第8話

文字数 5,267文字

 すっかり冬の様相を呈した、一カ月後。
 贔屓にしている作家は老齢で、新作が発表されるのは実に七年ぶりだった。発売されたのは水曜日だが、できるなら一気に読みたい。発売日に購入してもいいが手元にあると読みたくなるので、金曜日に買うことにした。
 終業後、夜通し読むか土曜日に一日かけて読むか、どちらにしようと迷いつつ、怜司は会社近くの書店に足を運んだ。
 この時間帯は、学生もいるがサラリーマンやOLの姿が目立つ。特に週刊誌や男性向け雑誌、女性ファッション誌のコーナーは、体を縮めなければ通れないほど混雑している。通路は人が行き交い、レジ前に客が列を成し、横のカウンターでは店員が写真集をプレゼント包装している。問い合わせを受けたらしい店員が、メモを片手に早足に怜司の横をすり抜けた。
 怜司は、にぎわう店内を迷うことなく、目的のコーナーへ向かう。
 天井からは「新刊・話題書」と書かれた大きな看板がぶら下がり、その下の背中合わせに設置された棚には所狭しとたくさんの本がひしめき、人だかりができていた。店員の手作りだろうか、棚の上に「五十嵐東吉(いがらしとうきち)、七年ぶりの最新作!」と印字された横長の置き型ポップが鎮座し、すぐ下の段には新作と共に既刊本が面陳されている。
 場所を確認したはいいが、こうも隙間がないと手が出せない。声をかけてちょっとだけ避けてもらうかと思った時、目の前の中年男性が本を手にその場を離れた。二列に分けてうずたかく積まれた五十嵐の新作が見える。怜司はすかさず空いた場所に入り、手を伸ばす。
「あ」
 隣に立っていた女性が小さく声を漏らした。思わず顔を向けた視線の先には、桂木香穂。本にしか注意を向けていなかったせいで気付かなかった。五十嵐の本を大事そうに両手で抱え、目を丸くしてこちらを見つめている。
 意外だった。五十嵐東吉は、昭和に活躍したミステリー作家だ。平成に入ってからはほとんど作品は発表されておらず、そろそろ引退かと囁かれていたため、新作が出ると知った時は心が躍った。派手な演出はなく粛々と物語が進むけれど、ラストのどんでん返しはいつも驚かされる。登場人物の背景や心情、情景が丁寧に描写され、叙情的な筆致は、冷静さを保っているつもりでもつい引き込まれてしまう。
 先入観で悪いが、若い女性が五十嵐を知っていること自体が驚きだ。
「お、お疲れ様です」
 なんとか絞り出したといったふうな声で挨拶をされ、怜司は我に返った。
「どうも、お疲れ様です」
 会社の人間と社外で会ったからといって、話をする必要はない。伸ばしかけて宙で止まったままの手を、改めて本へ伸ばす。
「さ、里見さんも」
 持ち上げたところで、香穂が小声で、しかし意を決したような声色で言葉を発した。
「五十嵐先生の作品、お好きなんですか?」
 振り向くと、何やら緊張した眼差しが真っ直ぐこちらを見据えていた。気を使うことないのにと思いながら「ええ」と頷く。すると、香穂が分かりやすく相好を崩した。春の陽射しのような、ふわりと優しい笑み。こんなふうに笑うのかと思った。
 香穂が、手の中の本へ目を落とした。瞳から緊張が薄れて消え、懐かしそうな色が浮かぶ。
「あたしも大好きなんです。高校生の頃に、読書好きの幼なじみから借りたのが初めで。今は、身近に五十嵐先生のこと知ってる人がいないから、ちょっと寂しいなって思ってて……」
 香穂ははたと気付き、途中で言葉を切った。
「す、すみません、べらべらと」
「ああ、いえ」
 香穂の気持ちは、分かる。
「――俺も」
 表紙を見つめてふと口を開いた怜司へ、香穂がゆっくりと顔を向けた。
「初めて読んだのは、高校の時でした」
 父が読書家で、蔵書の中の一冊だった。友人たちは、五十嵐の作品はおろか名前すら知らず、残念だと思ったことがある。けれど、好みは人それぞれで、読んでみろと薦めることはなかった。
 思いがけない場所で蘇る、昔の記憶。あのシーンが、あの表現が、あの台詞が、あのトリックがと感想を伝えるたびに、嬉しそうに頷いて聞いてくれた父は、もういない。
 不意に、空虚感が胸に去来した。
「あの、すみません……」
 後ろから遠慮がちに声をかけられて我に返る。二人一緒に振り向くと、初老の女性が「それ」と言いたげに五十嵐の本を指差した。
「あ、すみません」
 声が揃った。数歩下がって脇に避けると、女性は迷う素振りもなく一番上を持ち上げ、その下の本を取って立ち去った。
 らしくない。感傷に浸るところだった。
 怜司は気持ちを切り替え、香穂を見やる。
「じゃあ」
 そっけない一言を残し、踵を返した直後、「あのっ」といつかと同じように腕を掴まれた。振り返ると、香穂が真っ直ぐな目で見上げていた。
「里見さん、帰ってすぐに読みますか?」
「……は?」
「良かったら、一緒にご飯、どうですか」
 思いもよらない誘いに、怜司は眼鏡の奥の目をしばたいた。もしかして、以前のことをまだ気にしているのだろうか。
 そう怜司が尋ねようとする前に、香穂が強い口調で付け加えた。
「割り勘で。五十嵐先生のお話もしたいし」
 何だか今日は押しが強いな。確かに、夜通し読むか明日にするか迷ってはいたが。ふと、視線を感じて怜司は周囲を見渡した。近くにいた立ち読み客をはじめ、少し離れた場所では三人組の女子高生やカップル、通りすがりのサラリーマン、そしてストッカーを開けて在庫を確認している店員までもが、期待顔でこちらをちらちらと盗み見している。怜司と目が合うとさっと逸らした。
 注目の的だ。
 声量は抑えていたにせよ、立ち去ろうとした男を女が引き止めていれば、目立って当然だ。何せここは本屋で、いるのは一番目立つ場所に設置された新刊コーナーなのだ。マジか。怜司は心で盛大な溜め息をついた。とにかく長居は無用だ。さっさと買って立ち去らねば。
「とりあえず、買って外に出ましょう」
 怜司がさらに声を抑えて提案すると、香穂ははいと満面の笑みで頷いた。女子高生から控え目でかつ色めき立った悲鳴が上がる。何を想像したのだろう。
 川口の話では気遣いができるという話しだったが、もしや仕事中にだけ働くスキルなのか。
 怜司は少々疲れた顔でレジに向かう。その後ろを、顔を緩めた香穂が続いた。
 結局、香穂があまりにも必死な顔をするものだから、近くのファミレスで夕飯を一緒にすることにした。一度付き合えば気が済むだろう。そう思ったのだが、想像以上に話は盛り上がった。
 一番好きな作品、当たっていた推理、ミスリードされた一文、感動した場面や舌を巻いた巧みな表現方法などがいちいち同じで、話題は途切れることなく続いた。読むなら一気に読んで、何度も読み返す癖も。
 こんなに語ったのは、父が亡くなって以来だ。
 香穂がお手洗いにと席を立ったことをきっかけに時間を確認すると、二時間ほど経っていた。九時を回っている。これ以上遅くなると帰り道が心配だ。
 引き上げ時かなと思い、ふと残念に思っている自分に気が付いた。けれど、いっときの感情だ、久しぶりだったから気が高ぶっているだけだと、自分に言い聞かせる。
 香穂が戻ってきて、怜司がそろそろ出ましょうと言って伝票を取ると、彼女は連絡先を交換して欲しいと言った。少し迷った末に、交換した。怜司がまとめて払い、店を出てから割り勘にする。香穂は千六十五円。千円でいいと言うより先に、細かいのがあると言われたので、押し問答をせずに素直に受け取ることにした。
 香穂は千円を先に渡し、小銭を漁りながらふと手を止めた。そして、七十円を怜司の手に乗せる。おつりは五円。あいにく持ち合わせていない。
「五円玉がないので、来週か」
「いえっ」
 どこかで両替して、と言う前に、香穂が手の平をこちらに向けて言葉を遮った。
「その五円は、受け取ってください」
 少し強めの声は、何となく有無を言わせない迫力があった。たかが五円、されど五円。
「……分かりました。じゃあ」
 怜司がそう言って財布にしまうと、香穂は満足そうな笑みを浮かべた。
 香穂と別れ、帰路に着いて考えた。
 ファミレスにいる間、香穂は楽しそうに笑っていた。連絡先を交換して欲しいと言ってきたのも彼女だ。けれど、あのやり取り。会社では会いたくない、ということだろうか。しかし一カ月前、自販機の前で話しかけてきたのは彼女からだった。単純に、よほど小銭が多かったのか、あるいは五円くらいという意味か。しかし、それならそうと言うはず。あの口調と声色は、拒否に近かった。
 女性の考えることは、よく分からない。
 怜司は小さく息をついた。
 そもそも、自分も自分だ。誘われるがまま一緒に食事をして、連絡先まで交換して。人気者に関わって余計なやっかみを買いたくないと思っていたのに。しかも、彼女の些細な行動をこんなにも気にするなんて。確かに、香穂と一緒の時間は楽しかったけれど――。
 一番分からないのは、自分だ。
 その夜、香穂からメッセージが入った。「今日は付き合っていただいてありがとうございました。こんなに五十嵐先生の作品についてお話ししたのは久しぶりです。本当に楽しかったです」。無事帰り着いたらしい。「こちらこそ、久しぶりで楽しかったです。ありがとうございました。おやすみなさい」と返す。返信があったのは、少し経ってから。「おやすみなさい」。
 だらだらとメッセージを長引かせるのは好きではない。だからといって素っ気なさ過ぎただろうか。などと考える時点で本当にどうかしている。
 怜司は自嘲的な溜め息をついた。
 次にメッセージが来たのは、翌日の夜十時頃。ソファで熱いコーヒー片手に余韻に浸っていた時だった。「読み終わりました!」。興奮気味の報告に、思わず苦笑いが漏れた。わざわざ連絡を寄越すなんて。
『こちらも読み終わったところです』
『よかった。やっぱりすっごく面白かったですね』
『はい。面白かったです』
 と送ったところで、一旦途切れた。終わりにしては中途半端だが、催促するほどせっかちでもないし、これで終わりならそれでも構わない。それより、新しい作品を読むと、どうにも昔の作品も読み返したくなるのは何故だろう。あれか、それともあっちかとタイトルを思い浮かべる。
 とりあえず風呂に入って落ち着いて、それからじっくり考えよう。そう思って腰を上げた時、メッセージが入った。
『会って、お話ししたいです。次の金曜日、お時間ありませんか?』
 携帯を持つ手に、自然と力が入った。
 よく考えろ。相手は桂木香穂だ。半年で三人から告白されるほど人気のある女性で、面倒な先輩もいる。彼がどこまで本気なのか分からないが、絡まれるのは確実だ。他にも彼女に好意を寄せている男はきっといる。やましいことはなくても、二人で会っているところを目撃されれば、あることないこと噂が立つ。面倒事は、勘弁だ。
『すみません』
 それだけ打って、送信した。自分の送った文字が表示され、既読が付く。
 あの日の香穂の姿が脳裏にちらついた。まずは店選び。どこか行きたいところはあるかと聞くと、彼女はどこでもいいと濁すことなく、しかし遠慮がちに近くのファミレスを挙げた。視界が遮られているため、混み合っていても気にならないらしい。
 メニューを選ぶのにも時間はかからなかった。店員への対応も丁寧で、いただきます、ごちそうさまでしたときちんと挨拶もできる。箸の持ち方も綺麗で、米粒一つ残さず綺麗に平らげる。声量は大きくなく小さくなく。興奮していても大きな声で笑うことなく、口元を押さえて噛み殺す。話す時はきちんと人の目を見て、絶妙なタイミングで相槌を打つ。普通だと言われればそうだが、その普通のことが当たり前にできる女性なのだ。
 ころころと変わる表情、テンポの良い会話、聞き心地のよい声。そして、あの柔らかい笑顔で、自分の話を楽しそうに聞いてくれる。
『土曜日なら、空いています』
 自分でも驚くくらい素早く打って、勢いのまま送信した。我に返ったのは、既読が付いてからだ。何やってんだと一人ごちても、もう遅い。
『嬉しいです。ありがとうございます。ご希望の時間帯や場所はありますか?』
 最後はなんだか他人行儀な文面だ。観念して、できれば会社から離れた場所が、と思ったが土曜日だ。それに、人混みが苦手な彼女に選んでもらった方がいいだろう。
『桂木さんが好きな場所で構いません。時間は午後一時で』
『分かりました。では、決まったらまたご連絡します』
『了解しました』
『おやすみなさい』
『おやすみなさい』
 怜司はメッセージを閉じて、スケジュールアプリを開いた。来週土曜日の、午後一時。打ち込みながら、やり取りを頭の中で反復する。
 素直な感情にお礼のひと言。何より、無駄のない文章。自分的に、好感が持てるポイントだ。
 そう思った自分に驚いて、怜司は何かを隠すように携帯を伏せてテーブルに置いた。立ち上がり、風呂場へ向かう。
 これは違う。単に好きな本の話をしたいだけ。ただそれだけだ。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み