第10話

文字数 1,119文字

 切り立った崖の上に、紫苑は佇んでいた。
 島の裏側に民家はない。穏やかな波が崖にぶつかり白い水飛沫を上げる。空に輝く太陽は、地上に強烈な日差しを降り注ぐ。
 ここから見える風景は、あの頃と決して変わってはいない。どこまでも広がる空は高く青い。千切れてはあてもなく流れる雲は白く、気ままに吹く風は緑と潮の香りを運び去ってゆく。自然は自然のままに。あるがままに、今目の前に広がっている。
 けれど、少し視線をずらせば、あの頃にはない物が溢れ返っている。人も建物も食べ物も動物も響く音さえも、初めて目にするものばかりだった。空気は異臭で鼻が曲がりそうだった。空は濁り、鮮やかな山々の緑や土の色は見たこともない色で塗り替えられ、昼も夜も騒がしい。
 本当にここは日の国なのかと疑った。まさか、千年以上も後の時代だとは考えもしなかった。
女の式神の術で、全身ずぶ濡れだ。だが今はそんなことどうでもよかった。紫苑は腕に抱えた主に視線を落とした。
「何故、今頃……」
 もう再び会うことはないだろうと覚悟を決めたのは、千年以上も前。
 ゆえに封印が解かれ柴の封印場所を知らされた時、高揚したのは事実だ。しかし同時に迷いも生まれた。主が苦悩する姿を、一番近くで見ていたのは自分だから。
 封印から解き放てば、主はまたあの頃と同じように苦悩するのか。そう思ったらすぐに決断できなかった。だが、また会いたいとも思った。誰よりも美しく、強く、実直で優し過ぎる、たった一人の主に。
 散々迷って、結局己の欲に負けた。
 今腕の中で眠る主は、目覚めたらどんな反応をするのだろう。叱責されるだろうか。それとも、再会を喜んでくれるだろうか。
 ふと、先ほどの少年の姿が脳裏を横切った。まだ少し幼さが目に付いたが、おそらく最後に見た影綱と同じ年頃だろう。自然と眉間に皺が寄る。
 紫苑はゆっくりと顔を上げ、空を仰いだ。
「お前は、後悔したか? 私と同じように……」
 今さら後悔しても遅いのは分かっている。自分の欲に負ける前に気付くべきだった――影綱と、同じ過ちを犯してしまうことに。
 波の水飛沫の音に混じって、千年前にはなかった音が耳に入った。
 崖の下、数メートル先に小型の船舶が滑り込んできた。何度か同じ場所を旋回するとエンジンが切れた。運転席で光が三度ほど点滅を繰り返した。合図だ。
 封印を解かれた後、奴が言った。
『柴を連れてくると約束するなら、封印場所を教える』
 主の復活を遂げた今、奴らの言いなりになる義理もなければ殊勝な性格でもない。だが、千年もの時を経た今の時代の情報と、何より主の食事が欲しい。
 紫苑は主を抱えたまま、崖から飛び降りた。

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