第11話

文字数 3,819文字

 と、敷地の入口から待ち合わせた人物がやってきた。おどおどと背中を丸め、こわばった表情できょろきょろと視線を泳がせていて、落ち着きがない。それもそうだ。場所を指定されたからといっても、いつ狙われるのか分からないのだから。
(たける)
 下平が名前を呼ぶと、河合尊は視線を寄越した。わずかにほっとしたように顔を緩め、小走りに寄ってきた。下平は吸いかけの煙草を灰皿に放り込みながら車を指差して、足を踏み出す。
 それぞれ車に乗り込んだ。
「それ、お前の分な」
 ダッシュボードの上に置いていたお茶のペットボトルを見ながら言ってやると、尊はありがとうございますと小さく礼を言った。
 以前より少し痩せた、というか、やつれたように見える。
「尊、ちゃんと飯食ってるか?」
 尊がシートベルトをしたことを確認して、下平は車を発車させた。
「……あんまり、食欲なくて……」
 蚊の鳴くような声で答えながら、尊はさっそくペットボトルの蓋を捻る。喉を鳴らしてお茶を飲み、長く息を吐き出した。緊張で喉が渇くのだろう。
 夕方、尊のもとに本山涼(もとやまりょう)の携帯から再びメッセージが入った。内容は、「今夜九時、紅葉峠展望台(もみじとうげてんぼうだい)。来なければお前の家族や友人を殺す」というもので、間違いなく菊池雅臣からだ。
 市内近隣に展望台は多いが、そんな場所あったかと調べると、南丹市八木町の山中にある小さな展望台らしい。口コミや投稿数はそう多くなく、どうやら穴場スポットとされているようだ。
南丹市は、京都府中部に位置しており、東西に長いため京都府を南北に分断する形をしている。日本の音風景百選にも選ばれた「るり渓」、重要伝統的建造物群保存地区に指定されている「かやぶきの里・北村」、桜や紅葉の名所となっている「大野ダム公園」などで有名だ。そして件の展望台からは、亀岡市の亀岡盆地が一望でき、春には新緑、秋には紅葉、また冬になると雲海が広がり幻想的な風景が望めるそうだ。
 ここからだと有料道路を使って一時間もかからない。指定された時間には十分間に合う。
 ペットボトルを両手で握ったまま俯いた尊を一瞥し、下平は尋ねた。
「お前、どうやって出てきたんだ?」
 尊は姿勢を変えず、ぼそぼそと答えた。
「お母さんは、ご飯作ってた。お父さんがそろそろ帰ってくるから、その前に出なきゃと思って、こっそり出て、別の道から」
 なるほど。だから待ち合わせの時間より早かったのか。
「てことは、何も言って来なかったのか」
 下平の質問に、尊は首を横に振った。
「手紙、置いてきた……あのことも、書いた」
 カツアゲの件か。
「ん、お前まさか展望台のことも書いたのか?」
「さすがにそれは書いてない。書いたら、お母さん絶対来るから」
 さすがによく分かっている。だが、手紙を読んだあとが心配だ。大騒ぎどころか卒倒するかもしれない。父親が宥めてくれればいいが。
「俺……」
 尊は、背中を丸めてペットボトルの蓋に額をくっつけた。
「……死にたくない……っ」
 懇願するように喉の奥から絞り出したか細い声が、車内に響く。赤信号で停車し、下平は尊を見やった。
「死にたくない……っ! 何でもする、取った金もちゃんと返す、土下座して謝る、だから……っ」
 声も手も背中も、小刻みに震えている。かつて人を脅し、暴行し、金を搾取していたとは思えないほど、その姿は頼りなく弱々しい。心の底から反省していることが、よく分かる。
 下平は、赤信号に向き直って静かに言った。
「同じことを、菊池も思っただろうな」
 尊がぎゅっと体全体を縮ませた。
 金を渡しながら、彼女だけには手を出さないで欲しいと訴えたはずだ。暴行を受けながら、死にたくないと願ったはずだ。
 逆の立場になって、やっと相手の気持ちが分かった時には、もう手遅れだ。
 エンジン音を響かせて、バイクが隣に滑り込んできた。重低音が車内の空気を震わせる。やがて信号が青に変わり、けたたましい音を立ててあっという間に走り去った。下平はゆっくりとアクセルを踏み込んだ。
 松井桃子(まついももこ)を人質に取られた雅臣が、今度は尊の家族や友人を人質に取った。彼女に手を出されたくなければ金を持ってこいと言われた彼が、今度は家族や友人を殺されたくなければここへ来いと命じた。犯人たちの標的基準から考えると脅しだろうが、何も知らない尊には効果抜群だ。しかもやり方を完全に模倣している。
 ただ、要求しているのは金ではなく、尊の命。
 下平は、ハザードを点けて車を路肩に寄せた。突然停車したことに、尊が顔を上げて不思議そうな顔で見やる。ジャケットの内ポケットを探って取り出したのは、あの可愛らしいお守りだ。
 雅臣は確実に悪鬼を使ってくる。正直言って、こちらも命は惜しい。廃ホテルの時のように悪鬼が見えればいいが、普通は見えないのだ。下平はお守りの紐を解き、護符を包んでいる和紙を開いた。大河には悪いが、明の護符の方が確実そうだ。
 下平は一旦護符を開いて確認し、畳み直して明の描いた護符を尊に差し出した。
「これ持ってろ。すげぇ効果あるから、絶対に落としたり失くしたりするなよ。いいな」
 ほら、と言ってさらに差し出すと、尊は恐る恐るといったふうに受け取った。下平が和紙に大河の護符を包み直してお守り袋に入れ、内ポケットに収めて再び車を発車させるまで、尊は護符をじっと見つめたまま、動かなかった。
「……ありがとうございます」
 しばらくしてぽつりと告げられた礼に、下平は「おう」と軽く答えを返した。
 尊の自宅がある南区からだと、亀岡市を経由して南丹市に入った方が早い。下平はナビに従ってひらすら車を目的地へと走らせた。
 途中、尊の携帯に何度も母親から着信があり、しばらくしてから父親からも着信があった。尊はそれに出ることなく、何度目かの着信が切れたあと、短くメッセージを送っていた。そしてサイレントモードにして尻のポケットに突っ込み、車窓を流れる風景を黙って眺めた。
 亀岡市内を北上して南丹市に入り、市内を横切って車は山道へと入る。道なりに行くと長い紅葉山トンネル、しばらく進んで今度は梅ノ木谷トンネルを抜ける。一旦府道50号線に出て右折、そして少し進んでから右手に伸びる、両側を畑に挟まれた道へ入る。そこからはまた道なりだ。
 見渡す限り山と畑ばかりで、車もほとんど通っておらず、街灯もぽつぽつとしか設置されていない。喧騒とは無縁な、長閑な田舎町。こんな状況でなければ、星でも見上げて一服したらさぞ気持ちいいだろうに。ビールがあればなお最高だ。
「尊、酔ってねぇか?」
 暗い上にやたらと曲がりくねっているため速度はかなり落としているが、念のため聞いてみる。
「うん」
 尊は窓の外を眺めたまま、ぽつりと呟いた。あれからほとんど口を開かない。片手にペットボトル、片手に護符を握り締めたまま、ずっと流れる風景を見ている。
 道幅は、ぎりぎり車二台がすれ違えるかどうか程の幅しかない。しかもどちらか一方は脇に避けて停車しなければ無理だ。だが、ネットに投稿されていた写真はほとんど昼間のもので、夜景より昼の絶景が見どころらしい。この時間に訪れる人はいないだろう。
 と思っていると、展望台まであと数十メートルほどの地点で、叫び声らしき甲高い人の声と、車のエンジン音が響いた。人がいたらしい。戯れの声か、あるいは。緊張が走る。
 尊が今にも泣きそうな顔をして、護符を握る手を胸に当てた。
 前方からヘッドライトの明かりが近付いた。速い。ちょうど右側は、待機場なのか小さな広場になっている。衝突なんぞされては洒落にならない。下平がそちらへと車を入れると、すぐに一台の車がかなりの速度で通り過ぎた。ほんの一瞬だが、男が二人乗っていたように見えた。しかも、恐怖に引き攣った顔で。
 まさかという懸念が濃くなる。
 尊を横目で見やると、先程の男たちが見えたらしい。俯いた顔は強張り、竦んだ体は小刻みに震えている。時計はまだ九時を指していない。雅臣が来ているとしても、少し待ってもいいか、と思ってふと違和感を覚えた。
 さっきの叫び声は、女性の声だった。
「まさか……!」
 一人ごちて車を急発進させた下平に、尊が情けない顔を上げた。後部座席までは見えなかったから、そちらに乗っていたのかもしれない。きっとそうだ、そうであって欲しい。
 まさか、置き去りにしたなんてこと――。
 ない、と思う代わりに、舌打ちが口から飛び出した。
「あいつら……!」
 ヘッドライトに照らされて見えたのは、奥の展望デッキらしき場所に立つ人物と、手前にある駐車場で身を寄せ合ってへたり込んだ二人の女性の姿だった。
 女性二人がライトに気付いて振り向き、腰が抜けているのか立ち上がることなく、しかし両手を地面について身を乗り出した。
「お前は待ってろ」
 下平はそう言い置いて急停車し、ライトを点けたまま車から飛び出した。展望デッキに立つ人物を注視しつつ、女性らに駆け寄る。
「大丈夫か」
 女性たちの側でしゃがみ込むと、恐怖で声も出ないらしい、真っ青な顔で泣きながら下平にしがみついた。胸に顔をうずめ、体をガタガタと震わせるその姿から察するに、人ならざるものを見せられたのだろう。
 食らわせずに追い払おうとしたことは褒めてやる。だが。
 下平は、展望デッキに立つ人物を睨みつけ、静かに問うた。
「菊池雅臣だな」
 下平の問いかけに答えるように、雅臣の手の中に霊刀が現れた。
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