第1話
文字数 3,324文字
1955年から発掘捜査が始まり、朱雀門、東院庭園、第一次大極殿が次々と復元され、現在でも復元工事や整備が進められている。
敷地の西に平城宮跡資料館があり、北側中央に
跡地の南側を東西に走る大宮通りから、朱雀門ひろばを横目に幅74メートルの朱雀大路を通り、鮮やかな朱塗りの朱雀門をくぐると、驚くのは目の前を横切る近鉄奈良線だ。
世界遺産の中を電車が走るという奇妙な光景になったのは、奈良線が敷かれたあとに平城宮跡が発見されたからだ。奈良市民の必要不可欠な足であるため、当時移設や迂回が困難でこのような形になったそうだが、現在は移設計画が進行している。
『八月十四日。設備の大規模点検、および特別神事のため、午後三時ですべての施設は閉館。また敷地への出入り口、駐車場は午後四時で閉鎖するため、全従業員はそれまでに退勤するように』
各施設にそんな通達がされたのは、夏休みに入ってからだ。それまでも設備点検で施設の休館はあっても、公園自体を閉鎖することはなかったため、一体何の神事だと、従業員たちの間で疑問と憶測が飛び交った。
駐車場は四カ所。平城宮跡資料館、朱雀門、遺構展示館、東院庭園、それぞれのすぐ近くにある。今から宗一郎たちが車を停めるのは、東院庭園近くの駐車場だ。外からの入庫ができないため、北側を走る104号線から敷地に入り、遺構展示館を通り過ぎて南へ下らなければならない。しかも五時近い今の時間は、通達通りすでに封鎖されている。だが。
出入り口の前に、門番よろしく黒いスーツの男が二人立っている。宗一郎が速度を落とすとこちらを見やり、心得たように手早く埋め込み式の車止めをいくつか地面に収納した。そして脇に避け、恭しく頭を下げた。
挨拶をするでもなく、労いの言葉をかけるでもない。無表情ながらも険しく、スーツ越しでも分かる鍛えられた体躯は、まるでSPを思わせる。
そんな男たちに何の疑問も持たず、宗一郎は車を乗り入れた。一方男たちは、完全に車が入ったことを確認して再び車止めを設置。さらに鎖を渡して完全に封鎖すると、そのまま徒歩で立ち去った。
普段なら、散策する観光客がそこここで見受けられるのだろうが、今ばかりは人っ子一人見当たらない。こうも広いと、清々しさを通り越して物悲しい。藍と蓮がいたら、声を上げて元気に走り回るのだろうが。
左手に広がる草原とも言える広場、右手に建つ遺構展示館や「
敷地内にあるせいか、こちらの駐車場の入口は封鎖されていない。宗一郎はゆっくりとハンドルを切り、駐車場へ車を入れた。収容台数は百台。ぽつんと停車している、一台の神戸ナンバーの車の隣に滑り込ませた。
「お疲れ様でした」
「ああ」
車から降りると後部座席のドアを開けて、やや縦長のバッグをそれぞれ持ち出す。
東院庭園は、国の特別名勝にも指定されている日本庭園だ。宴や儀式が催されていた場所で、日本庭園の原型とも言われ、逆L字の形をした池を中心に建物や橋が配置されている。
のんびりと青空に映える朱塗りの反橋を渡り、正殿を眺め、澄んだ水面を覗きながら、ここでどんな歌を詠んだのだろうなんて、遠い雅な時代に思いを馳せられないのが残念だ。
駐車場を出て左へ、少し行ってもう一度左へ曲がると、正面に庭園への入口がある。その手前の左への脇道を進むと、目の前に公衆トイレがあり、右へ曲がる小道がある。鎮守の森を左手に見ながら右へしばらく行くと、
宗一郎と明は足を止めると姿勢を正し、一礼。示し合わせたように顔を上げて、階段を上る。
青々と茂った枝葉に頭上を覆われ、両脇に灯籠を携えた石造りの鳥居をくぐると、コンクリートで整備された緩やかな坂道が続いている。空の青と木々の緑が美しいコントラストを見せ、空気は澄んでいる。幾分か涼しさを感じられるが、葉の隙間から差し込む眩しい日差しはやはり熱い。濃い土の香りが鼻腔をくすぐる中、蝉の鳴き声が雨音のように降り注ぎ、けれど人の声や気配はない。喧騒から離れ、自然と口をつぐんでしまう静謐な空間を、宗一郎と明は黙って進む。
しばらくすると、右手に瓦屋根が乗った白壁が見えてきた。開かれた門扉の前に、装束をまとった初老の男性が佇み、壁は奥へと続く。普段は毎月一日と十五日に開門するのだが、今日ばかりは別だ。足音に気付いた彼が体ごとこちらを振り向いて、深々と頭を下げた。宇奈多理坐高御魂神社の宮司だ。
「お疲れ様でございます。お待ちしておりました」
彼には事情を知らせてある。当主の座に就いてから顔を合わせたのは数えるほどだが、その時見た温厚な笑みからは想像できないほど緊張していることが分かる。
二人は足を止め、宗一郎が言った。
「場所をご提供いただき、感謝します」
「とんでもございません。どうぞこちらへ」
宮司は手を差し出して、さっそく門扉の中へと案内した。
門をくぐると、白石で囲まれた参道は玉砂利が敷き詰められ、右手には灯籠を携えた手水舎、左は苔生したちょっとした広場になっていて、奥には集会所程の小ぢんまりとした建物がある。そして正面には朱塗りの鳥居が建ち、手前にはまだ頼りない細い松が植わっている。手水舎で口をすすいで手を洗う。
鳥居をくぐった先には、鮮やかな朱塗りの本殿。流造の大きくせり出した前方の屋根は、今にも襲いかかってくるのではないかと思うほどの迫力だ。境内社(摂社・末社)は両脇に二社ずつ鎮座している。
創建年数ははっきり分かっていないが、
宗一郎と明は本殿の前で足を止め、荷物を地面に下ろすと姿勢を正した。息の合った二礼二拍手。小気味良い拍手が境内に響く。一礼し、しばらく頭を垂れると、ゆっくり持ち上げた。
と、不意に緩やかな風が三人の間を吹き抜けた。とたん、大合唱していた蝉が鳴き止み、囁くような葉音に境内が包まれる。
まるで、落ち着きなさいと言われているような、そんな柔らかくて優しい風だった。
明は目を閉じて、静かに息を吸った。澄んだ空気が肺を満たし、全身にいきわたる。知らず知らずのうちに緊張していたのだろうか。息を吐き出すとふっと肩から力が抜け、頭が冴えていく。
「明」
落ち着いた声に瞼を持ち上げると、いつもと同じ、冷静な黒い瞳がこちらを見ていた。この人は、緊張することなどあるのだろうか。
「はい」
小さな敗北感を覚えて荷物を手にし、踵を返す。
「こちらをお使いください」
そう言って案内されたのは、先程の集会所程の建物だ。やはり社務所らしく、二間続きの和室があった。
宮司の手を借りて着替えを済ませ、境内を出て来た道を引き返す。来た時はうるさく鳴いていた蝉が、今は控え目だ。
宮司を先頭に坂を下り、一の鳥居を抜けて振り返る。宗一郎と明が一礼を済ませると、宮司が言った。
「どうか、お気を付けて」
そう言って深々と頭を下げた宮司に目礼し、二人は身を翻した。