に言葉を遮ったのは、男の怒声だ。三人同時に顔を向けると、独り言を呟いていた男が、鋭い眼光でこちらを睨みつけていた。しげさん? と携帯から弘貴の声が届き、茂が慌てて背を向けた。
「何でお前なんだ、何でお前なんだよッ! どう考えても俺の方が優秀なのに……っ!」
 身を乗り出し、ガタガタと棚が揺れるほど体を揺らす。棚に放置されていたヘルメットが転がり落ち、硬く乾いた音を響かせた。
 男がどこの誰なのか、動機もまだ聞いていない。殺してやりたいと思うほど近藤を恨んだ理由は、一体何だったのだろう。
「あのさ」
 紺野より先に、近藤が口を開いた。
 男が荒く息をしながら動きを止め、紺野は近藤を横目で見やる。じゃあお願いねと言って通話を切った茂が、静かに振り向いた。
「あんた、科捜研で犯人を追いつめて、自慢してやるって言ったよね」
 え、と紺野と茂の驚いた声が重なった。二人とも目を丸くして、男へ視線を戻す。まさか、事件を起こした動機は。
「それがどうした!」
「犯人がいるってことは、被害者がいるんだよ」
 語気を強めた近藤の声が、男の怒声を掻き消すように部屋に響いた。意味が理解できないらしい。男が怪訝そうに眉を寄せる。
「被害者や関係者の気持ちを考えれば、自慢なんかできないでしょ。あんたは、自尊心のためだけに科捜研を選んだ。そういうところを、面接で見抜かれたんじゃないの?」
 強く真っ直ぐな眼差しで男を諭す近藤の横顔に、紺野は目を丸くした。
 正直、驚いた。不謹慎な物言いや行き過ぎた好奇心、あるいは探究心ばかりが目立って変わり者扱いされている近藤から、こんな言葉が出てくるなんて。
 確かに、犯人を捕まえれば安心もするし、被害者から礼を言われれば誇りに思う。けれど近藤が言うように、自慢しようとは一度も思ったことがない。犯人が逮捕されれば、事件としては終わりだ。だが、被害者や遺族、関係者にとっては違う。トラウマや悲しみ、心の傷との戦いは続くのだ。彼らの気持ちを考えると、人に自慢などできない。しようとも思わない。
 科捜研の所員は警察官ではない。けれど、被害者や遺族の気持ちに寄り添える。近藤は、立派な警察職員だ。
「何だよそれ、意味分かんねぇ……っ、自慢して何が悪いんだよッ!」
 悔しげに吐き出し、俯いて肩を震わせる男を、近藤は酷く冷めた目で見つめていた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み