第14話

文字数 4,673文字

 それからの記憶は綺麗に抜け落ちて、いつの間にか眠ってしまったのか、夢現の中で甲高い音と声を聞いた。
「――さん、お――ん」
 意識をこじ開けるように何度も何度も呼びかけてくる声と、胸に与えられる刺激に覚醒していく。
「おじさんッ!!」
 強く鋭く叫んだ二人分の声が、鼓膜に飛び込んできた。とたんに息苦しさを覚え、
「は……ッ」
 無意識に体が反応した。ドクンと大きく跳ねた心臓に呼応するように目が開き、肺が短く息を吸い込む。突然襲った真っ白な刺激に、反射的に目が閉じる。同時に、喉の奥につっかえていた物が取れたように激しく呼吸を繰り返した。
「良かった間に合った!」
「水持ってくる!」
 喘ぐような呼吸をする中でばたばたと走り去る足音を聞き、続けて今度は激しい咳が出た。体を横に向けて背中を丸める。息することもままならないほどの咳をしながら、ぼんやりと考えた。
 何をしてたんだっけ。
 確か、恵美の携帯に保存されていた動画を見ていて――それから?
 ゆっくりと背中をさすられる感触に宥められ、咳が収まっていく。全身で呼吸を繰り返し、大きく吐き出したところで声が降ってきた。
「おじさん、大丈夫?」
 まだ変声期を迎えていないような、少し高い声。けれどゆったりとして、優しい声色だ。閉じていた目を開けると祭壇の白い布がやけに眩しくて、思わず目を細めた。
「おじさん、水飲める?」
 こちらは少し低めの声だ。水の入ったコップを手に戻ってきた少年の問いかけに、茂は頷く代わりにゆっくりと体を起こした。酷い倦怠感。声の高い少年が手を貸した。
「救急車呼ばなくて大丈夫そうか?」
「多分。でも、ちょっと様子見た方がいいかも」
「了解。だってさ」
 誰かに話しかけるように、正面に腰を下ろした声の低い少年が言った。
 気だるさを押して体を起こすと、水の入ったコップが差し出された。茂は俯いたまま、両手でゆっくり受け取り口を付ける。一口口に含んだあと、まるで砂漠地帯でやっとオアシスを見つけた旅人のように、ごくごくと喉を鳴らして一気に飲み干した。喉から胃に流れる感覚がはっきりと感じ取れる。
 ああ、美味しい。
 一滴残らず飲み干して長い息を吐くと、やっと頭がまともに回り始めた。視線を上げて少年らを見やる。声が高い方は色白の小柄な少年で、低い方は日焼けをして活発そうな長身の少年だ。小柄な少年は中学生だろうが、長身の少年は高校生に見える。と、
「あれ?」
 右の視界の端に信じられないものが映り、無言のまま勢いよく振り向いた茂を見て、長身の少年が疑問の声を上げた。
「もしかして見えてる?」
「みたい、だね……え、でも……」
「だよな。わざわざ呼びに来たってことは、見えてなかったってことだよな」
「そのはずなんだけど……。もしかして、これがきっかけになったのかな?」
「有り得るのか? そういうの」
「さあ、どうだろう。宗一郎さんたちに聞いてみないと」
 困惑する二人をよそに、茂はすぐ隣にいる二人の名を口にした。
「……恵美さん……真由……」
 確かに、恵美と真由だ。あの日と同じ服。間違いない。見間違えるはずがない。今一番会いたかった人たちが、目の前にいる。やっぱり、あれは夢だったのだ。
 呆然と呟いた茂に二人は目を丸くし、やがて見事な泣き笑いを見せた。
 茂はくしゃりと顔を歪ませて、ゆっくりと両手を伸ばす。伸ばした手はそれぞれの頬に触れ、そして――素通りした。
 え、という一言すら声にならなかった。ただ空を掠っただけで、なんの感触もない。
 恵美と真由、そして二人の少年が一様に悲しげに眉を寄せた。
 茂は素通りした自分の手に視線を落とし、再び恵美と真由を見やる。すると恵美は静かに目を伏せて小さく首を横に振り、真由は顔を逸らした。
 改めて自分の手を見ると、微かに震えていた。頭が理解していなくても、本能は理解している。目の前にいる二人に、肉体はないのだと。
 茂は説明を求めるように、いや、否定して欲しかったのかもしれない。同じく見えているであろう、少年たちを振り向いた。すると少年らは、痛々しい面持ちをしたまま、無言で視線を泳がせた。
「……そんな……」
 あれは夢ではなく、現実。
 力なくぽつりと呟いた茂に、長身の少年が少し咎めるような口調で言った。
「おじさん、自分で何したか覚えてる?」
 おもむろに問われた質問に首を傾げると、少年たちは恵美と真由の向こう側へ視線を投げ、また恵美と真由は体を捻って振り向いた。四人に倣って茂も視線をやる。
 襖が開いた二間続きの和室。欄間には輪にくくられたタオルが掛けられ、その下には一脚の椅子がある。
 なんだ、あれ。
「覚えてない?」
 続けて尋ねられて、茂はわずかに頷いた。何も覚えていない。けれど、やっと自覚した首に走るひりひりとした痛みは。
「僕は……、死のうと、したのか……」
 首をさすった茂に、真由が険しい顔で身を乗り出して口を激しく動かした。何か必死に訴えているが、まったく声が聞こえない。もどかしげに唇を噛んだ真由の目から、ぼろぼろと涙がこぼれ落ちた。恵美が真由を抱き寄せて子供をあやすように頭を撫でる。
 それを見て、茂はおそるおそる手を伸ばし、しかし真由の頭を素通りした自分の手に顔を歪めた。抱き締めてやるどころか、触れることさえできない。
 小刻みに震える手を引っ込めながら、茂は言った。
「どうして……、助けた……?」
 自分でも驚くほどの低い声。
「なんで……っ、なんで助けた……ッ! 放っておいてくれればよかったのに!」
 そうすれば、恵美と真由の元へ行けたのに。一緒にいられたのに、触れられたのに、抱き締めてやれたのに。
 手を握り締め、俯いて苦しげに吐き出された言葉に恵美と真由が勢いよく顔を上げた。恵美が、何か言おうと口を開いて躊躇した。
「だって、助けて欲しそうだったから」
 長身の少年が明瞭に言い切って、茂は目を丸くした。
「二人が、外ですげぇ必死に通りかかった人たちに話しかけてたんだよ。でも誰も気付かなくてさ。さすがに俺たちも声は聞こえねぇけど、見えるから、そういうの。なんかあったんだろうなって思って、こっちから声掛けたら裏に案内された。窓から中を覗いたら首を吊ってるおじさんが見えて、でも鍵が掛かってたから、仕方なく割って中に入った。俺が足持って浮かして、春が椅子に上って首からタオル外した時には息してなくて、でもまだ血の気があったから、心臓マッサージした。でもさ、おじさん」
 少年は一旦言葉を切り、強い声で告げた。
「助けたのは俺たちじゃなくて、この二人」
 ぎゅっと唇を噛んで、茂は肩を震わせた。
 生きろと言うのか。こんな状況でも、まだ生きろと。
「……僕には、生きる意味がない……」
 微かに震える声で呟いた言葉に、恵美と真由が悲しげな顔で否定するように首を振った。
「あの日、僕が二人に行っておいでなんて言ったから。あんなことを言わなかったら……っ」
 茂は声を詰まらせ、胸の奥の塊を吐き出すように叫んだ。
「僕が二人を殺した……ッ!」
 違う! と恵美と真由の口が同時に動いた。違う、違う、と何度も何度も繰り返す。けれどその声は届かず、助けを求めるように二人の少年へ視線を投げた。
 二人が困ったように顔を見合わせたその時、軽快に玄関チャイムが鳴った。
 こんな状況で対応する気にはなれない。じっと硬直したまま動こうとしない茂に見かねて、長身の少年が腰を上げた。ゆっくりと和室を出ていく。恵美が恐る恐る手を伸ばし、茂の背中に添えた。
 玄関モニターはリビングにある。和室からだと玄関の方が近い。直接玄関へ向かったらしい。扉を開けたあと、ぼそぼそと話し声が聞こえ、もう一度扉を閉めた音とドアガードを外した音がした。
 と、
「わっ!」
 突如、ドンと何かがぶつかる鈍い音がしたと思ったら、少年の驚いた声と廊下を走る荒々しい足音が響いた。コツコツと響く高質な音は、ヒールの音だ。先程春と呼ばれた小柄な少年が弾かれたように振り向き、一拍遅れて茂と恵美、真由が顔を上げて振り向いた。
「春! そいつ捕まえろッ!」
 長身の少年の慌てふためく声に、春が勢いよく立ち上がり駆け出した。一体何が起こっているのか。
 春が和室から出る直前、女が気付いて足を止めた。センタープレスのパンツにブラウスにジャケット、肩にかけたショルダーバッグ。きちんとして清潔感のある服装には似合わない、手に果物ナイフらしき物を握り、目をぎらつかせ、鬼の形相で春を睨みつけている。その顔には見覚えがあった。女がナイフを振り上げた。
「あぶ……っ」
 茂が咄嗟に腰を上げ、恵美と真由が声のない悲鳴を上げた。次の瞬間、振り下ろされたナイフを春がひょいと避けながら手首を掴み、外側に捻った。女の手からナイフが滑り落ち、そのまま背中に捻り上げる。ほぼ同時に駆け寄ってきた長身の少年がもう片方の腕を掴んで捻り上げ、二人一緒に女の背中を押さえ付けながら床に押し倒した。左右から女の背中に膝を乗せて動きを封じる。
 一瞬の出来事に、茂たちは唖然としてその様子を眺めた。ナイフを持った相手に一切臆さなかった。しかも躊躇いのない動きは、どう見ても少年のそれではない。妙に慣れている。
「弘貴、この人……」
「なんであんなことしたのよ!」
 背中を膝で押さえ付けられたまま、女が春の言葉を遮り、顔だけを向けて叫んだ。
「山下さん……」
 加害者である山下透(やましたとおる)の母親だ。
 茂が名前を呟くと、女は堰が切れたように喚き散らした。
「確かにあなたの家族を死なせたのはあの子よ! 飲酒運転なんて馬鹿なことしたんだもの、許してもらえるなんて思ってない、それはちゃんと分かってる! だからあの子は苦しんで悩んで、一日でも早くあなたに謝ろうと頑張ってるの! こんなことになったのは自分のせいだって、恨まれるのも一生車椅子の生活も警察に捕まるのも当然だって! あの子だって辛いのよ、それなのになんであんなことしたの!? あんまりよ!」
 わあっと声を上げて泣き叫ぶ女に、茂は困惑した。彼がそんな風に思っていたなんて。反省し、自分が犯した罪を受け入れてくれたのは嬉しい。けれど、あんなこととは何だ。
「あの……一体何のことを言っているのか……」
 躊躇いがちに口を開いた茂に、女が鋭い視線を投げた。
「とぼけないで! あの子の名前や携帯番号をネットに晒したのはあんたでしょ! しかも入院してる病院まで……っ!」
 思いもよらない言葉に、茂は目を瞠った。なんだ、それ。茂の隣で、恵美と真由が首を横に振り、何か必死に訴えている。
「待ってください、僕はそんなこと……」
「あんた以外に誰がいるのよ! 誹謗中傷の電話が毎日毎日かかってきて、病院に匿名の手紙まで送られてくるせいであの子は自殺しようとしたのよ!? 満足した!?」
 全員が息を詰めた。
 茂は見ないようにしていたが、義両親から、飲酒運転が原因で二人の犠牲者を出した悪質な事故としてニュースで取り上げられたと聞いている。しかし、加害者も被害者の名前も公表されなかったらしい。それにもかかわらず加害者の個人情報を知り、入院先まで知っているとなると、被害者遺族だと思われても仕方がない。だが、本当に身に覚えがないのだ。
「山下さん、僕は本当にしていません」
「うるさいッ!」
 茂の声を鋭く遮り、女は充血した目を見開いて言った。
「あんな汚い手を使うなんて、許せない……っ」
 低い声でそう呟いたとたん、背中にぞくりと悪寒が走り、女以外の全員が体を硬直させた。
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