第8話

文字数 3,589文字

 最寄駅から徒歩十分の位置に建つ地上十七階、地下二階建てのマンションは、数年前に売り出されたファミリータイプの物件だ。
 大手スーパーに薬局、本屋、CDショップ、家電量販店、服飾店、映画館、フードコートなどが入っている駅直結の大型複合商業施設があり、近くには駐在所、公園、総合病院、コンビニも数件ある。周囲は市営公団や戸建てが混合した住宅街が広がり、そこら一帯に防犯カメラが設置してあるという防犯面に関しても文句のつけ所がない立地だ。
 そんな好立地の新築マンションが四LDK3、200万円と破格の値段で売りに出されたのは、繁華街から電車で約三十分。しかも地下鉄の一路線しか通っていないためである。
 しかし、普通に生活する分には何ら支障もなく、ましてや小さな子供連れの家庭には願ってもない物件だ。駅近で買い物は困らないし、夜は十分静かだし、ママ友たちとお茶をするにもわざわざ遠くまで出なくてもいい。
 良い物件を購入した――と、思っていた。
 マンションの十五階の一室のベランダから、二十代後半の母親が幼い女の子を抱えて辺りを眺めている。
 夫とは職場恋愛だった。三年の恋人期間を経て結婚。翌年には娘に恵まれた。
 夫は、平日は忙しくてあまり早く帰ることはないが、休日には娘と一緒に近くの公園へ遊びに行ってくれる。その間に家事を片付け、少し一人の時間を満喫してから買い物帰りに二人と一緒に家に帰る。優しい夫に可愛い娘。不満などこれっぽっちもない――なかったのだ。
 初めてそれに気が付いたのは、確か二年前。リビングのテーブルに置きっぱなしだった夫の携帯が鳴り、つい液晶が目に止まってしまった。「マミ」と。同じ職場だったから、接待でキャバクラだのスナックだの利用するのは理解していた。けれど、その「マミ」はこともあろうか留守電を残したのだ。
「昨日はありがとうございましたぁ。楽しかったですぅ」
 語尾を伸ばし、媚を売るような口調から、初めはホステスの営業電話だと思った。けれど、
「あのホテルいい感じだったからまた行こうねー。また連絡しまぁす」
 目の前が真っ暗になった。この女は一体何を言っているのか、と脳が理解することを拒んだ。これまで築き上げてきた物が足元から崩れ落ちる音が聞こえた。手が震えて、全身から血の気が引く。
 娘を風呂に入れていた夫から声がかかるまで、一体どのくらいの時間立ち尽くしていたのか分からない。その後の記憶も曖昧で覚えていない。
 それから二年。あれ以来「マミ」からの連絡を目撃することはなかったが、夫の携帯が鳴るたびに疑心暗鬼で体が硬直して動けなくなる。それでも自分にできることは精一杯した。掃除も洗濯もお料理も子育ても今まで以上に頑張って、自分に言い聞かせた。魔が刺しただけ、一時のこと、彼の妻は自分で娘もいるのだから、と。
 夫がホステスらしき女と浮気をしているなんてこと、恥ずかしくて誰にも相談できなかった。ましてや両親になんて。
 必死に保ってきた心の糸が切れたのは、久しぶりにかかってきた「マミ」からの電話だった。
 状況が前と同じだったことから、おそらく自宅でも実況さながら頻繁に連絡を取り合っていたのだろう。ではなければあんなタイミング良く、しかもわざわざ留守電なんか残すわけがない。妻である自分だけに聞かせるかのような内容のメッセージなんか。
「昨日は楽しかったでぇす。ねぇ、まだ離婚できないのぉ? あたし早く結婚したぁい。そしたらいつでも一緒にいれるのにぃ。もぅ、早くしないとこっちが別れちゃうぞっ。なんて冗談。じゃあまたね」
 けらけらと笑いながらそう言って「マミ」は電話を切った。
 同時に、彼女の擦り切れた心の糸も容易く切れた。不思議と、すとんと現実を受け止められたのは、無意識にその可能性も考えていたせいかもしれない。
 ああ、もう駄目だな。
 ふっと肩の力が抜けた。築き上げてきた穏やかな生活も、授かった愛しい命も、全部無駄だった。浮気の原因も、離婚を考えるようになった原因もどうでもよくなった。
「ねぇ、里香ちゃん。ママねぇ、もう疲れちゃった」
 虚ろな目で遠くを見つめる彼女の腕に抱かれた幼い少女が、きょとんとした顔で見上げた。
「ママ、つかれちゃったの? じゃありかといっしょにおねんねしよう。そしたらげんきになるよ」
 愛しい娘の労わる声も、もう届かない。
 彼女は娘の柔らかな髪を梳くように撫で、微かに微笑んだ。
「そうねぇ、おねんねしたら、楽になるねぇ」
「うんっ。りかがおふとんひいてあげる」
「里香ちゃんは、優しいわねぇ」
 えへへへ、と照れ笑いをする娘に視線を落とし、彼女は小さく呟いた。
「――ごめんね」
 せっかく生まれてきたのに、ごめんね。
 え? と娘が小首を傾げた瞬間、彼女は娘が使っていた子供用のプラスチック椅子に乗り、ベランダの柵から身を乗り出した。
「ママ? ママッ!?」
 危機感を覚えて、恐怖に駆られた声で呼ぶ。息が止まるほど強く首にしがみつく娘をしっかりと抱きしめ、彼女は空に身を放った。
「キャ――――――――――――ッ!!」
 娘の、耳をつんざくような声が空に響き渡る。
 ほんの数秒後、ドン! と地面に重い物が落下した激しい音で、住民たちが次々にベランダから顔をのぞかせた。ほぼ同時に、マンションの前の歩道から甲高い悲鳴がいくつも上がった。

「愚かな……」
 少女は、女が飛び降りたマンションの屋上からそれを見ていた。
声をかけるでも、誰かに助けを求めるでも、警察に通報するでもなく、ただじっと女が娘を道連れにするのを眺めていた。
 血の池に横たわる二つの遺体の周りにはあっという間に人だかりができ、悲鳴と怒号が響く。
「まだ年端もゆかぬ幼子(おさなご)ではないか」
 濡れた烏の羽のように艶やかな髪を風にさらし、幼い容姿にそぐわない古めかしい口調で独りごちる。
「罪深いことよ……」
 少女はすっと手を眼下に伸ばし、ゆっくりと上げた。
 導かれるように、娘の体から小さな白い丸い玉がふわりと浮き出た。少女が上へ上へと腕を上げると、玉はゆらゆらと揺れながら昇る。
 目の前まで腕を上げると、少女はゆっくりと腕を下ろした。眼前でふわふわと揺れる玉を見据え、少女は言った。
「のう、娘。お前は、生きていて楽しかったか? 友はおったか? 好物は何だった?」
 少女がゆっくりとした口調で語りかけると、玉はまるで泣いているように小刻みに震えだした。
「お前はもう、息をすることも、食べることも、笑うことすらできん。成長して学問を学ぶことも、たくさんの友を作ることも、恋をすることも、ましてや子を成すことも、もうできんのだ。お前をそのようにしたのは、母じゃ。お前を守り、慈しむべきだった母が、己の身勝手な理由でお前の全てを奪った。いくら母とて、子の命を奪う権利はないのだよ。可哀相に。さぞ悔しかろう、憎かろう」
 少女は再度玉に向かって手を差し伸べる。
「哀れな娘よ、我慢することはない。さあ――」
 玉の中心から、泉のようにじわじわと黒が滲む。
「解き放つがいい……!」
 鋭い声で言い放ち拳を握ると、玉は一気に黒く変色し、凄まじい勢いで急降下した。真下には、母だった女の遺体。遺体の腹の部分に白く丸い玉が浮いている。黒い玉は風呂敷のように広がるとそれを包み込み、きゅっと元の大きさに縮んだ。
 母だった女の玉を食った黒い玉は、そのまま勢いよくどこかへ飛んで行った。
 黒い玉が見えなくなるまで見送ると、少女は黒髪を風にさらした。
 と、背後から拍手が届いた。
「さすが、手慣れてますねぇ。煽るのが上手い」
 白の半袖パーカーのフードを被った少年は、拍手をしながら少女に近寄る。柵に捕まり、身を乗り出して下を覗き込んだ。
「うわぁ。よくこんな所から飛び降りるなぁ。僕なら絶対無理だ」
 感心したような呆れたような感想を漏らす口元は、笑みが浮かんでいる。
 少女は少年を一瞥し、踵を返した。
「行くのだろう?」
 少年はポケットから棒つきの飴を取り出し、セロファンを剥がした。
「ええ」
 さっさと屋上の出入口に向かう少女の背後から、ふいと視線を眼下に投げた。
「自業自得」
 明らかな侮蔑が籠った声色で呟いた言葉は、すぐ近くまで来た救急車のサイレンに掻き消された。
「ちょっと待って下さーい」
 飴を銜えながら駆け足で少女の後を追う少年の手から、セロファンが離れる。一瞬強く吹いた湿った風が空高く舞い上げ、攫っていった。
 マンションの下ではパトカーと救急車が到着してさらに人だかりは大きくなっており、正面玄関から外へ出た、見かけない少年と少女に気が付く者は一人もいなかった。
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