第12話

文字数 1,602文字

      *・・・*・・・*

 暗くて狭い場所は、昔の記憶を思い起こさせる。
 こちらを見下ろすのは、まるで汚物でも見るような蔑んだ目。蓋の隙間から見える細い光。薄い壁越しに聞こえる楽しげな笑い声。漂ってくる美味しそうな匂い。
 どれだけ望んでも決して手が届かない、闇の向こう側の世界。
「夏也」
 不意に、すぐ隣から聞き慣れた声が聞こえた。
「大丈夫。暗いけど、狭くないわ」
 闇が華の姿を隠してしまっている。夏也は右手に感じる温もりと柔らかさを今一度確認するために、何度か揉むように握り直す。華がくすくすと密やかに笑った。
 自分の名前さえ忘れてしまいそうな日々だった。でも今は、この声と、温もりがある。
「はい」
 夏也はもう片方の腕を伸ばし、強く頷いた。確かに闇だが、圧迫感がない。大丈夫だ。
「さて、脱出しましょうか。出たとたん攻撃されるかもしれないから、気を付けてね」
「はい」
 霊符を取り出すと、微かに女性の声が聞こえた。
 ――やめて。
「夏也、気にしないで。いくわよ。孔雀明王の中ね」
「はい」
 ――お願い。
 ――助けてくれ。
 ――やめて。
 ――熱い。
 ――寒いよ。
 調伏されると察したわけではないだろうに。懇願する声は、男女入り混じっている。まるで自分の過去を知った上で選んだような言葉。でも、惑わされることはない。
 何度も何度も、狂ったように同じ言葉は繰り返され、次第に他の言葉が増えて重なり、大きく闇に響く。
「オン・マヤラギランデイ・ソワカ。帰命(きみょう)(たてまつ)る。邪気砕破(じゃきさいは)邪魂擺脱(じゃこんはいだつ)――」
 霊符が自立し、真言を唱え進めるごとに声は大きくなり、やがて悲鳴にも似た叫び声となってゆく。
顕現覆滅(けんげんふくめつ)急急如律令(きゅうきゅうにょりつりょう)
 ぴったりと合った二人の声が止まると霊符が強烈な光を放ち、夏也は印を結び、華は瞬時に霊刀を具現化した。


 食われている間に別の場所に移動されていたら洒落にならない。なんてことをちらりと考えている間に、一瞬だけ浮遊感を覚えた。空中に移動しなかったようだ。すぐ靴越しに地面の感触を捉えたとたん、宙に溶けてゆく悪鬼の向こう側から、霊刀を振り上げた玖賀真緒と菊池雅臣が姿を現した。
 バリッと九字結界が火花を散らし、すぐ横でギンッと鉄がぶつかる甲高い音が響く。
「ありゃ、読まれてた」
 華と霊刀を合わせた真緒が、緊張感のない声で言った。
「残念ね」
 にっこり笑顔で弾き返し、お互いに飛び退く。牽制し合っていた二体の朱雀と犬神が、それぞれ頭上に控える。
 一方夏也は、眉をひそめて結界の向こう側の雅臣を見据え、上半身を捻って脇腹へ蹴りを放った。雅臣がとっさに反応し、体をくの字に曲げて後退する。
 運動が苦手だと聞いているが、さすがにこの程度なら避けられるか。それと、間近で感じたあの禍々しさ。どうやらすでに悪鬼を取り憑かせているらしい。報告通り、写真と同一人物とは思えないほど、顔付きが険しい。
 素早く周囲に視線を巡らせると、悪鬼に食われる前と少し場所がずれていた。神苑の中央にいたはずなのに、奥へと追いやられている。左側後方にもぞもぞと蠢く悪鬼の塊。弘貴と春平は、まだあの中か。さらに向こう側の夜空には、本宮へ向かう大半の分裂した悪鬼。
 消えていく悪鬼の中を、睨み合ったまま蠢く悪鬼の方へじりじりと移動する。雅臣たちからすれば、あわよくば同化すれば儲けものだ。ゆえに手出しはしないだろうが、先程と同様、脱出したところを狙わないとも限らない。できるだけ近くにいなければ。
 本来ならすぐに悪鬼を調伏して弘貴と春平を助けるところだが、どちらかが助けに入れば一人で雅臣と真緒を相手にすることになる。悪鬼を取り憑かせた雅臣と、未だ実力がはっきりしない真緒。さすがに危険だ。
 それにしても時間がかかり過ぎではないか。まさか本当に同化したなんてことは――とわずかな不安が胸を掠めた時、雅臣が訝しげに眉を寄せ、真緒がきょとんとした顔で小首を傾げた。
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