第7話

文字数 2,537文字

      *・・・*・・・*

 相手が誰であれ、どこに潜んでいるか分からない。鎮守の森か参道か。はたまた敷地外か。悪鬼の邪気に紛れるのは、何もこちらだけではない。相手の霊気も分かりづらくなる。さらに、上からでは姿を視認できない。
 木のてっぺんで待機していたのは、おそらく土御門明の式神の閃だろう。彼を巨大悪鬼に任せ、下からの攻撃を警戒しつつ慎重に移動した先、鳥居の前で待ち構えていたのは、成田樹と里見怜司だった。寮内最強コンビ。相手に不足はない。
 皓が「面白そうねぇ」と言ったため、じゃあ弥生ちゃんたちのはあたしが引く、と意気込んだ真緒に任せたが、良いクジ運だ。今頃、平良は残念がっていることだろう。戦いを放棄しなければいいけれど。
「気を付けろ。……成田樹は俺が相手をする」
「分かった」
 わずかな間に、気遣いが見えた。こちらを見上げる樹と怜司を見下ろしながら健人に告げられ、弥生は小さく頷いた。
 寮襲撃の日。あの時、昴を含めた全員が電話で繋がっていた。賀茂家でのこともあり、会合の様子を聞いたのは途中からだったけれど、驚き以上に心底腹が立った。恋人を凌辱され失ったにも関わらず、怜司は樹を止めた。もういいと言った。何がどういいのか、今でもさっぱり理解できない。二年かけて草薙たちを追いつめておきながら、奴は直前で怖気づいたのだ。
 所詮、他人には分からないのだと思った。女として、人としての尊厳を土足で踏みにじられたことのない奴に、自分たちの気持ちは分からない。
 だから、健人の気遣いは嬉しいけれど、的外れでもある。
 そもそも妥当な判断なのだ。本音を言えば、一度くらい手合わせを願いたいところだが、樹は平良ご執心の相手だ。未だ平良から一勝を勝ち取れない自分には、荷が重い。それに、奴は何をしてくるか分からない。いくらでも身を潜める場所はあるのに、こんな所で堂々と待ち構えているのだ。絶対に何かある。
 弥生は犬神に、健人は悪鬼に片腕を絡め取られ、樹と怜司の頭上をゆっくりと移動する。犬神と悪鬼が、侵入防止柵の上で動きを止めた。とたん。
「右近、左近ッ!」
 樹が鋭く叫んだ。賀茂家の式神の名。まさか、そんなはずはない。そう一瞬だけでも考えたのが良くなかった。
 社号碑の影から飛び出してきたのは、二体の水龍。大きく開けた口の前に、ひと抱えほどの水塊を顕現させている。間髪置かず、ぎょっと目を丸くした弥生と健人目がけて勢いよく放たれた。
 一方、犬神と悪鬼はすぐに反応して横へ避けた。しかし反応が遅れたせいで体が付いていかず、水塊が脇腹を掠った。シャツ越しの摩擦熱に、くっと小さく呻いて眉をひそめたのはほんの一瞬。続けざまに放たれていた二発目が、防御する間もなく腹へぶち当たった。
「ぐ……っ」
 景色が前方へ流れ、とどめと言わんばかりに三発目が激突して二発目と融合し、質量と速度を増す。勢いに押されるがまま後方へ吹っ飛ばされ、あっという間に道路を越えた。
 弥生は、腹に力を入れて苦悶の表情を浮かべた。時速何十キロくらい出ているのだろう。まるで鉄球を押しつけられたような腹への圧迫感。息苦しい。
 不意に、犬神が長く伸ばした尻尾を振り上げ、水塊目がけて振り下ろした。
「やめなさい……っ」
 絞り出した命令に、尻尾がぴたりと止まる。周辺には民家があるのだ。今ここで破壊すれば、破裂音や大量の水音で人が集まる。
バスのロータリーと停留所、世界遺産熊野本宮館の屋根が足元を流れ、そのまま河川敷へ到達した。どこまで吹っ飛ばされるか分からない。急がなければ。
 後ろからの風圧で重いが、動かせないほどではない。とはいえ抵抗は少ない方がいい。弥生は霊刀を消し、わずかに煽られながら水塊の近くまで腕を持ち上げた。霊刀を再度具現化して突き刺し、ぎりっと奥歯を噛み締める。息を止めて、一気に横へ薙いだ。
 水塊に横一文字の切り目が入り、とたんに失速する。腹への圧迫感が和らぎ、同時に犬神が斜め後ろへ移動した。半身を下げると、水塊が体の表面を撫でるように通り過ぎた。
「は……っ」
 弥生は短く息を吐き出して、何度も咳き込んだ。中途半端に切り裂いたからだろうか。視界の端で、弾けることなくゆっくりと宙を滑る水塊が、霧雨を降らしながら次第に形を失ってゆく。その向こう側に、ほとんど消えかけている水塊が見えた。健人も無事逃れたようだ。
「弥生!」
 不意に、下から健人の声が響いた。犬神が、気を使っているのか、ゆっくりと高度を下げる。
 着地すると犬神が腕からするりと離れ、弥生は脱力するように膝から崩れ落ちた。息苦しさに加え、全身に無駄な力が入っていたせいで、嫌な疲労感に襲われる。
 全身で呼吸を整える弥生に、犬神が心配そうに寄り添った。
「大丈夫か」
 健人が悪鬼を従えて小走りに駆け寄ってきた。弥生は、最後に一つ大きな深呼吸をして長く吐き出すと、ええと頷いて顔を上げた。清らかで密やかな水音が聞こえ、周囲を見渡す。
 時間にして一分かそこらだっただろうに、ずいぶんと飛ばされたらしい。すぐ側には水が流れ、向こう側は砂地が広がり、山が迫っている。頼りない月の光でも、こうも開けていれば、慣れればある程度は夜目が利く。
「神社から引き離しに来るかもとは思っていたが、またずいぶんと大胆な手に出たな」
 健人が、視線を巡らせながら溜め息を交じりに言った。確かに、神社から引き離しにかかる可能性があることは織り込み済みだった。けれど、まさかあんな手段に出るとは。
 弥生は土手の方に視線を投げると、長く息を吐き出し、ゆっくりと立ち上がった。二つの黒い人影と宙を滑る二つの物体が、こちらへ向かっている。
「何が右近、左近よ。あいつ嘘がつけないはずでしょ」
 平良が林良親から聞いた話ではそう言っていたはずだ。それなのに、成田樹は躊躇いなく口にした。式神が一カ所に三体も配置されるはずがないと確信していたことと、成田樹の性格を知っていたからこそ一瞬困惑し、反応が遅れた。
 しかめ面でぼやいた弥生に、健人は影を見据えたまま言った。
「いや、あれは嘘じゃない」
「は?」
「そうだよ。僕、嘘なんかついてないよ」
 訝しげに眉を寄せると、樹の心外そうな声が河川敷に響いた。
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