第2話

文字数 6,787文字

 ガツッ、と骨がぶつかり合う音が絶え間なく響く。
 普段ならば、大学の図書館に出掛けレポート作成に勤しんでいる時間だ。しかし今日は休館ということもあり、早朝から適度に休憩を入れながら、左近(さこん)を相手にひたすら体術の訓練を続けていた。
「遅い!!」
 左近の鋭い指摘が飛んだと同時に、腹に重い蹴りが入った。衝撃で後方へと地面を滑る。痛みに顔を歪め、肩で息を整えながら左近を見やると、余裕顔でこちらを見下ろしている。
 神の眷族である式神相手に勝てるとは思っていない。元より身体能力や動体視力の差は歴然だ。けれど、訓練にはうってつけの相手であり、しかも好戦的な左近は容赦がない。短期間でレベルを上げなければならない今の状況で、容赦するなという指示は、優しく慕ってくれる椿(つばき)には向いていない。その証拠に、訓練を始めてからずっと、縁側から心配顔でこちらを見守っている。
「宗史、少し根を詰め過ぎではないか? 動きが鈍っておるぞ」
 溜め息交じりの左近の指摘に、宗史は顎から滴り落ちる汗を手の甲で拭った。
「だからこそだ。実戦では、疲れたからと言って休めないだろう」
 深呼吸をして息を整え、半身に構える。左近が呆れたように溜め息をついた。
「私は構わぬが、お前が倒れでもしたら椿から恨まれるのは私なのだぞ」
 痛いところをつかれ、ちらりと椿を一瞥する。両手で握り締めたタオルを抱き締めるようにして、今にも泣きそうな顔でこちらを見ている。そんな顔をされるとやり辛い。
 宗史は息を吐き、構えを解いた。
「分かった。休憩しよう」
 言うや否や、椿が駆け寄った。
「宗史様、お怪我はありませんか」
「大丈夫だ、ありがとう」
 差し出されたタオルを受け取りながら笑みを浮かべてやる。
 以前、椿を召喚せずに左近と手合わせをし、蹴りを防いだ衝撃で腕の骨にひびが入ってしまったことがあった。すぐに椿を召喚して治癒してもらったのはいいが、その間ずっと半泣きで小言を言われ続けた。女に泣かれると男としてはさすがに辛い。結果、式神と手合わせをする時は必ず召喚することを約束させられた。
「飲み物を頂いてきます」
 そう言って室内へと小走りに去った椿を見送り、今のうちにと宗史は汗まみれのTシャツを脱いだ。透けるほど濡れたTシャツを縁側に置き、体の汗を拭う。その様子を左近がまじまじと眺めた。
「やはり少々細いな。もう少し肉をつけても良いのではないか?」
「これ以上太ると動きにくい。今がちょうどいいんだよ」
 毎食きちんと食べているし間食もするが、訓練をするせいでどうしても肉が付かない。しかし筋肉は付いているし体力もある。特別問題はない。だが、体格の良い晴はもちろん、同じく細身の樹とすら比べると確かに細い。体つきだけで強さが左右されるわけではないが、コンプレックスではある。
 新しいTシャツに着替えて縁側に腰を下ろすと、椿が(さくら)を連れ立って戻ってきた。ペットボトルのスポーツドリンクを抱えている。
「桜。大丈夫なのか」
「うん。今日は体調がいいの。少し外の空気が吸いたくて」
 桜はそう言いながら宗史にペットボトルを渡し、隣にゆっくりと正座した。椿は宗史の背後に控える。
「左近と訓練してたの?」
「ああ」
「あまり無理しないでね。お兄ちゃん、すぐに無理しちゃうから」
 こちらもまた心配そうな眼差しを向けられ、宗史は苦笑した。
「大丈夫だよ、ありがとう」
 優しく頭を撫でてやると、桜はくすぐったそうに肩を竦めた。
 ペットボトルの蓋を開け、一気に半分ほど煽る。全身に水分が行き渡っていく。
 桜は、生まれた時から体の機能が弱く、長くは生きられないだろうと言われていた。それでも十七年、同じ年頃の少女たちと比べれば小柄ではあるが、生きている。体調を崩しやすく、体力もない。喘息持ちのため吸入薬が手放せないし、激しい運動もできない。さらに、過度の埃やストレスでも発作を起こすことがある。
 だから向小島(むこうこじま)に行った時、こんな風に自然に囲まれ、空気が綺麗で穏やかな場所でなら、散歩の一つくらいできるのではないかと思った。しかし長距離移動が必要になるため、そんな小さな願いさえ叶わないだろう。
「今日も暑いね」
 燦々と降り注ぐ太陽を眩しそうに見上げる桜を見やり、宗史はそうだなと頷いた。
「あまり陽に当たり過ぎるなよ」
「うん、平気」
 十七歳。健康な体ならば、学校に通って学業や部活動、学校行事を楽しみ、友人らと遊びに出かけたり恋をしたりと、青春真っ只中の年齢だ。しかし桜は、そのほとんどの時間を家の中、ベッドの中で過ごしている。
 できることなら、生涯桜の側についていてやりたい。今は恋愛に興味はないし、そんなことにかまけている暇もない。けれどいつか家を継いで結婚し、子を成さなければならない。結婚するなら桜のことを理解してくれる女性をと考えてしまうのは、やはりシスコンと呼ばれても仕方ないのだろう。
 宗史は再度ペットボトルに口を付けた。
 ふと、そのうち桜も誰かに恋をする日が来るのだろうかと思った。学校に行っていないとはいえ、晴や(はる)、寮の皆もいて全員面識がある。弘貴(ひろき)春平(しゅんぺい)、樹と怜司、(すばる)大河(たいが)。さすがに年が離れすぎた(しげる)はないだろう。もしも、もしもだ。この中の誰かと桜が恋をしたとしたら――。
 バキ、とペットボトルがひしゃげた。
 陽はともかく、晴はない。あいつにだけは渡せない。あいつの尻の軽さは自分が一番良く知っている。寮の皆は、内通者の問題はこの際置いておいて、一癖も二癖もあるが信用できる。陰陽師としても優秀で、仕事もきちんとこなしてくれる。だが、それとこれとは別問題だ。想像しただけでも殴り飛ばしたくなる。桜を任せるのなら自分より強い男しか認めない。
「お兄ちゃん? どうしたの?」
 ペットボトルを握り潰しかけた宗史を、桜が心配顔で覗き込んだ。ただの想像につい苛立ってしまった。
「ああ、いや何でもない」
 我に返って笑みを向けると、桜は不思議そうな顔で小首を傾げた。と、外から車のマフラー音が響いてきた。離れていても聞こえてくる、無駄にうるさいこの音は。
 宗史と椿と左近が同時に同じ方向へ顔を向け、桜が怯えたように宗史の腕に触れた。落ち着かせるように肩に手を回し、椿と左近に指示を出す。
「椿は桜を部屋へ。左近、父さんに報告を頼む」
「承知致しました」
「承知した」
 桜様お部屋へ、と椿は桜を連れて部屋へ、左近は宗一郎(そういちろう)の書斎へ向かった。
 宗史は忌々しげに眉を寄せ、小さく舌打ちをかましながら玄関の方へと回り込む。
 彼はいつも突然だ。
 以前は、寮に行く前には必ず連絡を入れていた。けれど、皆から「習慣だし連絡しなくてもいい」と言われ、しなくなった。しかし彼の場合、気が向いた時にふらりと訪れる。しかも連絡なしで。普通、人を訪ねる時は事前に連絡を入れるのが礼儀だろう。どんな教育を受けてきたのか、それとも立場ゆえの傲慢か。
 玄関の前でインターホンに手を伸ばしかけた彼の名を、宗史は酷く冷たい声で呼んだ。
龍之介(りゅうのすけ)さん」
 賀茂家氏子代表の一人である草薙一之介(くさなぎいちのすけ)の一人息子、龍之介は、明と同じ年であり同じ大学出身である。
 当時から彼は悪名高かった。親の財力と権力を笠に裏口入学を果たし、金使いも女癖も悪い。気に入らない奴は容赦なく嫌がらせをする。自分をふった女子学生の就職活動を、親のコネを使って徹底的に邪魔し就職浪人させただの、目をつけた女子学生の恋人に金を払って別れるように仕向けただの、ハニートラップを仕掛けて別れさせたなど、上げればキリがない。好みの女性に脅しまがいのことをして関係を持った――いや、持たせた女性は数知れず、中には妊娠させ中絶させた者もいるらしい。
 その上、寮の女性陣も皆被害者だ。見た目が派手な(はな)をはじめ、クールビューティーと言って夏也(かや)へ、癒し系と言って香苗(かなえ)へ、ツンデレと言って美琴(みこと)へも手を出した。手を握られ、肩や腰に手を回され、終いには数年前に流行った壁ドンやら顎クイとか言うやつで迫られた。全員体術の心得があるため速攻で叩きのめし、さらに全腕力を持って取り押さえた樹が「不審者だと思っちゃった。痛かった? ごめんね? でも君が悪いんだよ?」と威圧感たっぷりの笑みで脅した。とは言え、繰り返された愚行が両家を含んだ全男性陣の逆鱗に触れ、現在寮は出入り禁止になっている。ちなみに寮の皆からは「クソ龍」と呼ばれ、忌み嫌われている。
 そんな「クソ」がつく龍之介が、何度邪魔をされようと、「来るな」と言われようと諦めない女性が、賀茂桜その人だった。
「何か御用でしょうか」
 桜に会わせまいと、何度こうして阻止したか数えきれない。もういい加減学んで欲しい。
 人形の方がよほど表情があるのではと思うほど無表情で尋ねた宗史を、龍之介はわざとらしい笑みを浮かべて振り向いた。
「あれ、宗史くん。いたの?」
「ええ、自宅ですから。何か問題でも」
 宗史は扉から龍之介を遠ざけるように、無理矢理間に体を滑り込ませた。龍之介が数歩下がる。
「嫌だなぁ、勘違いしないでよ。そういう意味じゃないよ。桜ちゃんいる?」
「部屋で休んでいます。何か御用でしょうか」
「用ってわけじゃないけど、桜ちゃんの可愛い顔が見たくなってさ。いるなら上がるよ」
「駄目です」
 扉に伸ばした龍之介の手首を即座に掴む。龍之介は眉間に皺を寄せ、だがすぐに笑みを浮かべた。宗史の手を解きながら首を傾げる。
「何で? いるんだよね?」
「ですから、妹は今部屋で休んでいます。察してください。妹の体が弱いことは、貴方もご存知でしょう」
「だからさ、ひと目だけでいいんだって。桜ちゃんの麗しい寝顔をちょっと見たら帰るから、ね」
「駄目だと言っています」
 貴様が桜の名を口にするなこのクソ野郎、名が穢れるだろうが。という悪態を堪え、宗史は再度一蹴した。
 龍之介はおどけるように両手を肩まで上げ溜め息をついた。光沢加工されたスーツがいちいち光って鬱陶しいことこの上ない。ついでに似合ってもいない茶髪を頭皮ごと引っこ抜いてやりたい。何故この時期のこの時間帯にそのスーツを選択したのか理解不能だ。暑苦しい。
「もう、宗史くんは相変わらずシスコンだなぁ。俺は将来桜ちゃんの夫、つまり君の義弟になるんだよ?」
「家族一同承諾した覚えはありませんが」
 ついでに土御門家と寮の者も大反対間違いありませんが、と付け加えたい。そもそもどこからそんな話が出てきた。貴様が義弟になるくらいなら桜と心中してやる。
 嘲笑するように、やれやれと頭を振る龍之介の一挙手一投足が癪に障る。
 ここで無駄に押し問答をせずに、さっさと追い返さなければ。一度、龍之介が尋ねてきたとたん桜が発作を起こしたことがあり、それ以来この男の存在自体が病原菌のように思えて仕方ない。今すぐ敷地から出て欲しい。空気が穢れる。
 無表情で冷徹な目をした宗史と、このクソガキと言いたげな視線で見やる龍之介が睨み合う。
 宗史は長い溜め息をついた。桜を貶めるようでこの手だけは使いたくなかったのだが、こう粘られると仕方ない。少々時期は外れているが、この男の頭の出来なら問題ないだろう。
「龍之介さん」
「何? もしかして会わせてくれる気になった? 嬉しいなぁ、さすが宗史くん話が分かる」
 勝手に解釈し再び扉に手を伸ばした龍之介の腕を掴み、宗史は神妙な口調で告げた。
「実は、今妹の顔は風船のように膨れ上がって見るに堪えない状態なんです」
「……は?」
 龍之介が目をしばたいて、宗史を見やった。
「おたふく風邪にかかりまして。幼少の頃にかかっていなかったので、症状が重いんです。稀に、一度かかっても免疫ができていなくて二度かかる人もいるらしいんですが、貴方は大丈夫ですか? 男性の場合、精巣炎を発症して不妊につながることもあるらしいので。ちなみに俺たちは病院で免疫検査をしてもらったんですが。いかがでしょう?」
 説明が終わったとたん、龍之介は掴まれた腕を振り払い、数歩後退しながら両手で口を覆った。
 おたふく風邪の感染経路は、咳、くしゃみ、会話などの飛沫感染だ。桜と接触している宗史もウイルスが付着している可能性は大いにある。その宗史と至近距離で会話をしていれば感染するかもという自己防衛が働いたようだ。
 龍之介は口を覆ったままじりじりと下がった。
「そ、そういうことなら仕方ないね。今日のところは失礼するよ。じゃっ」
 へっぴり腰で踵を返し、途中で躓きながら脱兎のごとく走り去った。
 門の外へと消える龍之介の背中を見つめ、宗史はふんと鼻を鳴らした。この程度の脅しで逃げ帰るくせに桜の夫になるだの、笑わせるなと言いたい。
 塩を撒いて清めておくか、と庭へ引き返そうとした時、宗一郎と左近が庭からひょっこり顔を出した。いつからそこにいた。
「見事だ、宗史」
「よくもそんな嘘が咄嗟に出るものだな」
 満足気な笑みの宗一郎と呆れ気味の左近が、うるさいマフラーを鳴らしながら門前を走り去った真っ赤なスポーツカーを見やりながら歩み寄ってきた。
「それなりに策は講じてある。それに、おたふく風邪の症状については本当だ。でも」
 宗史は一旦言葉を切り、深い溜め息をついた。
「桜を貶めるようでさすがに気が引けた」
「桜の顔が見るに堪えないほど腫れていると?」
「桜の顔がどれだけ腫れようが、俺がそんなこと思うはずがない。気分が悪い」
 しかめ面でぼやいた宗史を見て、左近が宗一郎に視線を投げた。
「大丈夫なのか? この溺愛ぶりは」
「心配ない。自慢の息子だ」
 しらっと言い返され、左近は胡乱な目で宗一郎を見やった。
 ぶつぶつとぼやきなら庭へと戻る宗史の後を、宗一郎と左近が続く。
「ところで宗史。お前、午後から寮へ行くんだろう。頼まれてくれるか」
「何でしょう」
「早めに大河の様子を報告してくれ。明が、今夜樹と怜司の仕事に同行させたいと言ってきた」
「どんな仕事ですか?」
「おそらく浄化だ。真言を覚えたのなら、現場で行使させる必要があるだろう」
 庭に戻り、飲みかけのペットボトルを開けた。
「さっそくですか」
「ああ。略式の術を行使したのなら、すぐにモノにするだろうからな」
「分かりました」
 確かに、略式とはいえ独学で術を行使するくらいだ。感覚は分かるだろうし、樹の特訓のお陰で霊力のコントロールも慣れているはずだ。
「晴にも伝えてある。頼んだぞ。それとだ」
「はい」
 ふっと噴き出した宗一郎に、何が言いたいのか察した宗史が息を吐いた。
 昨日、帰宅してから樹の様子を含め寮の皆の反応と共に、大河の巨大結界と霊符のことも報告した。巨大結界以上に興味を引かれたらしい、どの程度の絵心だったのかと聞く宗一郎に、思ったままを伝えたら大爆笑だった。そんなにおかしな例えをしたつもりはないのだが。
「霊符ですね。分かりました、写真を送ります。ですが、嫌がるかもしれませんよ?」
「問答無用だ。抵抗するようなら術を行使しても構わん」
 宗一郎は口を押さえながら、震える声で傲慢な台詞を吐いた。
 ただの霊符見たさにそこまで言うか。見世物にされるであろう大河には、同情を禁じ得ない。分かりました、と溜め息交じりに了承しながらペットボトルに口を付け、蓋を閉めながら左近に告げた。
「左近、訓練の続き少し待ってくれ。すぐに戻る」
「どうした」
 ペットボトルを置きながら縁側に上がった宗史は、目を据わらせて肩越しに振り向いた。
「玄関を清める」
 そう言い置いて「母さん、塩!」と叫びながら奥へと足早に向かう宗史の背中を見送り、左近は再度宗一郎へ胡乱な視線を向けた。
「あのようなことがあったとはいえ、やはりあの溺愛ぶりは少々不安にならぬか?」
「昔から可愛がってはいたが、あれから拍車がかかったな。まあ大丈夫だろう……多分」
「つい先ほど、問題ないと断言しておったではないか」
「親心だ。こればかりは本人次第だが、あれも男だからな。そのうち他の女にも目が向くだろう……多分」
「……賀茂家が断絶せぬことを祈るぞ」
「縁起の悪いことを言うな」
 やめてくれ、ほんとに、と切実に呟いた宗一郎の心境を知ってか知らずか、玄関の方から盛大に塩が蒔かれる音が届いた。
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