第15話

文字数 3,095文字

      *・・・*・・・*

 どのくらいそうしていただろう。沈んでいた意識を現実へ戻したのは、微かに鳴る聞き慣れた音だった。
 ――携帯だ。
 夢現にそう認識して、明はゆっくりと瞼を持ち上げた。
 デスクライトの明かりを反射した天井には、自分の影が映っている。ああ、そうか。やっと自分が何をしていたのか思い出し、静かに息を吐き出す。緩慢な動きで体を起こすと、ぎ、と椅子が軋んだ音を立てた。するりと肩から滑り落ちたブランケットは、陽がかけてくれたものだろう。
 気が利く弟を持って幸せだ。明は力なく微笑んで、鳴り続ける携帯に手を伸ばした。相手は宗一郎。
「何かあったのかな」
 椅子に座り直しながら一人ごち、通話ボタンをタップする。
「はい」
「私だ。……大丈夫か?」
 たった一言で察しないで欲しい。改めて椅子に体を預け、明は微かに苦笑した。
「ええ、まあ。何とか」
「そうか。無茶をするなと言いたいが、お前にしかできないことだ。頼んだぞ」
「分かっていますよ。それで、どうしました?」
「実はな――」
 宗一郎は、楽しげに一連の出来事を語った。
 鬼代事件は長期化しない可能性がある。そう近藤が推理したと紺野から連絡を受けたのは、つい昨夜のことだ。宗一郎へ報告すると、彼は実に楽しげに笑った。紺野とのこともある。ぜひ会ってみたいものだと思っていた矢先の事件だった。
 間違っても救出に失敗することはなかっただろうけれど、こうも楽しげにされると近藤が可哀想だ。
「では、近藤さんはご無事なんですね?」
「ああ」
「それは良かった。しかし、どうして貴方はそう意地悪をするんです? 教えてあげればいいじゃないですか」
「鬼代事件とは無関係だと教えて、油断されては困る。それに、彼らがいつそれに気付いてどう判断したか。報告が楽しみだよ」
「悪趣味ですねぇ」
 要するに、鬼代事件関連か例の拉致計画か、はたまた別件か。茂たちがどう推理し、いつ無関係だと気付くか試したのだ。紺野や茂たちは、気が気ではなかっただろうに。
 呆れ気味の声に、宗一郎は喉を低く鳴らして笑った。
「それにしても――」
 明は目を伏せ、口元に微かな笑みを浮かべた。
「拉致計画でしたか」
「ああ」
 返ってきた一言は、ますます楽しげだった。
 事件そのものは鬼代事件と無関係だったものの、近藤は鬼代事件の全容を知っていて、紺野や下平と繋がりがある。下平は言ったらしい。冬馬は陰陽師と縁がある。ゆえに看過できない、と。今回の件で、ますますそれが正しいと証明された。
 冬馬と下平。結界が反応しない特異性と、縁。おそらく、彼らは――。
「宗史たちは寮で報告を聞いている頃だ。左近も行かせているから十分だろう。お前は鈴から聞きなさい」
「分かりました」
「ではな。よく休めよ」
「ありがとうございます」
 そこで通話は切れた。
 昼間、晴から受けた報告は実に興味深かった。敵側の力量や印象をはじめ、初めて姿を見せた楠井満流、囚われた大河の対処法、皓の意味深な発言。牙が干渉してくることは想定内だったが、まさか大河と満流が二年前に会っていたとは。大河が言うように、何故その時に独鈷杵を奪わなかったのか。また一つ謎が増えてしまった。そして、なかなか面白い宗史の推理。おそらく影綱の日記から思い付いたのだろうが、もし当たっていたとしたら、少々戦況が変わるかもしれない。だが、隗の不可解な行動の謎に気付いているらしい皓の動向にもよるだろう。
 宗一郎は、宗史から同じ報告を受けているはずだ。いつもの彼なら話題にしそうな報告ばかり。それでも振らなかったのは、こちらの体調を気遣ってのことだ。
「あれで、意外と気を使う人だからなぁ」
 からかい目的なのか本気なのか、よく分からない時もあるけれど。
 明は笑いを噛み殺しながら届いていたメッセージを確認して、わずかに眉根を寄せた。宗史からの追加報告だ。大河が省吾から聞いたという、深町弥生の反応。風子の行動は危険なものではあったけれど、その分収穫もあったようだ。しかし、影唯と雪子が身を呈して風子と省吾を守った事実は、弥生にとって受け入れがたいだろう。彼女は裏切られ続けてきた。義父にも、実の両親にも。絶望に絶望が重なり、戦闘意欲を失うか。それとも、さらに憎しみは増すか。どちらにせよ、油断は禁物だ。
 了解、と一言返信し、次は着信履歴を確認する。宗一郎から二度と、八時頃、下平から一度連絡が入っている。近藤の件に関する連絡だったのだろう。宗史からのメッセージも、同じ時間帯に届いていた。唇に指を添え、記憶を掘り起こす。
 現在午後十一時過ぎ。祈祷部屋と呼ぶ部屋は、その名の通り、祈祷や占術専用の部屋だ。そこから出たのは――覚えていない。鈴を召喚したことはうっすら覚えているが、はたしてそれが何時頃だったのか。
「さっぱり記憶にないな……」
 自嘲気味の溜め息をついて、下平へのメッセージを作る。「遅くなりました、電話に出られなくてすみません、お話は宗一郎さんから聞きました、近藤さんがご無事で良かったです」。すぐに返信があった。「お疲れ様です、お仕事だったんですか」。その質問に「はい」と返すと、お疲れ様でした、ゆっくり休んでくださいと返ってきた。ありがとうございます、おやすみなさいと返し、画面をオフにしてデスクに置く。
 背もたれに体を預け、ぼんやりと携帯に目を落とした。
 もしこれが宗一郎や晴だったら、きっとこんなにも疲弊しないのだろう。ましてや大河なら――そこまで考えて、明はゆっくり息を吐きながらひじ掛けに肘をつき、顔を覆った。
 こんな時、嫌になるほど痛感する。自分の霊力量不足を。
 耳が痛いほどの静寂の中、明はくっと自嘲的な笑みを口元に浮かべた。
「お腹が空いたなぁ……」
 時間を忘れて祈祷部屋にこもり、その上眠りこけたせいですっかり夕飯を食べ損ねてしまった。ネガティブな感情は、おそらくそのせいだ。気持ちを立て直すように長く息を吐き、体を起こす。と、扉が鳴った。
「はい」
 携帯へ手を伸ばしながら返事をすると、遠慮がちに扉が開いた。
「失礼します」
 ひょこっと顔を覗かせたのは、陽だ。明は腰を上げてデスクライトを消し、戸口へ向かう。窓から差し込む月明かりが、室内を白く照らした。
「悪かったね、陽。夕飯を一緒に食べられなくて」
「いいえ。一度様子を見に来たら、ちょっと顔色が悪かったので起こさない方がいいかと……大丈夫ですか?」
「大丈夫だよ。ブランケットありがとう」
「いえ」
 心配そうにこちらを見上げるので微笑んでやると、陽はほっと表情を緩めた。部屋を出て、扉を閉める。自宅へと続く庭に面した廊下を並んでゆっくり歩きながら、陽が再び心配そうな顔を向けてきた。
「あの、宗一郎さんから連絡をもらいました。近藤さんは……」
「ああ、大丈夫。ご無事だ」
 陽がぱっと顔を輝かせた。明と連絡がつかないため、陽に直接状況を報告したらしい。晴は寮にいるようだし、いつまで経っても戻らなければ心配すると思ったのだろうか。
「そうですか、良かった。あっ、ご飯食べられますか?」
「うん。食べながら話すよ」
「分かりました」
「メニューは何だった?」
「鶏のつみれと白菜の煮物です」
「ああ、嬉しいなぁ。あれ美味しいんだよね」
「にんじんもちゃんと食べてくださいね」
「……」
「黙らないでください」
「晴はいつ頃帰ってくるかな?」
「話を逸らさないでくださいっ」
 逃げるように顔を庭へ向けた明に、陽が鋭く突っ込む。
 もうっ、と吐き出すふくれ面の陽と、くすくすとした明のひそやかな笑い声が次第に遠ざかり、虫の音だけが残った。
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